この追悼サイトは、 海音寺 潮五郎(小説家・「武将列伝、悪人列伝」など)さまのために作成されました。
享年76歳 、誕生日 1901年11月5日、命日 1977年12月1日
※ 海音寺さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
海音寺 潮五郎(かいおんじ ちょうごろう、1901年〈明治34年〉11月5日[注釈 1] - 1977年〈昭和52年〉12月1日)は、日本の小説家・作家。本名は末冨 東作(すえとみ とうさく)。鹿児島県伊佐郡大口村(現・伊佐市)生まれ。次女は日本テレワークの社長を務めた末冨明子。
略歴[編集]1901年、鹿児島県伊佐郡大口町(現・伊佐市大口里)の山師の家に生まれる。幼い頃に体が大きかったことから、1年繰り上げで小学校に入学[1]。実際は何をするにも1歳年上の同級生たちに及ばず、学校生活は苦労の多い辛いものだった(のちにこれが文学を志すきっかけとなったと語っている)[1]。國學院大學高等師範部国漢科を卒業後、中学教師を務めながら創作を始める。1934年に作家デビュー。歴史小説を多数発表した。國學院大學教授で戦国史の大家であった桑田忠親との交友も深かった。
「天正女合戦」(『オール讀物』1936年4月号 - 7月号)と「武道伝来記」その他 (『日の出』1936年3月号)で第3回直木三十五賞(1936年上半期)を受賞。
史伝『西郷隆盛』がライフワークで、絶筆・未完作となった。
それに結末を与えたのが、弟子とも言うべき司馬遼太郎の『翔ぶが如く』である。
大口市歌の作詞や、大口酒造が製造・販売する焼酎「伊佐錦」のラベルの題字も手がけた
筆名の由来[編集]「海音寺潮五郎」という筆名の由来については、海音寺本人が『日、西山に傾く』収録の「夢想の筆名」の中で詳しく説明している。それによると、この筆名を初めて用いたのは1929年(昭和4年)の上半期に「サンデー毎日」の懸賞小説に応募したときであるという。
当時、海音寺は中学の教師をしていたが、小説を書くという行為に対して世間の理解が乏しかったため、本名を隠すためにペンネームを検討していた。考えているうちにうとうと眠ってしまった海音寺は、これまで一度も行ったことがないにもかかわらず、紀州の浜辺で眠っているという夢をみた。その夢の中の夢で、誰の声ともわからないが「海音寺潮五郎、海音寺潮五郎、…」と呼ぶ声が聞こえ、そこで夢から覚めた。そして、「ああ、これでいいや。これならわかるまい」と思い、「海音寺潮五郎」をペンネームに小説を応募したとのことである。なぜ「海音寺潮五郎」という名前が急に思い浮かんだのかについて海音寺は、「上田敏の訳詩集「海潮音」や近松門左衛門と才をきそった紀海音などのことが意識の深層部にあったのかもしれない」と説明している。
このとき懸賞小説として応募した『うたかた草子』は見事当選したが、本名を秘匿して欲しい旨を明示していなかったため、ペンネームと共に本名が公開されてしまい、ペンネーム案出の苦心は何の役にも立たなかったというオチがついている。
のちに三田村鳶魚に「君の名前は『観音経偈』にある」と言われ、読んだところ、その意味からすると、人が書けないようなものを書くという意味になり、傲慢な命名であったことを知り驚いたという[1]。
史伝文学の復興[編集]海音寺を語るときに取り上げられる話題のひとつとして、史伝文学の復興に対する功績がある。これは後年、海音寺が菊池寛賞を受賞したときにも選出理由として挙がっている。
史伝文学とは、歴史上の人物や事件を対象として作品を物語風に記述にあたっても、フィクションの要素を完全に排除し、広範かつ詳細な文献調査などをもとにして、歴史の真実はどのようであったかを明らかにしようとする形態の書物を指す。
日本においては、明治期の山路愛山、福本日南、徳富蘇峰など、大正期の森鷗外や幸田露伴、白柳秀湖などが史伝を執筆していた。しかし、昭和期に入ると、新しい書き手の台頭もなく、ジャンルとしての人気も衰えていった。このような中、海音寺は日本人から日本歴史の常識が失われつつあるとして当時の状況を憂慮し、本人の表現を借りると「文学としての史伝復興の露ばらいの気持ち」を込めて、歴史の真実を伝える史伝文学の執筆に精力的に取り組むことになった。また、歴史はまず文学から入るべき、という考えを持っており、日本の義務教育制度における歴史教育について、子供に最初から史実のみを社会科学的に教えることは、歴史への関心を失くすとともに、一方の側からのみの宣伝を教えることになると批判的でもあった[1]。
