この追悼サイトは、 滝沢 馬琴(南総里見八犬伝を書いた江戸時代の作者)さまのために作成されました。
享年81歳 、誕生日 1767年7月4日、命日 1848年12月1日
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曲亭 馬琴/滝沢馬琴(きょくてい ばきん/たきざわ ばきん、明和4年6月9日〈1767年7月4日〉- 嘉永元年11月6日〈1848年12月1日〉)は、江戸時代後期の読本作者。本名は滝沢 興邦(たきざわ おきくに、旧字体:瀧澤 興邦 )、後に解(とく)に改めた。号は著作堂主人(ちょさくどうしゅじん)など。
代表作は『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』。ほとんど原稿料のみで生計を営むことのできた日本で最初の著述家である[1]。
曲亭馬琴という戯号について、馬琴自身は「曲亭」は『漢書』陳湯伝に「巴陵曲亭の陽に楽しむ」とある山の名[6][注釈 3]、「馬琴」は『十訓抄』[注釈 4]に収録された小野篁(野相公)の「索婦詞」の一節「才馬卿に非ずして、琴を弾くとも能はじ」[6][注釈 5]から取っていると説明している[7]。「くるわでまこと」(廓で誠)、すなわち遊廓でまじめに遊女に尽くしてしまう野暮な男という意味の俗諺をもじったという解釈もある[8]が、青年期に武家の嗜みとしておこなった俳諧で用いていた俳号の「曲亭」と「馬琴」が戯号に転じたもの[注釈 6]で、「くるわでまこと」を由来とするのは妄説であるという反駁がある[9]。「曲亭馬琴」と組み合わされて明記されるのは、寛政5年(1793年)の『花団子食気物語はなよりだんごくひけものがたり』に付された、山東京伝による序文である[8]。
寛政2年(1790年)、24歳の時に山東京伝を訪れ、弟子入りを請うた。京伝は弟子とすることは断ったが、親しく出入りすることをゆるした。寛政3年(1791年)正月、折から江戸で流行していた壬生狂言を題材に「京伝門人大栄山人」の名義で黄表紙『尽用而二分狂言つかいはたしてにぶきょうげん』を刊行、戯作者として出発した。この年、京伝は手鎖の刑を受け、戯作を控えることとなった。この年秋、洪水で深川にあった家を失った馬琴は京伝の食客となった。京伝の草双子本『実語教幼稚講釈』(寛政4年刊)の代作を手がけ、江戸の書肆にも知られるようになった。
寛政4年(1792年)3月、版元・蔦屋重三郎に見込まれ、手代として雇われることになった。商人に仕えることを恥じた馬琴は、武士としての名を捨て、通称を瑣吉に、諱を解に改めた。
滝沢馬琴邸跡井戸
東京都千代田区九段坂下寛政5年(1793年)7月、27歳の馬琴は、蔦屋や京伝にも勧められて、元飯田町中坂(現・千代田区九段北一丁目)世継稲荷(現・築土神社)下で履物商「伊勢屋」を営む会田家の未亡人・百(30歳)の婿となるが、会田氏を名のらず、滝沢清右衛門を名のった。結婚は生活の安定のためであったが、馬琴は履物商売に興味を示さず、手習いを教えたり、豪商が所有する長屋の家守(いわゆる大家)をして生計を立てた。加藤千蔭に入門して書を学び、噺本・黄表紙本の執筆を手がけている[11]。寛政7年(1795年)に義母が没すると、後顧の憂いなく文筆業に打ち込むようになり、履物商はやめた。
結婚の翌年である寛政6年(1794年)には長女・幸さき、寛政8年(1796年)には二女・祐ゆうが生まれた。のちの寛政9年(1797年)には長男・鎮五郎(のちの宗伯興継)が、寛政12年(1800年)には三女・鍬くわが生まれ、馬琴は合わせて1男3女の父親となった。
