この追悼サイトは、 淡島 千景(女優・宝塚歌劇の殿堂100人のひとり)さまのために作成されました。
享年87歳 、誕生日 1924年2月24日、命日 2012年2月16日
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淡島 千景(あわしま ちかげ、1924年(大正13年)2月24日 - 2012年(平成24年)2月16日[1])は、日本の女優。本名:中川 慶子(なかがわ けいこ)。愛称は「おけいちゃん」「けいちゃん」(本名の慶子から)。
宝塚歌劇団出身で在籍時は娘役スターとして活躍した[1]。宝塚歌劇団29期生。芸名は百人一首の源兼昌の「淡路島 かよふ千鳥の なく声に いく夜ね覚めぬ 須磨の関守」から。
弟はSteve Nakagawa名義でアメリカのハンナ・バーベラ・プロダクションやランキン・バス・プロダクションで活躍したアニメーターの中川雄策[2][3]。
在団中は優れた美貌の主演娘役として戦時中・戦後と宝塚歌劇団を支えて、久慈あさみ、南悠子と共に『東京の三羽烏』と呼ばれた[5]。2人の男役から愛される娘役スターとして人気を得る。(淡島千景の大ファンであった手塚治虫本人が生前に(TBS「テレビ探偵団」第47回、1988年1月10日放送)のなかで語ったことによれば、手塚治虫の漫画『リボンの騎士』のサファイア王女は、もともと娘役である淡島が宝塚歌劇団在団中に数回男役を演じており(これは1948年1月の月組公演『ヴェネチヤ物語』の男装をするポーシャ姫の役を指すと推定されている)、淡島が劇中で何度か娘役と男役に入れ変わったことをモデルにしたのであるということである。)戦争中に歌舞音曲停止令が発令されたとき、上京中で舞台稽古の真っ最中であったが、その日のうちに寄宿舎に帰され、宝塚に残るか挺身隊に入るかの二者択一を迫られたが、母親の助言もあって宝塚に残る決断をし、慰問の仕事に従事したという。
宝塚退団後は映画界に転向したが、その背景には、先輩であった月丘夢路の影響があったという。1950年(昭和25年)に宝塚歌劇団に辞表を出すが、トップスターであったため強く引き止められた。しかし決意を変えなかったために、劇団の怒りをかい、自主的退団ではなく解雇処分にされた。ただしのちにその処分の撤回を申し入れて受け入れられている[4]。
松竹に入社し、『てんやわんや』でデビュー[1]。第1回ブルーリボン賞演技賞を受賞。以降、『麦秋』、『本日休診』、『君の名は』などに出演し、松竹の看板女優として活躍。アメリカナイズされた戦後派の女性を演じ、銀幕のアプレガール(戦後派女性)第一号と称される。『自由学校』では、"とんでもハップン"という流行語を生んだ[6]。1955年には東宝に招かれ『夫婦善哉』(第6回ブルーリボン賞主演女優賞)にぐうたらな男を母性的に見つめる女で共演した森繁久彌との名コンビをみせ、コメディエンヌの魅力も開花させた。戦後日本映画の全盛期を支えた銀幕スターの一人である。
1956年にフリーとなり、以降、各社の映画に出演[7]。特に東宝では『駅前シリーズ』、『妻として女として』、『白と黒』などに出演し、東宝の看板女優として活躍する。
1955年(昭和30年)に菊池寛賞、1988年(昭和63年)に紫綬褒章、1995年(平成7年)に勲四等宝冠章、2004年(平成16年)に牧野省三賞、2005年(平成17年)にNHK放送文化賞に輝いた。
宝塚の後輩である扇千景の芸名は淡島千景にあやかってつけた名前である。また淡島千景の大ファンでプライベートでも実妹のように可愛がられていた淡路恵子も淡島の淡の一字をもらって芸名をつけている。
87歳まで現役で、舞台を中心に旺盛な活動を続けた。また、日本俳優連合名誉副会長(2007年まで副理事長)として、長年俳優の権利向上などにも力を尽くした。
亡くなる前年の2011年春、70年以上にも及んだ淡島の女優人生にとって遺作となったTBSドラマ「渡る世間は鬼ばかり」への出演依頼を快諾。淡島の品が光る旅館の大女将役での出演であったが、夏の収録中に体調を崩し病院で検査を受けた結果、膵臓癌が見つかった。発見時にはステージ4まで進行していたが、淡島本人には告知をせず、淡島は病院から撮影現場へ向かっていたという。淡島が最後に出演した回は、2011年8月11日放送の最終シリーズ第41話であった。
主な出演[編集]向かって左から若山セツ子、久我美子、淡島千景、角梨枝子、原節子、杉葉子(1951年)映画[編集]
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享年87歳 、誕生日 1924年2月24日、命日 2012年2月16日
