承継
この追悼サイトは、 吉村 昭(多彩な長編歴史文学で知られる作家)さまのために作成されました。

享年79歳 、誕生日 1927年5月1日、命日 2006年7月31日
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吉村 昭(よしむら あきら、1927年昭和2年)5月1日 - 2006年平成18年)7月31日)は、日本小説家

東京府北豊島郡日暮里に生まれ、学習院大学を中退[2]1966年(昭和41年)に『星への旅』で太宰治賞を受賞した[2]。同年発表の『戦艦武蔵』で記録文学に新境地を拓き、同作品や『関東大震災』などにより、1973年菊池寛賞を受賞した[2]。現場、証言、史料を周到に取材し、緻密に構成した多彩な記録文学、歴史文学の長編作品を次々に発表した[2]日本芸術院会員。小説家津村節子の夫[3]

経歴[編集]
生い立ち[編集]
日暮里町大字谷中本(現在の東京都荒川区東日暮里)に生まれる。父吉村隆策、母きよじの八男[4]。父は、百貨店寝具店への卸売や、鉱山などに納入するふとん綿を製造する工場と綿糸紡績の工場の経営をしていた[5]。昭が生まれたとき、吉村家の事業は順調に推移していた[6]。家は平屋建てで物干台がついていた[6]。住み込みの工員もいて、母は大家族の料理をあつらえた[7]

吉村家には文学的な雰囲気はなかったが、兄たちの中では三番目の兄英雄が、昭が中学校に入る頃から小説に興味を抱いたらしく芥川賞直木賞受賞作の単行本などを買って読むようになった[8]

学生時代[編集]
日暮里町の東京市編入後の1934年(昭和9年)4月、東京市立第四日暮里尋常小学校へ入学[9]1940年(昭和15年)4月、私立東京開成中学校に入学した[10]。在学中に、家庭教師(東京帝国大学法学部3年生)の指導で岩波文庫などの古典日本文学などを読むようになり、読書の楽しみを知る[11]。また、中学2年生のとき『ボートレース』と題する作文が校内雑誌に掲載された[12]寄席通いを好んだが、太平洋戦争下であり、補導員の目をかいくぐりながら、鈴本演芸場人形町末広神楽坂演芸場へ通った[13]肋膜炎肺浸潤で欠席が多かったが、1945年(昭和20年)3月、戦時特例による繰上措置のため卒業できた。しかし教練の成績が悪かったため上級校に進学できず、予備校生活を送る。

1944年(昭和19年)に母が子宮癌で死去し、敗戦直後の1945年(昭和20年)12月に父が癌で死去する。1946年(昭和21年)、旧制学習院高等科文科甲類に合格するも、両親が亡くなったため将来の就職のことを考えて理科志望に転じ、学習院の入学式には出席せず、岡山市第六高等学校理科を受験したが失敗、再び予備校に通学する。1947年(昭和22年)、旧制学習院高等科文科甲類に入学する。岩田九郎教授に師事して俳句を作る

1948年(昭和23年)1月5日に喀血し、同年9月17日、東京大学医学部附属病院分院にて胸郭成形手術を受け、左胸部の肋骨5本を切除した。この大病がもとで旧制学習院高等科を中途退学する。療養生活を経て、1950年(昭和25年)4月、新制学習院大学文政学部文学科に入学する。文芸部に所属し、放送劇を書く。この頃から作家を志望するようになる。一方で部費捻出のために大学寄席を催し、古今亭志ん生を呼んで好評を博した。

1952年(昭和27年)、文芸部委員長になり、短篇を『學習院文藝』改称『赤繪』に発表する。川端康成梶井基次郎に傾倒する。同年7月11日、岩田の紹介で他の文藝部員4人と先輩にあたる三島由紀夫に会い、河出書房版『仮面の告白』の署名入り単行本を贈られた。

創作に熱中して講義を受けなくなった上、必修科目である体育の単位を取るだけの体力がなく、さらに学費を長期滞納していたため、1953年(昭和28年)3月に大学を除籍となった。三兄の経営する紡績会社に入社するも、同年10月末に退社した(ただし大学については後に学費を追納した上で寄付金を納め、除籍ではなく中退扱いとなった[14])。11月5日、文芸部で知り合った北原節子(後年の小説家津村節子)と結婚する。

作家として[編集]
繊維関係の団体事務局に勤めながら、丹羽文雄主宰の同人誌『文学者』、小田仁二郎主宰の同人誌『Z』などに短篇を発表する。

1958年(昭和33年)2月、短篇集『青い骨』を自費出版する。6月、『週刊新潮』に短篇「密会」を発表して商業誌にデビューする。

1959年(昭和34年)1月、「鉄橋」が第40回芥川賞候補に、7月に「貝殻」が第41回芥川賞候補に、1962年(昭和37年)に「透明標本」が第46回芥川賞候補に、同年「石の微笑」が第47回芥川賞候補になるも受賞を果たせず、1965年(昭和40年)に妻の津村節子が受賞した。この間に、受賞の知らせを受けて自動車で駆けつけると間違いだったということが起きている(『私の文学漂流』より)。