『南総里見八犬伝』の執筆には、文化11年(1814年)から天保13年(1842年)までの28年を費やし、馬琴のライフワークとなった。
一人息子の興継は、山本永春院に就いて医術を修め、文化11年(1814年)には宗伯と名乗ることを許された。文政元年(1818年)、馬琴は神田明神下石坂下同朋町(現・千代田区外神田三丁目、秋葉原の芳林公園付近)に家を買い、ここに滝沢家当主として宗伯を移らせた。文政3年(1820年)には宗伯が陸奥国梁川藩主・松前章広出入りの医者となった。馬琴の愛読者であった老公・松前道広の好意であった。宗伯が俸禄を得たことで、武家としての滝沢家の再興を悲願とする馬琴の思いの半ばは達せられたが、宗伯は多病で虚弱であった。
文政7年(1824年)、58歳の馬琴は、神田明神下の宗伯宅を増築して移り住み、宗伯と同居した。馬琴は隠居となり、剃髪して蓑笠漁隠と称するようになった。長女・幸に婿養子を迎え、清右衛門と名乗らせて元飯田町の家財一切を譲り、分家させたのもこの時である。
天保4年(1833年)、67歳の馬琴は右眼に異常を覚え、まもなく左眼もかすむようになる。天保6年(1835年)、宗伯が死去するなど、家庭的な不幸も相次いだ。馬琴は孫の太郎に滝沢家再興の希望を託し、天保7年(1836年)には四谷鉄砲組の御家人株を買っている。御家人株購入のため、馬琴は蔵書を売り、気の進まない書画会を開いた。神田明神下の家も売却して四谷信濃仲殿町(現・新宿区霞ヶ丘町)に移住することとなった。
天保10年(1839年)、73歳の馬琴は失明し、執筆が不可能となった。このため、宗伯の妻・お路が口述筆記をすることとなった。馬琴の作家生活に欠かせない存在になるお路に対して妻のお百が嫉妬し、家庭内の波風は絶えなかった。そのお百も、天保12年(1841年)に没した。
天保12年8月、『八犬伝』の執筆が完結し、天保13年(1842年)正月に刊行される。馬琴は「回外剰筆」において、読者に自らの失明を明かすとともに、お路との口述筆記の辛苦を書き記している。
作品[編集]読本[編集]
滝沢馬琴の硯の井戸跡 東京都千代田区九段北1-5-7
葛飾北斎の挿し絵
滝沢馬琴墓(深光寺) 東京都文京区小日向4-9-5
※注:このサイトは、滝沢馬琴に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
享年81歳 、誕生日 1767年7月4日、命日 1848年12月1日
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曲亭 馬琴/滝沢馬琴(きょくてい ばきん/たきざわ ばきん、明和4年6月9日〈1767年7月4日〉- 嘉永元年11月6日〈1848年12月1日〉)は、江戸時代後期の読本作者。本名は滝沢 興邦(たきざわ おきくに、旧字体:瀧澤 興邦 )、後に解(とく)に改めた。号は著作堂主人(ちょさくどうしゅじん)など。
代表作は『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』。ほとんど原稿料のみで生計を営むことのできた日本で最初の著述家である[1]。
