承継
この追悼サイトは、 いわさき ちひろ(水彩画家・絵本作家)さまのために作成されました。

享年55歳 、誕生日 1918年12月15日、命日 1974年8月8日
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いわさき ちひろ(本名:松本 知弘 まつもと ちひろ、旧姓:岩崎)、1918年12月15日 - 1974年8月8日、女性)は、子供の水彩画に代表される日本画家絵本作家。初期作品には、岩崎ちひろ岩崎千尋イワサキチヒロ名義で発表されたものが存在する。夫は日本共産党衆議院議員弁護士松本善明。孫は絵本作家の松本春野

福井県武生(現在の越前市)生まれ。生涯「子どもの幸せと平和」をテーマとした[1]

女学校2年(14歳)の3学期、母・文江はちひろの絵の才能をみとめ、岡田三郎助の門をたたいた。ちひろはそこでデッサン油絵を学び、朱葉会の展覧会で入賞を果たした。ちひろは女学校を卒業したのち、岡田の教えていた美術学校に進むことを望んだが、両親の反対にあって第六高女補習科に進んだ。18歳になるとコロンビア洋裁学院に入学し、その一方で書家小田周洋に師事して藤原行成流のを習い始めた。ここでもちひろはその才能を発揮し、小田の代理として教えることもあったという。

1939年(20歳)4月、3人姉妹の長女だったちひろは両親の薦めを断り切れず、婿養子を迎えることになった。相手の青年はちひろに好意を持っていたものの、ちひろの方ではどうしても好きになれず、形だけの結婚であった。6月にはいやいやながら夫の勤務地である満州大連に渡ったが、翌年に夫の自殺により帰国することになった。ちひろは二度と結婚するまいと心に決める。帰国したちひろは中谷泰に師事し、再び油絵を学び始めた。再度習い始めた書の師、小田周洋は絵では無理でも書であれば自立できると励まされ、書家をめざした。

1944年(25歳)には女子開拓団に同行して再び満州・勃利に渡るが、戦況悪化のため同年帰国した。翌年には5月25日の空襲東京中野の家を焼かれ、母の実家である長野県松本市に疎開し、ここで終戦を迎えた。両親は戦後、同県北安曇郡松川村に開拓農民として移住した。

ちひろはこの時初めて戦争の実態を知り、自分の無知を痛感する。終戦翌日から約1か月間にここで書かれた日記『草穂』が残されており、「国破れて山河有り」(杜甫の詩より)の題でスケッチから始まるこの日記には、こうした戦争に対する苦悩に加え、数々のスケッチや自画像武者小路実篤の小説『幸福者』からの抜粋や、「いまは熱病のよう」とまで書かれた宮沢賢治への思いなどが綴られている。

1946年(27歳)1月、宮沢賢治のヒューマニズム思想に強い共感を抱いていたちひろは、日本共産党の演説に深く感銘し、勉強会に参加したのち入党した。5月には党宣伝部の芸術学校(後の日本美術会付属日本民主主義美術研究所、通称「民美」)で学ぶため、両親に相談することなく上京した。

東京では人民新聞社の記者として働き、また丸木俊に師事してデッサンを学んだ。この頃から数々の絵の仕事を手がけるようになり、紙芝居『お母さんの話』(1949年)をきっかけに画家として自立する決心をした。

画家としての多忙な日々を送っていたちひろだったが、1949年(30歳)の夏、党支部会議で演説する青年松本善明と出会う。2人は党員として顔を合わせるうちに好意を抱くようになり、ある時ちひろが言った何気ない言葉から、結婚する決心をした。翌1950年1月21日、レーニンの命日を選び、2人きりのつましい結婚式を挙げた。ちひろは31歳、善明は23歳であった。結婚にあたって2人が交わした誓約書が残っている。そこには、日本共産党員としての熱い情熱と、お互いの立場、特に画家として生きようとするちひろの立場を尊重しようとする姿勢とが記されている。

1950年、善明はちひろと相談の上で弁護士を目指し、ちひろは絵を描いて生活を支えた。1951年4月、ちひろは長男・松本猛を出産するが、狭い借間で赤ん坊を抱えて画家の仕事を続けることは困難であった。6月、2人はやむを得ず長野県北安曇郡松川村に開拓農民として移住していたちひろの両親のもとに猛を預けることにした。

ちひろは猛に会いたさに、片道10時間近くかけて信州に通った。猛を預けてからも、当然ながら猛に与えるはずの乳は毎日張る。初めのうちは自ら絞って捨てていたが、実際に赤ん坊に与えなければ出なくなってしまうのではないか、猛に会って授乳する時に充分出なくなってしまうのではないか、と懸念したちひろは、当時近所に住んでいた子供が生まれたばかりの夫婦に頼み、授乳させてもらった。ちなみに、その乳飲み子は後にタレントとなる三宅裕司だった。

善明は、1951年に司法試験に合格し、1952年4月に司法修習生となる。ちょうどそのころ、練馬区下石神井の妹・世史子一家の隣に家を建て、ようやく親子そろった生活を送ることができるようになった。善明は1954年4月に弁護士の仕事を始めて自由法曹団に入り、弁護士として近江絹糸争議メーデー事件松川事件などにかかわり、ちひろは夫を背後から支えた。
1963年、善明は日本共産党から衆議院議員東京4区)に立候補し落選したものの、1967年に初当選した。ちひろは画家、1児の母、老親の世話、大所帯の主婦としての活動と並行して国会議員の妻として忙しい日を送ることになる[4]