その代表作が1959年から『オール讀物』(文藝春秋)に連載された「武将列伝」と「悪人列伝」である。この両作品に収録されている人物伝は、各編が独立した読み物の形式になっているが、これらを時代順に並べ替えて読めば日本歴史の全体が分かる内容となるように、それによって日本人に日本歴史の常識を持ってもらいたいとの希望を持って執筆された。海音寺は「できれば200人、少なくとも100人の人物伝」を書き上げたいと考えていたが、結局、武将列伝33人、悪人列伝24人の計57人の段階でまとまった作品として出版することになった。想定通りの人数に達しなかったことについて海音寺は「恥をしのんで出す」とその心境を述べている。
上記の作品の他にも『列藩騒動録』や『幕末動乱の男たち』など多くの史伝を執筆しているが、これらの作品に触発され、その後、いろいろな作家が史伝を発表するようになった。これについて海音寺は「露ばらいをつとめたつもりのぼくとしては、この上ないよろこびである」との感想を残している。
著書[編集]
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享年76歳 、誕生日 1901年11月5日、命日 1977年12月1日
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海音寺 潮五郎(かいおんじ ちょうごろう、1901年〈明治34年〉11月5日[注釈 1] - 1977年〈昭和52年〉12月1日)は、日本の小説家・作家。本名は末冨 東作(すえとみ とうさく)。鹿児島県伊佐郡大口村(現・伊佐市)生まれ。次女は日本テレワークの社長を務めた末冨明子。
略歴[編集]1901年、鹿児島県伊佐郡大口町(現・伊佐市大口里)の山師の家に生まれる。幼い頃に体が大きかったことから、1年繰り上げで小学校に入学[1]。実際は何をするにも1歳年上の同級生たちに及ばず、学校生活は苦労の多い辛いものだった(のちにこれが文学を志すきっかけとなったと語っている)[1]。國學院大學高等師範部国漢科を卒業後、中学教師を務めながら創作を始める。1934年に作家デビュー。歴史小説を多数発表した。國學院大學教授で戦国史の大家であった桑田忠親との交友も深かった。
「天正女合戦」(『オール讀物』1936年4月号 - 7月号)と「武道伝来記」その他 (『日の出』1936年3月号)で第3回直木三十五賞(1936年上半期)を受賞。
史伝『西郷隆盛』がライフワークで、絶筆・未完作となった。
それに結末を与えたのが、弟子とも言うべき司馬遼太郎の『翔ぶが如く』である。
大口市歌の作詞や、大口酒造が製造・販売する焼酎「伊佐錦」のラベルの題字も手がけた
筆名の由来[編集]「海音寺潮五郎」という筆名の由来については、海音寺本人が『日、西山に傾く』収録の「夢想の筆名」の中で詳しく説明している。それによると、この筆名を初めて用いたのは1929年(昭和4年)の上半期に「サンデー毎日」の懸賞小説に応募したときであるという。
当時、海音寺は中学の教師をしていたが、小説を書くという行為に対して世間の理解が乏しかったため、本名を隠すためにペンネームを検討していた。考えているうちにうとうと眠ってしまった海音寺は、これまで一度も行ったことがないにもかかわらず、紀州の浜辺で眠っているという夢をみた。その夢の中の夢で、誰の声ともわからないが「海音寺潮五郎、海音寺潮五郎、…」と呼ぶ声が聞こえ、そこで夢から覚めた。そして、「ああ、これでいいや。これならわかるまい」と思い、「海音寺潮五郎」をペンネームに小説を応募したとのことである。なぜ「海音寺潮五郎」という名前が急に思い浮かんだのかについて海音寺は、「上田敏の訳詩集「海潮音」や近松門左衛門と才をきそった紀海音などのことが意識の深層部にあったのかもしれない」と説明している。
このとき懸賞小説として応募した『うたかた草子』は見事当選したが、本名を秘匿して欲しい旨を明示していなかったため、ペンネームと共に本名が公開されてしまい、ペンネーム案出の苦心は何の役にも立たなかったというオチがついている。
のちに三田村鳶魚に「君の名前は『観音経偈』にある」と言われ、読んだところ、その意味からすると、人が書けないようなものを書くという意味になり、傲慢な命名であったことを知り驚いたという[1]。
史伝文学の復興[編集]海音寺を語るときに取り上げられる話題のひとつとして、史伝文学の復興に対する功績がある。これは後年、海音寺が菊池寛賞を受賞したときにも選出理由として挙がっている。
史伝文学とは、歴史上の人物や事件を対象として作品を物語風に記述にあたっても、フィクションの要素を完全に排除し、広範かつ詳細な文献調査などをもとにして、歴史の真実はどのようであったかを明らかにしようとする形態の書物を指す。