曲亭馬琴という戯号について、馬琴自身は「曲亭」は『漢書』陳湯伝に「巴陵曲亭の陽に楽しむ」とある山の名[6][注釈 3]、「馬琴」は『十訓抄』[注釈 4]に収録された小野篁(野相公)の「索婦詞」の一節「才馬卿に非ずして、琴を弾くとも能はじ」[6][注釈 5]から取っていると説明している[7]。「くるわでまこと」(廓で誠)、すなわち遊廓でまじめに遊女に尽くしてしまう野暮な男という意味の俗諺をもじったという解釈もある[8]が、青年期に武家の嗜みとしておこなった俳諧で用いていた俳号の「曲亭」と「馬琴」が戯号に転じたもの[注釈 6]で、「くるわでまこと」を由来とするのは妄説であるという反駁がある[9]。「曲亭馬琴」と組み合わされて明記されるのは、寛政5年(1793年)の『花団子食気物語はなよりだんごくひけものがたり』に付された、山東京伝による序文である[8]。
寛政2年(1790年)、24歳の時に山東京伝を訪れ、弟子入りを請うた。京伝は弟子とすることは断ったが、親しく出入りすることをゆるした。寛政3年(1791年)正月、折から江戸で流行していた壬生狂言を題材に「京伝門人大栄山人」の名義で黄表紙『尽用而二分狂言つかいはたしてにぶきょうげん』を刊行、戯作者として出発した。この年、京伝は手鎖の刑を受け、戯作を控えることとなった。この年秋、洪水で深川にあった家を失った馬琴は京伝の食客となった。京伝の草双子本『実語教幼稚講釈』(寛政4年刊)の代作を手がけ、江戸の書肆にも知られるようになった。
寛政4年(1792年)3月、版元・蔦屋重三郎に見込まれ、手代として雇われることになった。商人に仕えることを恥じた馬琴は、武士としての名を捨て、通称を瑣吉に、諱を解に改めた。
滝沢馬琴邸跡井戸
東京都千代田区九段坂下寛政5年(1793年)7月、27歳の馬琴は、蔦屋や京伝にも勧められて、元飯田町中坂(現・千代田区九段北一丁目)世継稲荷(現・築土神社)下で履物商「伊勢屋」を営む会田家の未亡人・百(30歳)の婿となるが、会田氏を名のらず、滝沢清右衛門を名のった。結婚は生活の安定のためであったが、馬琴は履物商売に興味を示さず、手習いを教えたり、豪商が所有する長屋の家守(いわゆる大家)をして生計を立てた。加藤千蔭に入門して書を学び、噺本・黄表紙本の執筆を手がけている[11]。寛政7年(1795年)に義母が没すると、後顧の憂いなく文筆業に打ち込むようになり、履物商はやめた。
結婚の翌年である寛政6年(1794年)には長女・幸さき、寛政8年(1796年)には二女・祐ゆうが生まれた。のちの寛政9年(1797年)には長男・鎮五郎(のちの宗伯興継)が、寛政12年(1800年)には三女・鍬くわが生まれ、馬琴は合わせて1男3女の父親となった。
『南総里見八犬伝』の執筆には、文化11年(1814年)から天保13年(1842年)までの28年を費やし、馬琴のライフワークとなった。
一人息子の興継は、山本永春院に就いて医術を修め、文化11年(1814年)には宗伯と名乗ることを許された。文政元年(1818年)、馬琴は神田明神下石坂下同朋町(現・千代田区外神田三丁目、秋葉原の芳林公園付近)に家を買い、ここに滝沢家当主として宗伯を移らせた。文政3年(1820年)には宗伯が陸奥国梁川藩主・松前章広出入りの医者となった。馬琴の愛読者であった老公・松前道広の好意であった。宗伯が俸禄を得たことで、武家としての滝沢家の再興を悲願とする馬琴の思いの半ばは達せられたが、宗伯は多病で虚弱であった。
文政7年(1824年)、58歳の馬琴は、神田明神下の宗伯宅を増築して移り住み、宗伯と同居した。馬琴は隠居となり、剃髪して蓑笠漁隠と称するようになった。長女・幸に婿養子を迎え、清右衛門と名乗らせて元飯田町の家財一切を譲り、分家させたのもこの時である。