1940年代から1950年代にかけてのちひろは油彩画も多く手がけており、仕事は広告ポスターや雑誌、教科書のカットや表紙絵などが主だった。1952年ごろに始まるヒゲタ醤油の広告の絵は、ほとんど制約をつけずちひろに自由に筆をふるわせてくれる貴重な仕事で、1954年には朝日広告準グランプリを受賞した。ヒゲタの挿絵はちひろが童画家として著名になってからもおよそ20年間つづいた[5]。1956年、福音館書店の月刊絵本シリーズ『こどものとも』12号で、小林純一の詩に挿絵をつけて『ひとりでできるよ』を制作、これが初めての絵本となった。『こどものとも』では同じく小林の文で『みんなでしようよ』も。

この頃、ちひろの絵には少女趣味だ、かわいらしすぎる、もっとリアルな民衆の子どもの姿を描くべき、などの批判があり、ちひろ自身もそのことに悩んでいた。1963年(44歳)、雑誌『子どものしあわせ』の表紙絵を担当することになったことが、その後の作品に大きく影響を与える。「子どもを題材にしていればどのように描いてもいい」という依頼に、ちひろはそれまでの迷いを捨て、自分の感性に素直に描いていく決意をした。1962年の作品『子ども』を最後に油彩画をやめ、以降はもっぱら水彩画に専念することにした。

1968年『あめのひのおるすばん』が出版されると、それ以降ほぼ毎年のように新しい絵本を制作した。中でも1972年の『ことりのくるひ』はボローニャ国際児童図書展でグラフィック賞を受賞した。

また当時、挿絵画家の絵は美術作品としてほとんど認められず、絵本の原画も美術館での展示などは考えられない時代であった[7]。挿絵画家の著作権は顧みられず、作品は出版社が「買い切り」という形で自由にすることが一般であったが、ちひろは教科書執筆画家連盟、日本児童出版美術家連盟にかかわり、自分の絵だけでなく、絵本画家の著作権を守るための活動を積極的に展開した[8][9]

ちひろは「子どもの幸せと平和」を願い、原爆ベトナム戦争の中で傷つき死んでいった子どもたちに心を寄せていた。1967年『わたしがちいさかったときに』は稲庭桂子の勧めで、作文集『原爆の子』(岩波書店版 長田新編)と詩集『原子雲の下より』(青木書店版)から抜粋した文にちひろが絵を描いて出版されたものである[10]1972年童画ぐるーぷ車の展覧会に「こども」と題した3枚のタブローを出品した。これがきっかけとなって制作された、ベトナム戦争の中での子どもたちを描いた1973年の『戦火のなかの子どもたち』がちひろ最後の絵本となった。

]220px-Chihiro_museum_tokyo_entrance_2009.JPG  ちひろ美術館・東京都練馬区下石神井4-7-2

 220px-150922_Chihiro_Art_Museum_Azumino_Japan01s3.jpg安曇野ちひろ美術館

主要作品
     いわさきちひろ に対する画像結果.サイズ: 163 x 150。ソース: kousin242.sakura.ne.jp いわさきちひろ に対する画像結果.サイズ: 157 x 200。ソース: www.pinterest.jp  th?id=OIP.VETXLco66S2itKuwUiCInwHaKz&w=116&h=170&rs=1&qlt=80&o=6&pid=3.1       いわさきちひろ 有名作品 に対する画像結果   いわさきちひろ 有名作品 に対する画像結果 

th?id=OLC.EstAanFsXcKLlw480x360&w=210&h=140&c=8&rs=1&qlt=90&pid=3.1&rm=2 世界初の絵本美術館 安曇野ちひろ美術館
     長野県北安曇野郡松川村西原3358-24 電話0261-62-0772

※注:このサイトは、いわさきちひろに関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝

このメッセージは、 2024年4月3日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
生涯「子供の幸せと平和」をテーマとした、ほのぼのと優しい作品は世界の宝と言っても過言ではありません。 この時代だからこそ「いわさきちひろ」の精神を受け継いで行こうではありませんか!        合掌

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このメッセージは、 2024年4月3日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
生涯「子供の幸せと平和」をテーマとした、ほのぼのと優しい作品は世界の宝と言っても過言ではありません。 この時代だからこそ「いわさきちひろ」の精神を受け継いで行こうではありませんか!        合掌
軌跡

(幼少期)

1918年、雪の降る師走の朝にちひろは三姉妹の長女として武生町橘で生まれた[2]。岩崎家は当時としては非常に恵まれた家庭であり、ラジオ蓄音機オルガンなどのモダンな品々があった。父・正勝はカメラも所有しており、当時の写真が数多く残っている。こども向けの本も多くあったが、それらはちひろの気に入るものではなかった。ある時隣の家で絵雑誌「コドモノクニ」を見かけ、当時人気のあった岡本帰一武井武雄初山滋らの絵に強く心を惹かれた。ちひろは幼少から絵を描くのが得意で、小学校の学芸会ではたびたび席画(舞台上で即興で絵を描くこと)を行うほどだった。