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淡島 千景(あわしま ちかげ、1924年(大正13年)2月24日 - 2012年(平成24年)2月16日[1])は、日本の女優。本名:中川 慶子(なかがわ けいこ)。愛称は「おけいちゃん」「けいちゃん」(本名の慶子から)。
宝塚歌劇団出身で在籍時は娘役スターとして活躍した[1]。宝塚歌劇団29期生。芸名は百人一首の源兼昌の「淡路島 かよふ千鳥の なく声に いく夜ね覚めぬ 須磨の関守」から。
弟はSteve Nakagawa名義でアメリカのハンナ・バーベラ・プロダクションやランキン・バス・プロダクションで活躍したアニメーターの中川雄策[2][3]。
在団中は優れた美貌の主演娘役として戦時中・戦後と宝塚歌劇団を支えて、久慈あさみ、南悠子と共に『東京の三羽烏』と呼ばれた[5]。2人の男役から愛される娘役スターとして人気を得る。(淡島千景の大ファンであった手塚治虫本人が生前に(TBS「テレビ探偵団」第47回、1988年1月10日放送)のなかで語ったことによれば、手塚治虫の漫画『リボンの騎士』のサファイア王女は、もともと娘役である淡島が宝塚歌劇団在団中に数回男役を演じており(これは1948年1月の月組公演『ヴェネチヤ物語』の男装をするポーシャ姫の役を指すと推定されている)、淡島が劇中で何度か娘役と男役に入れ変わったことをモデルにしたのであるということである。)戦争中に歌舞音曲停止令が発令されたとき、上京中で舞台稽古の真っ最中であったが、その日のうちに寄宿舎に帰され、宝塚に残るか挺身隊に入るかの二者択一を迫られたが、母親の助言もあって宝塚に残る決断をし、慰問の仕事に従事したという。
宝塚退団後は映画界に転向したが、その背景には、先輩であった月丘夢路の影響があったという。1950年(昭和25年)に宝塚歌劇団に辞表を出すが、トップスターであったため強く引き止められた。しかし決意を変えなかったために、劇団の怒りをかい、自主的退団ではなく解雇処分にされた。ただしのちにその処分の撤回を申し入れて受け入れられている[4]。
松竹に入社し、『てんやわんや』でデビュー[1]。第1回ブルーリボン賞演技賞を受賞。以降、『麦秋』、『本日休診』、『君の名は』などに出演し、松竹の看板女優として活躍。アメリカナイズされた戦後派の女性を演じ、銀幕のアプレガール(戦後派女性)第一号と称される。『自由学校』では、"とんでもハップン"という流行語を生んだ[6]。1955年には東宝に招かれ『夫婦善哉』(第6回ブルーリボン賞主演女優賞)にぐうたらな男を母性的に見つめる女で共演した森繁久彌との名コンビをみせ、コメディエンヌの魅力も開花させた。戦後日本映画の全盛期を支えた銀幕スターの一人である。
1956年にフリーとなり、以降、各社の映画に出演[7]。特に東宝では『駅前シリーズ』、『妻として女として』、『白と黒』などに出演し、東宝の看板女優として活躍する。
1955年(昭和30年)に菊池寛賞、1988年(昭和63年)に紫綬褒章、1995年(平成7年)に勲四等宝冠章、2004年(平成16年)に牧野省三賞、2005年(平成17年)にNHK放送文化賞に輝いた。
宝塚の後輩である扇千景の芸名は淡島千景にあやかってつけた名前である。また淡島千景の大ファンでプライベートでも実妹のように可愛がられていた淡路恵子も淡島の淡の一字をもらって芸名をつけている。
87歳まで現役で、舞台を中心に旺盛な活動を続けた。また、日本俳優連合名誉副会長(2007年まで副理事長)として、長年俳優の権利向上などにも力を尽くした。
亡くなる前年の2011年春、70年以上にも及んだ淡島の女優人生にとって遺作となったTBSドラマ「渡る世間は鬼ばかり」への出演依頼を快諾。淡島の品が光る旅館の大女将役での出演であったが、夏の収録中に体調を崩し病院で検査を受けた結果、膵臓癌が見つかった。発見時にはステージ4まで進行していたが、淡島本人には告知をせず、淡島は病院から撮影現場へ向かっていたという。淡島が最後に出演した回は、2011年8月11日放送の最終シリーズ第41話であった。
主な出演[編集]向かって左から若山セツ子、久我美子、淡島千景、角梨枝子、原節子、杉葉子(1951年)映画[編集]
- てんやわんや(原作:獅子文六、監督:渋谷実、1950年)
- 命美わし(1951年)
- 善魔(監督:木下惠介、1951年)
- 自由学校(原作:獅子文六、監督:渋谷実、1951年。松竹版)