天保4年(1833年)、67歳の馬琴は右眼に異常を覚え、まもなく左眼もかすむようになる。天保6年(1835年)、宗伯が死去するなど、家庭的な不幸も相次いだ。馬琴は孫の太郎に滝沢家再興の希望を託し、天保7年(1836年)には四谷鉄砲組の御家人株を買っている。御家人株購入のため、馬琴は蔵書を売り、気の進まない書画会を開いた。神田明神下の家も売却して四谷信濃仲殿町(現・新宿区霞ヶ丘町)に移住することとなった。
天保10年(1839年)、73歳の馬琴は失明し、執筆が不可能となった。このため、宗伯の妻・お路が口述筆記をすることとなった。馬琴の作家生活に欠かせない存在になるお路に対して妻のお百が嫉妬し、家庭内の波風は絶えなかった。そのお百も、天保12年(1841年)に没した。
天保12年8月、『八犬伝』の執筆が完結し、天保13年(1842年)正月に刊行される。馬琴は「回外剰筆」において、読者に自らの失明を明かすとともに、お路との口述筆記の辛苦を書き記している。
作品[編集]読本[編集]
- 『高尾船字文』(たかおせんじもん)1796 画:栄松斎長喜
- 『小説比翼文』(しょうせつひよくもん)1804 画:葛飾北斎
- 『曲亭伝奇花釵児』(きょくていでんきはなかんざし)1804 (岩波新日本古典文学大系)
- 『復讐月氷奇縁』(かたきうちげっぴょうきえん)1804 画:流光斎如圭(巻一・ニのみ。巻三以降は不明) - 出世作
- 『復讐奇譚稚枝鳩』(ふくしゅうきだんわかえのはと)1805 画:歌川豊国
- 『源家勲績 四天王剿盗異録』(げんけくんせきしてんのうそうとういろく)1805 画:豊国
- 『小夜中山復讐 石言遺響』(さよのなかやまふくしゅうせきげんいきょう)1804 画:蹄斎北馬
- 『新編水滸画伝』(しんぺんすいこがでん)1805 画:北斎(中絶し高井蘭山に代わる)
- 『新累解脱物語』(しんかさねげだつものがたり)1807年(文化4年)発行、画:葛飾北斎
- 『椿説弓張月』(ちんせつゆみはりづき)1807年-1811年(文化4年-8年)発行、画:葛飾北斎
- 『三七全伝南柯夢』(さんしちぜんでんなんかのゆめ)1808年(文化5年)発行、画:葛飾北斎
- 『雲妙間雨夜月』(くものたえまあまよのつき)1808年 画:歌川豊広
- 『頼豪阿闍梨恠鼠伝』(らいごうあじゃりかいそでん)1808年 画:北斎
- 『松浦佐用姫石魂録』(まつらさよひめせきこんろく)1808年 画:豊広
- 『俊寛僧都嶋物語』(しゅんかんそうずしまものがたり)1808年(文化5年)発行、画:歌川豊広
- 『旬伝実々記』(じゅんでんじつじつき)1808年 画:豊広
- 『松染情史秋七草』(しょうせんじょうしあきのななくさ)1809年(文化6年)発行、画:歌川豊広
- 『夢想兵衛胡蝶物語』(むそうびょうえこちょうものがたり)1810年 画:豊広 -「胡蝶物語」岩波文庫ほか
- 『南総里見八犬伝』(なんそうさとみはっけんでん)1814年-1842年(文化11年-天保13年)発行、画:柳川重信、渓斎英泉、二代柳川重信
- 『朝夷巡島記』(あさひなしまめぐりのき)1815年(文化12年)第1集発行(未完)、画:歌川豊広
- 『近世説美少年録』(きんせせつびしょうねんろく)1829年-1830年(文政12年-13年)発行、画:歌川国貞、魚屋北渓
- 『開巻驚奇侠客伝』(かいかんきょうききょうかくでん)1832年(天保3年)第1集発行(未完)、画:渓斎英泉、二代柳川重信、歌川国貞
滝沢馬琴の硯の井戸跡 東京都千代田区九段北1-5-7
葛飾北斎の挿し絵
滝沢馬琴墓(深光寺) 東京都文京区小日向4-9-5
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