日本においては、明治期の山路愛山、福本日南、徳富蘇峰など、大正期の森鷗外や幸田露伴、白柳秀湖などが史伝を執筆していた。しかし、昭和期に入ると、新しい書き手の台頭もなく、ジャンルとしての人気も衰えていった。このような中、海音寺は日本人から日本歴史の常識が失われつつあるとして当時の状況を憂慮し、本人の表現を借りると「文学としての史伝復興の露ばらいの気持ち」を込めて、歴史の真実を伝える史伝文学の執筆に精力的に取り組むことになった。また、歴史はまず文学から入るべき、という考えを持っており、日本の義務教育制度における歴史教育について、子供に最初から史実のみを社会科学的に教えることは、歴史への関心を失くすとともに、一方の側からのみの宣伝を教えることになると批判的でもあった[1]。
その代表作が1959年から『オール讀物』(文藝春秋)に連載された「武将列伝」と「悪人列伝」である。この両作品に収録されている人物伝は、各編が独立した読み物の形式になっているが、これらを時代順に並べ替えて読めば日本歴史の全体が分かる内容となるように、それによって日本人に日本歴史の常識を持ってもらいたいとの希望を持って執筆された。海音寺は「できれば200人、少なくとも100人の人物伝」を書き上げたいと考えていたが、結局、武将列伝33人、悪人列伝24人の計57人の段階でまとまった作品として出版することになった。想定通りの人数に達しなかったことについて海音寺は「恥をしのんで出す」とその心境を述べている。
上記の作品の他にも『列藩騒動録』や『幕末動乱の男たち』など多くの史伝を執筆しているが、これらの作品に触発され、その後、いろいろな作家が史伝を発表するようになった。これについて海音寺は「露ばらいをつとめたつもりのぼくとしては、この上ないよろこびである」との感想を残している。
著書[編集]
- 「天正女合戦」1936(のち春陽文庫)
- 『風雲』新鋭大衆小説全集 (アトリエ社 1936年)
- 『恥を知る者』(新小説社 1936年)
- 『南風薩摩歌』(八紘社 1938年)
- 『柳沢騒動』(春陽堂 1939年)のち旺文社文庫、富士見時代小説文庫
- 『大奥秘帖』(八紘社 1939年)
- 『高杉晋作』(アカツキ書店 1941年)
- 『赤穂浪士伝』(博文館 1941年)のち中公文庫、文春文庫
- 『風流戦国武士』(文松堂 1941年)「戦国風流武士」時代小説文庫、「戦国風流武士 前田慶次郎」文春文庫
- 『武道伝来記』(教育社 歴史文学選書 1941年)のち光文社小説文庫
- 『風雲』(アトリエ社 1941年)
- 『愀々夕暮記』(学芸社 1941年)
- 『茶道太閤記』(学芸社 1941年)のち新潮文庫、文春文庫(「天正女合戦」の改稿)
- 『小栗上野介』(国文社 1942年)
- 『日本の黎明』(博文館 1942年)
- 『双燕譜』(博文館文庫 1942年)
- 『尾藩勤皇伝流』(博文館 1943年)のち「宗春行状記」旺文社文庫、時代小説文庫、「吉宗と宗春」文春文庫
- 『大風の歌』(聖紀書房 1943年)
- 『マライ華僑記』(鶴書房 1943年)
- 『父祖の道』(甲子社書房 1944年)
- 『本朝女風俗』(扶桑書房 1946年)のち旺文社文庫
- 『春咲くもの』(世界社 1947年)
- 『筑紫をとめ』(操書房 1948年)
- 『海音寺潮五郎傑作選集』全2巻(太平洋出版社 1951年-1952年)
- 『愛情無双』(同光社磯部書房 1952年)
- 『明治太平記』(読売新聞社 1952年)のち角川文庫、時代小説文庫
- 『風魔一族』(読売新聞社 1953年)
- 『風雲の鷹』(東京文芸社 1954年)
- 『風流大名』(桃源社 1954年)
- 『美女と黄金』(北辰堂 1954年)のち「蘭陵の夜叉姫」旺文社文庫 他、多数
- 隼人族の叛乱 - 1957年の映画。
- 酒と女と槍 - 1960年の映画。
- 天と地と - 1969年NHK大河ドラマ。本作に対抗して『コント55号! 裏番組をブッ飛ばせ!!』が製作されたのは有名。
- 風と雲と虹と - 1976年に放送されたNHK大河ドラマ。平将門を描いた『平将門』と藤原純友を描いた『海と風と虹と』が原作。ドラマの第1話の冒頭では海音寺自身が解説を行った。大河ドラマの中ではいちばん古い時代を扱っている。
- 天と地と - 1990年の映画。
- 天と地と 黎明編 - 1990年の単発ドラマ。
- 天と地と - 2008年の単発ドラマ。
※注:このサイトは、海音寺潮五郎に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
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