- 麦秋(監督:小津安二郎、1951年)
- 陽気な渡り鳥(1952年)
- 二つの花(1952年)
- 本日休診(原作:井伏鱒二、監督:渋谷実、1952年)
- お景ちゃんと鞍馬先生(1952年)
- 丹下左膳 櫛巻お藤 (1952年08月14日。松竹京都)
- 武蔵と小次郎 八雲太夫、照世(二役)(1952年10月15日。松竹京都)
- お茶漬の味(監督:小津安二郎、1952年)
- 波(1952年)
- カルメン純情す(監督:木下惠介、1952年)
- 君の名は(1953年-1954年)
- 花の生涯 彦根篇 江戸篇(1953年)
- にごりえ(原作:樋口一葉、監督:今井正、1953年)
- 江戸の夕映(1954年、松竹)
- 真実一路(1954年)
- 忠臣蔵 花の巻・雪の巻(1954年、松竹)- 浮橋太夫
- 太陽は日々に新たなり(監督:野村芳太郎、1955年)
- 心に花の咲く日まで(監督:佐分利信、1955年)
- 夫婦善哉(原作:織田作之助、監督:豊田四郎、1955年)
- 女の一生(1955年)
- 修禅寺物語(1955年)
- 絵島生島(1955年)
- 早春(監督:小津安二郎、1956年)
- 残菊物語(1956年)
- 日本橋(監督:市川崑、1956年)
- 新・平家物語 静と義経(1956年)
- 体の中を風が吹く(1957年)
- 黄色いからす(第15回米国ゴールデングローブ賞 外国語映画賞受賞作品、1957年)
- 大番(原作:獅子文六、1957年)
- 気違い部落(監督:渋谷実、1957年)
- 螢火(1958年)
- 忠臣蔵(監督:渡辺邦男、1958年)
- 喜劇 駅前旅館(原作:井伏鱒二、監督:豊田四郎、1958年)
- 鰯雲(監督:成瀬巳喜男、1958年)
- 日蓮と蒙古大襲来 (1958年)
- 暗夜行路(原作:志賀直哉、監督:豊田四郎、1959年)
- 雪之丞変化(監督:マキノ雅弘、1959年)
- 人間の條件 第一・二部(ヴェネツィア国際映画祭サン・ジョルジョ賞、イタリア批評家賞受賞作品、監督:小林正樹、1959年)
- 珍品堂主人(原作:井伏鱒二、監督:豊田四郎、1960年)
- 敵は本能寺にあり(1960年)
- 赤坂の姉妹より 夜の肌(監督:川島雄三、1960年)
- 酒と女と槍(監督:内田吐夢、1960年)
- 縞の背広の親分衆(監督:川島雄三、1961年)
- もず(1961年)
- 妻として女として(監督:成瀬巳喜男、1961年)
- 好人好日(1961年)
- 喜劇 駅前団地(1961年)
- 女ばかりの夜(監督:田中絹代、1961年)
- 花影(原作:大岡昇平、監督:川島雄三、1961年)
- 喜劇 駅前弁当(1961年)
- 喜劇 駅前温泉(1962年)
- 王将(1962年)
- 河のほとりで(1962年)
- 喜劇 駅前飯店(1962年)
- 無法松の一生(1963年)
- 喜劇 とんかつ一代(監督:川島雄三、1963年)
- 新・夫婦善哉(1963年)
- 白と黒(1963年)
- 台所太平記(監督:豊田四郎、1963年)
- 喜劇 駅前茶釜(1963年)
- 喜劇 駅前女将(1964年)
- ミスター・ジャイアンツ 勝利の旗(監督:佐伯幸三、1964年)
- 喜劇 駅前怪談(1964年)
- 路傍の石(原作:山本有三、監督:家城巳代治、1964年)
- 喜劇 駅前音頭(1964年)
- 喜劇 駅前天神(1964年)
- 喜劇 駅前医院(1965年)
- 喜劇 駅前金融(1965年)
- 喜劇 駅前大学(1965年)
- 喜劇 駅前弁天(1966年)
- 喜劇 駅前番頭(1966年)
- 喜劇 駅前競馬(1966年)
- 喜劇 駅前満貫(1967年)
- 喜劇 駅前学園(1967年)
- 喜劇 駅前探検(1967年)
- 喜劇 駅前百年(1967年)
- 喜劇 駅前火山(1968年)
- 大奥絵巻(1968年)
- 喜劇 百点満点(1976年)
- この子を残して(監督:木下惠介、1983年)
- 生きてはみたけれど 小津安二郎伝(1983年)
- 化身(監督:東陽一、1986年)
- 夏の庭 The Friends(監督:相米慎二、1994年)
- GOING WEST 西へ…(1997年)
- 故郷(1999年)
- シベリア超特急2(2001年)
- シベリア超特急5(2004年)
- 大停電の夜に(2005年)
- 春との旅(2010年)
※注:このサイトは、淡島千景に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