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この追悼サイトは、 佐々 淳行’(警察官僚、連合赤軍あさま山荘事件などを指揮)さまのために作成されました。

享年87歳 、誕生日 1930年12月11日、命日 2018年10月10日
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佐々 淳行(さっさ あつゆき、1930年昭和5年〉12月11日 - 2018年平成30年〉10月10日)は、日本警察防衛官僚危機管理評論家

東京大学法学部卒業後、国家地方警察本部(現・警察庁)に入庁。目黒警察署をふりだしに「東大安田講堂事件」「連合赤軍あさま山荘事件」などで警備幕僚長として危機管理に携わる。1986年からは初代内閣官房安全保障室長を務め、昭和天皇大喪の礼を最後に退官。その後、文筆、講演、テレビ出演と幅広く活躍。「危機管理」という言葉のワードメーカー。1993年、『東大落城』で文芸春秋読者賞を受賞[1]

警察官僚として[編集] 入庁後は、目黒警察署警察大学校助教授、アメリカへの国費留学などを経て警視庁公安部外事課長代理となる。ソ連や北朝鮮などのスパイ事件の捜査指揮、第一次安保闘争末期の警備実施、アナスタス・ミコヤンソ連第一副首相来日の警護なども経験する。この際、伊藤忠社員時代の瀬島龍三をソ連のスパイとして捜査していた[10]
27歳の若さで当時の大分県警本部長・富田朝彦の下で警務部長に抜擢され着任。旧自治体警察時代の名残りが強く、地元指定暴力団との癒着や汚職が多発していたため、警察署長や県警幹部を次々に処分。「首切り浅右衛門」の異名をとった。

その後、大阪府警察警備部外事課長を経て1964年1月よりケネディ大統領暗殺事件調査のため渡米。帰国後は東京オリンピックの際の警備や亡命者の処遇を担当した。

三島事件 1970年11月25日に起きた「三島事件」の際は警視庁警務部参事官兼人事第一課長だったが、上司の土田國保・警視庁警務部長から「君は三島由紀夫と親しいのだろ。すぐ行って説得してやめさせろ」と指示を受け、警視庁から市谷の現場に駆けつけたが、三島自決には間に合わなかった。

後年佐々は、遺体と対面しようと総監室に入った時の様子を「足元の絨毯がジュクッと音を立てた。みると血の海。赤絨毯だから見分けがつかなかったのだ。いまもあの不気味な感触を覚えている」と述懐している[12][13]

あさま山荘事件

1971年11月、警察庁警備局付警務局監察官となる。この人事は警察庁警備局長・富田朝彦の意向で行われた変則的なものであった。慣例で警視正では警察庁課長職にはなれないため、空きがあった課長相当の警務局監察官となる。 局議で富田警備局長は「佐々警視正には警備課長の任務を区処して警視庁管内の警備を担当させ、それ以外は鈴木貞敏警備課長を担当とする」と各課長へ周知した。警備局では事実上の無任所課長として、極左暴力集団の事件、及び関連する警備実施の指揮を任された。1972年2月、あさま山荘事件[11]に警備実施及び広報担当責任者として、警察庁長官・後藤田正晴の指示で現地に派遣された。

警備局外事課長/警備課長

1972年7月警察庁警備局外事課長となり、金大中事件シンガポール事件文世光事件に対応。1974年8月警察庁警備局警備課長に就任し、三菱重工爆破事件ジェラルド・フォードアメリカ合衆国大統領来日警備、エリザベス女王来日警備、ひめゆりの塔事件クアラルンプール事件など日本赤軍によって起こされた一連の日本航空ハイジャック事件などに対応した。

ひめゆりの塔事件」では、7月17日皇太子到着当時、皇太子および同妃の訪問に先立ち地下壕内の安全確認を主張したものの、沖縄県知事沖縄県警察の担当者らに「『聖域』に土足で入るのは県民感情を逆なでする」と反対されたために実施できなかった[14]