1966年(昭和41年)に『星への旅』で第2回太宰治賞を受賞する。この年、長篇ドキュメント『戦艦武蔵』が『新潮』に一挙掲載されたことでようやく作家として立つことになった1972年(昭和47年)、遣独潜水艦作戦を描いた『深海の使者』により第34回文藝春秋読者賞を受賞する。1973年(昭和48年)、『戦艦武蔵』『関東大震災』など一連のドキュメント作品で第21回菊池寛賞を受賞する。

1979年(昭和54年)、『ふぉん・しいほるとの娘』で吉川英治文学賞を受賞する。1985年(昭和60年)、『冷い夏、熱い夏』で毎日芸術賞を、『破獄』で讀賣文学賞および芸術選奨文部大臣賞を受賞する。1987年(昭和62年)、日本芸術院賞を受賞する。1994年(平成6年)、幕末に起きた天狗党の乱をテーマとした『天狗争乱』で大佛次郎賞を受賞する。1997年(平成9年)、日本芸術院会員になる。2003年(平成15年)には妻の津村節子も会員となっている。

日本文芸家協会理事、日本近代文学館理事、日本芸術院会員(1997年12月15日付発令)。2004年(平成16年)から2006年(平成18年)まで日本芸術院第二部長

1999年(平成11年)、日本文藝家協会理事長の江藤淳の死去により、理事長代行に就任し、2000年(平成12年)まで務めた。

晩年[編集]
2005年(平成17年)春に舌癌と宣告され、さらにPET検査により膵臓癌も発見され、2006年(平成18年)2月には膵臓全摘の手術を受けた。退院後も短篇の推敲を続けたが、新たな原稿依頼には応えられなかった。同年7月30日夜、東京都三鷹市の自宅で療養中に、看病していた長女に「死ぬよ」と告げ、みずから点滴の管を抜き、次いで首の静脈に埋め込まれたカテーテルポートも引き抜き、数時間後の7月31日午前2時38分に死去。79歳だった。遺稿「死顔」は、『新潮』 2006年10月号に掲載された[注釈 1]。墓所は新潟県南魚沼郡湯沢町の大野原墓苑。
主な作品[編集]
→「吉村昭の歴史小説」も参照
  • 『密会』(日活映画化 1959年/再刊 講談社、1974年、のち文庫化、新編『透明標本』学芸書林)
  • 『少女架刑』(南北社 1963年)(翻訳:仏)(演劇化 2006年 仏)(演劇化 「諏訪会」2009年 日)
  • 『孤独な噴水』(講談社 1964年 のち文庫、文春文庫
  • 『星への旅』(筑摩書房 1966年 のち新潮文庫)(太宰治賞
  • 戦艦武蔵』(新潮社 1966年 のち文庫)(翻訳:英)
  • 『水の葬列』(筑摩書房 1967年 のち新潮文庫)
  • 高熱隧道』(新潮社 1967年 のち文庫)
  • 『海の奇蹟』(文藝春秋 1968年 のち角川文庫
  • 大本営が震えた日』(新潮社 1968年 のち文庫)
  • 零式戦闘機』(新潮社 1968年 のち文庫)(翻訳:英)
  • 『彩られた日々』(筑摩書房 1969年)
  • 『神々の沈黙 心臓移植を追って』(朝日新聞社 1969年 のち角川文庫、文春文庫、『消えた鼓動』ちくま文庫
  • 『海の壁 三陸沿岸大津波』(中公新書 1970年)、新版『三陸海岸大津波中公文庫、文春文庫
  • 『戦艦武蔵ノート』(図書出版社 1970年 のち文春文庫、岩波現代文庫
  • 『陸奥爆沈』(新潮社 1970年 のち文庫)
  • 『細菌』(講談社 1970年 のち文庫『蚤と爆弾』、文春文庫)※関東軍細菌兵器を扱う
  • 『空白の戦記』(新潮社 1970年 のち文庫)
  • 『めっちゃ医者伝』(新潮少年文庫、1971年 『雪の花』文庫)※笠原良策を描く
  • 『羆』(新潮社 1971年 のち文庫)
  • 『鉄橋』(読売新聞社 1971年)
  • 『逃亡』(文藝春秋 1971年 のち文庫)
  • 『背中の勲章』(新潮社 1971年 のち文庫)
  • 『密会』(講談社 1971年 のち文庫)
  • 『日本医家伝』(講談社 1971年 のち文庫、中公文庫)
  • 雪の花」            他、多数あり
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 吉村昭記念文学館 東京都荒川区荒川2-50-1 荒川区立ゆいの森あらかわ内 03-3891-4349

※注:このサイトは、吉村昭に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝
このメッセージは、 2024年12月11日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
数々の多彩な歴史小説を書いた吉村昭、 その中より江戸時代に天然痘から人々を救おうと奮闘した福井藩医師・笠原良策を描いた作品が映画化されます。
2025年1月24日全国公開される 松竹映画「雪の花」ーともに在りてー 
吉村作品の真髄がうかがえる事でしょう。    合掌

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メッセージ
このメッセージは、 2024年12月11日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
数々の多彩な歴史小説を書いた吉村昭、 その中より江戸時代に天然痘から人々を救おうと奮闘した福井藩医師・笠原良策を描いた作品が映画化されます。
2025年1月24日全国公開される 松竹映画「雪の花」ーともに在りてー 
吉村作品の真髄がうかがえる事でしょう。    合掌