承継
この追悼サイトは、 アルベール・ カミュ(史上2番目の若さでノーベル文学賞を受賞した作家)さまのために作成されました。

享年46歳 、誕生日 1913年11月7日、命日 1960年1月4日
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アルベール・カミュフランス語: Albert Camus、フランス語発音: [albɛʁ kamy] ( 音声ファイル)、1913年11月7日 - 1960年1月4日)は、フランス小説家劇作家哲学者随筆家記者評論家

概説[編集]フランス領アルジェリア出身。第二次世界大戦中に刊行された小説『異邦人』、エッセイ『シーシュポスの神話』などで「不条理」の哲学を打ち出して注目され[1]、戦後はレジスタンスにおける戦闘的なジャーナリストとして活躍した。また『カリギュラ』『誤解』などを上演し、劇作家としても活動した。戦後に発表した小説『ペスト』はベストセラーとなり、エッセイ『反抗的人間フランス語版英語版)』において左翼全体主義を批判し、反響を呼んだ。小説『転落』発表の翌年、1957年、史上2番目の若さでノーベル文学賞を受賞した。

1960年、交通事故により急死し、未完に残された小説『最初の人間フランス語版)』が1994年に刊行された。

カミュの著作は「不条理」という概念によって特徴付けられている。カミュの言う不条理とは、明晰な理性を保ったまま世界に対峙するときに現れる不合理性のことであり、そのような不条理な運命を目をそむけず見つめ続ける態度が「反抗」と呼ばれる。そして人間性を脅かすものに対する反抗の態度が人々の間で連帯を生むとされる。

カミュの文学的営為は、病気、死、災禍、殺人、テロ、戦争、全体主義など、人間を襲う不条理な暴力との闘いだった。それに対して、彼は一貫してキリスト教や左翼革命思想のような上位審級を拒否し、超越的価値に依存することなく、人間の地平にとどまって生の意味を探しもとめた。彼は「父」としての「神」も、その代理人としての「歴史」も拒否した。

カミュは何よりも時代の妥協しない証言者であった。彼は絶えずあらゆるイデオロギーと闘い、実存主義マルクス主義と対立した。ソビエト全体主義に対する批判は、彼をコミュニストたちと対立させ、サルトルと絶交するに至った。彼の著作のヒューマニズムは、歴史の最悪の時期における経験のなかで鍛えられたものであり、この意味で、彼は20世紀のもっとも高いモラルを体現した人物のひとりである[2]

日本で活動するタレントセイン・カミュは従孫(兄の孫)にあたる[3]

1932年バカロレアに合格しアルジェ大学文学部に入学、在学中の1934年、カミュは眼科医の娘であったシモーヌ・イエと学生結婚するが、これをきっかけに結婚に反対していた叔父と疎遠になり、カミュはアルバイトやイエの母親からの支援を受けながら学生生活を続けた。しかし奇矯で派手好きなシモーヌとの生活はやがて破綻し、後に離婚にいたることになる。カミュは1935年にグルニエの勧めもあって共産党に入党している。カミュは共産主義の思想自体にはそれほど共感を寄せていなかったが(マルクスエンゲルスもほとんど読んでいなかった)、党の文化活動の一環として劇団「労働座」の創設に関わり、アンドレ・マルローの『侮蔑の時代』を翻案し舞台にあげるなどした。しかし党幹部とアラブ人活動家たちとの間で板ばさみになり、最終的に党から除名処分を受けている。

1947年、極限状態での市民の連帯を描いた小説『ペスト』を刊行、復興期のフランス社会で幅広い読者を得てその文名を高めた。同年の夏に、生涯の友となる詩人、ルネ・シャールと出会う。しかし、1952年に刊行されたエッセイ『反抗的人間フランス語版英語版)』は毀誉褒貶を受け、特にサルトルは一切の政治的暴力を斥けるその「反抗」の論理を、革命へと踏み出さない曖昧な態度だとして徹底的に批判した(カミュ=サルトル論争)。さらにカミュは故郷で起こったアルジェリア戦争に対しても、フランスとアラブの共同体という考えを捨てきれずに曖昧な態度を取って批判を受け、これらによってフランスでの彼は次第に孤立を深めていった。

ノーベル賞とその死[編集]1956年、現代人の二重性と罪の意識をテーマにした中編『転落』を発表、翌年6篇からなる短編集『追放と王国』を発表した。同年、彼の「この時代における人類の道義心に関する問題点を、明確な視点から誠実に照らし出した、彼の重要な文学的創作活動に対して」[5]ノーベル文学賞が贈られた。当時カミュは43歳であり、これは戦後では最年少の受賞である(史上最年少はラドヤード・キップリング)。しかしアルジェリア戦争をめぐる政治的態度やサルトルとの論争で左右両翼やアラブ人からも非難を浴びていたカミュへの授賞に対し、当時のフランスは冷淡だった[6]

小説[編集]
  • 1942年 - 『異邦人』(L'Étranger
  • 1947年 - 『ペスト』(La Peste
  • 1956年 - 『転落』(La Chute
  • 1957年 - 『追放と王国』(L'Exil et le Royaume)- 短編集
  • 1971年 - 『幸福な死』(La Mort heureuse)-『異邦人』の初期草稿で、1936年から1938年にかけて執筆された。大筋は完成していたが放棄され、カミュの死後に刊行された。
  • 1994年 - 『最初の人間』(Le Premier Homme)- 1950年代半ばに構想し、1959年から執筆を開始したが、翌1960年にカミュが交通事故により早世したため未完に終わった遺作。
フランス文学黄金期の中で燦然と輝いたカミュは、至って真面目な人物でした

「ペスト」の舞台オラン市。実際にはこの都市でペストが大流行したことはありません
 「ペスト」の舞台オラン市。実際にはこの都市でペストが大流行したことはありません

※注:このサイトは、アルベール・カミュに関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝
このメッセージは、 2024年6月25日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
極限状態での市民の連帯を描いた小説「ペスト」は、直近のコロナ感染を連想させます。 「不条理」の哲学を打ち出し、追及した作家です。  合掌

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このメッセージは、 2024年6月25日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
極限状態での市民の連帯を描いた小説「ペスト」は、直近のコロナ感染を連想させます。 「不条理」の哲学を打ち出し、追及した作家です。  合掌
軌跡

(少年時代)

1913年フランス領アルジェリアのモンドヴィ(現ドレアン)近郊に生まれる。父リュシアン・オーギュスト・カミュは、農場労働者であったが、19世紀初め彼の祖父がフランスからアルジェリアに渡ってきた。父リュシアンはスペイン系の大家族の娘であるカトリーヌ・サンテスと結婚、リュシアンとカミュの二人の息子をもうけている。しかしカミュが生まれた翌年、この父はマルヌ会戦で戦死した。以後母と2人の息子はアルジェ市内のベルクール地区にある母の実家に身を寄せた。この家には祖母のほかに叔父が一人同居していたが、聴覚障害のあった母親も含め、読み書きできるものは一人もいなかった。カミュはこの家で、貧しくはあったが地中海の自然に恵まれた幼少期を過ごした。