晩年[編集]  晩年も活発に著作・講演活動を続け、またテレビ番組にコメンテーターとして出演していた。2018年10月10日午前2時40分、老衰のため東京都内の病院で死去[32][33][34]。87歳没。
栄典・受賞歴[編集]
著書[編集]
  • 『目黒警察署物語 佐々警部補パトロール日記』 文藝春秋、1989.10、のち文庫。挿絵は自らの手による。
  • 『目黒署10人の刑事 佐々警部補シリーズ』 文藝春秋 1990.4、文庫改題「美人女優と前科七犯」 
  • 『目黒署アベック殺人事件 佐々警部補シリーズ完結篇』 文藝春秋 1990.11
  • 『金日成閣下の無線機』 読売新聞社 1992.4。改題『謎の独裁者・金正日』文春文庫 
  • 『危機の政治学』 新潮社 1992.9、のち文春文庫「-ハンガリー事件から、湾岸戦争、ソ連邦崩壊まで」 
  • 東大落城 安田講堂攻防七十二時間』 文藝春秋 1993、のち文庫  
  • 『平時の指揮官 有事の指揮官』 クレスト社 1995.4、のち文春文庫 
  • 『危機管理宰相論』 文藝春秋 1995.12
  • 『六男二組の約束 戦争と先生と59人の子供たち』 TBSブリタニカ 1995.12
    • 改題『「六男二組」の太平洋戦争』小学館文庫 /『戦時少年佐々淳行―父と母と伊藤先生』文春文庫  
  • 『連合赤軍「あさま山荘」事件』 文藝春秋、1996、のち文庫、※映画『突入せよ! あさま山荘事件』原作
  • 『香港領事動乱日誌 危機管理の原点』 文藝春秋 1997.6。改題「香港領事佐々淳行 香港マカオ暴動、サイゴン・テト攻勢」文庫
  • 『さらば臆病国家ニッポン 指導者よライオンになれ』 文藝春秋 1998.8
  • 『日本の警察 「安全神話」は終わったか』 PHP新書 1999
  • 『わが上司 後藤田正晴 決断するペシミスト』 文藝春秋 2000、のち文庫 
  • 『後藤田正晴と12人の総理たち もう鳴らない“ゴット・フォン”』 文藝春秋 2006、のち文庫
  • 『仕事の<実例>「危機管理」術』 三笠書房 2001。「重大事件に学ぶ「危機管理」」文春文庫 
  • 『焼け跡の青春・佐々淳行 ぼくの昭和20年代史』 文藝春秋 2003、のち文庫
  • 『インテリジェンス・アイ ―危機管理最前線』 文藝春秋 2005。改題「危機管理最前線」文春文庫
  • 『軍師・佐々淳行 反省しろよ慎太郎、だけどやっぱり慎太郎 ―危機管理最前線2』 文藝春秋 2007。改題「わが「軍師」論」文春文庫    
  • 『菊の御紋章と火炎ビン ―「ひめゆりの塔」と「伊勢神宮」が燃えた「昭和50年」』 文藝春秋 2009、のち文庫 - 激動の1975年を回想記
  • 『一隅を照らす行灯たちの物語 実践的青少年教育のノウハウ』 冨山房インターナショナル 2009.5
  • 『わが記者会見のノウハウ ―スキャンダル克服の秘訣』(文藝春秋、2010.2)、文庫改題「「危機管理・記者会見」のノウハウ」
  • 『ザ・ハイジャック-日本赤軍とのわが「七年戦争」』(文藝春秋、2010.11)、のち文庫(志方俊之解説)-「よど号事件」ほか
  • 『彼らが日本を滅ぼす』(幻冬舎、2011.2)
  • 『ほんとに彼らが日本を滅ぼす』(幻冬舎、2011.7)
  • 『救国の八策』(幻冬舎、2012.7)
  • 『佐々淳行の危機の心得 名もなき英雄たちの実話物語』(青萠堂、2012.9)
  • 『「国土」喪失。なぜ日本は領土を守れないのか』(PHP研究所、2012.12)
  • 『インテリジェンスのない国家は亡びる 内閣中央情報局を設置せよ!』(海竜社、2013.8)
  • 『私を通りすぎた政治家たち』(文藝春秋、2014.9)、のち文庫
  • 『私を通りすぎたマドンナたち』(文藝春秋、2015.7)、のち文庫
  • 『重要事件で振り返る戦後日本史 日本を揺るがしたあの事件の真相』SBクリエイティブSB新書〉、2016年1月。ISBN 9784797385670。単行版2018年
  • 『私を通りすぎたスパイたち』文藝春秋、2016年3月。ISBN 9784163904276。- 「佐々メモ」による最終作
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            日本中が見つめた「あさま山荘事件」
時事通信
現場は、雪深い真冬の南軽井沢。気温が氷点下10度になることもあった。山荘の屋根には、何本ものつららができていた。

あまりの寒さに、捜査関係者の弁当や靴も凍ったという。

機動隊員らは日清食品の「カップヌードル(1971年発売)」を頬張った。その姿がテレビに映ったことで、一気に知名度が高まったとされる。
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時事通信
立てこもりから10日が経った2月28日。警察は人質救出のため、突入を決断。鉄球で山荘の外壁を破壊。高圧放水で制圧しつつ、催涙弾を打ち込んだ。

追い詰められた5人はライフルや猟銃、爆弾で反撃した。

作戦開始から8時間超。犯人5人は全員逮捕され、人質も保護された。

一方で、犠牲者も出た。事件解決までに、警察官2名と山荘に近づいた民間人1人の計3人が死亡。TVカメラマンを含む27人が負傷した。
※注:このサイトは、佐々淳行に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝

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軌跡

(生い立ち)

熊本県出身の政治学者で、朝日新聞論説委員、参議院議員などを務めた佐々弘雄の次男として、東京市麻布区(現・東京都港区)に生まれる。戦国武将佐々成政の末裔の家系でもある。6歳のとき自宅近くで二・二六事件が発生。その戒厳下の体験が危機管理人生の出発点となったという。

またゾルゲ事件で逮捕された尾崎秀実と父の弘雄は朝日新聞の同僚記者として親交があり、ともに近衛文麿のブレーンとして昭和研究会朝食会に参加していた[2]。尾崎は自宅に来ることも多く[3]ゾルゲ事件が発覚すると、父の書斎にあった手紙、書類、名刺などを兄とともに焼却した[4]。父の弘雄は終戦まで特別高等警察憲兵隊の捜査対象になったが、逮捕はされなかった[5]

(学生時代)

旧制成蹊高等学校を経て[6]1954年(昭和29年)3月に東京大学法学部第3類(政治コース)を卒業。東京大学在学中は、学生研究会土曜会の中心メンバーとして活動し、若泉敬粕谷一希らと交流を持った。

東京大学法学部教授の堀豊彦から学士助手として大学に残るよう勧められたが、朝鮮戦争や過激化する左翼運動といった世相の中、警察三級職試験(現・国家公務員採用総合職試験)を受験して国家地方警察本部(現・警察庁)に入庁した[7]。警察三級職試験の合格席次は2番であった[8]。若泉は保安研修所(現・防衛研究所)入りし学究の道に入った。粕谷は佐々が学者、若泉が実務家の適性を持っていると思っていたため、それぞれの選択を意外に思ったという[9]