この追悼サイトは、 渋沢 栄一(日本資本主義の父と云われる実業家)さまのために作成されました。
享年91歳 、誕生日 1840年3月16日、命日 1931年11月11日
※ 渋沢さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、旧字体:澁澤 榮一、1840年3月16日〈天保11年2月13日〉- 1931年〈昭和6年〉11月11日)は、日本の実業家[1]。位階勲等爵位は正二位勲一等子爵。雅号は青淵(せいえん)。
江戸時代末期に農民(名主身分)から武士(一橋家家臣)に取り立てられ、のちに主君・徳川慶喜の将軍就任にともない幕臣となり[2]、明治政府では官僚も務めた。民部省を経て直属の上司である大蔵大輔と井上馨の下で大蔵少輔、吉田清成らと共に造幣、戸籍、出納など様々な政策立案を行い、初代紙幣頭、次いで大蔵省三等官の大蔵少輔事務取扱となる。
井上馨と共に退官後は実業界に転じ、第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京商法会議所(現・東京商工会議所)、東京証券取引所といった多種多様な会社や経済団体の設立・経営に関わった。そのうち企業は約500社[3] にもおよび、「日本資本主義の父」[4] と称され、実業家の肥田理吉(肥田琢司の弟)らと日本経済の在り方を論じた[5]。
同時に東京養育院等の福祉事業、東京慈恵会、聖路加国際病院等の医療事業、東京大学文学部新聞研究室(現:東京大学大学院情報学環教育部)、商法講習所(現:一橋大学)、大倉商業学校(現:東京経済大学)、高千穂高等商業学校(現:高千穂大学)等の実業教育、東京女学館などの女子教育、台湾協会学校(現:拓殖大学)の設立、二松學舍(現:二松学舎大学)第3代舎長就任等による私学教育支援や、理化学研究所設立等の研究事業支援、国際交流、民間外交の実践等にも尽力した。また『論語と算盤』の言葉に代表されるその道徳経済合一の思想でも広く知られている[6]。
慶応2年(1866年)12月、主君の慶喜が将軍となったことに伴って幕臣となる。フランスの首都パリで行われる万国博覧会(1867年)に将軍の名代として出席する慶喜の異母弟・清水家当主の徳川昭武の随員として御勘定格陸軍付調役の肩書を得て、フランスへと渡航する。パリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行する。その際に通訳兼案内役として同行していたアレクサンダー・フォン・シーボルトより語学や諸外国事情を学び、シーボルトの案内で各地で先進的な産業・諸制度を見聞すると共に、近代社会のありように感銘を受ける。フランス滞在中に、幕府における役職は御勘定格陸軍付調役から外国奉行支配調役となり、その後開成所奉行支配調役に転じている[8]。パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後、昭武はパリに留学する予定であったが、大政奉還に伴い、慶応4年(1868年)5月には新政府から帰国を命じられ、昭武の水戸徳川家相続の件もあり、昭武と共に9月4日(1868年10月19日)にマルセイユから帰国の途につき、同年11月3日(12月16日)に横浜港へ帰国した。
1869年(明治2年)10月、明治新政府からの招状が静岡藩庁に届き、栄一は大久保一翁に相談し東京へ向かうと民部省租税正の辞令書を受ける。一度は辞任を決意するも、大隈重信らの説得で11月に出仕する。民部省内に改正掛が置かれると掛長となり、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わった。明治4年(1871年)年7月27日に民部省が大蔵省に統合されることに伴い、芳川顕正紙幣頭の下で大蔵権大丞となり、次いで大蔵大丞となる。1872年(明治5年)には大蔵省三等出仕となり、紙幣寮の頭に就任(同三等出仕は上野景範)。大蔵大輔井上馨や大蔵少輔吉田清成と連携して造幣寮の事務に勤しみ、ドイツで印刷された明治通宝(通称「ゲルマン紙幣」)を取り扱ったが、贋札事件の発生も少なくなかった。さらに、同年2月に起きた東京での大火からの再建を大蔵省が主導することとなり、井上馨、東京府参事の三島通庸らとともに煉瓦造りの街並みを計画した。しかし、予算編成を巡って大久保利通や大隈と対立し1873年5月7日、大蔵大輔井上馨や大蔵少輔吉田清成と共同で財政改革意見を建議し、建議書を『日新真事誌』などに掲載して論議を喚起した。明治6年(1873年)5月14日に井上馨と共に退官した。
大蔵省を辞職した栄一は、井上馨やアレクサンダー・フォン・シーボルト、その弟のハインリヒ・フォン・シーボルトの協力も得ながら明治6年(1873年)自ら設立を指導した第一国立銀行(後の第一銀行、第一勧業銀行、現:みずほ銀行)の総監役に就任する。大株主の三井組、小野組の頭取2名の上に立って、日本最初の銀行の創業を担う。明治7年(1874年)に二大株主の一つ小野組が破綻したことで、新銀行は経営危機に陥った。三井組は単独経営を志向するが、栄一は小野組の古河市兵衛の誠実な対応にも助けられ、被害を最小限に留め、三井組による銀行経営の独占を退けた。自ら単独の第一銀行頭取となり、公益に資する民間取引を軸に据えた銀行の路線を確立する。財閥の機関銀行的な運営とは一線を画し、新興の商工業者の創業指導や資金支援を積極的に展開する。
また、栄一は全国に設立された多くの国立銀行の指導、支援を第一国立銀行を通じて行った。明治10年(1877年)、宇和島伊達家を主な出資先とする第二十国立銀行(後、第一銀行と合併)の設立には相談役を引受け、最終的には第一銀行が吸収合併して経営を引き取り、その深川支店を栄一自邸跡地に移した。
死去 1931年[編集]昭和6年(1931年)11月11日、栄一は老衰の為死去した。享年92(91歳没)。
栄一は数カ月前より大腸狭窄症を発症しており、10月には自邸で開腹手術を受けていた。栄一の逝去の報に接し、弔問の客がひきもきらなかったと伝えられている。当日午後には昭和天皇の勅使、香淳皇后と貞明皇太后の使者が差し遣わされた。
14日、通夜に際しても勅使、御使が遣わされ、栄一の事績を称えた御沙汰書が下賜された。栄一の葬儀は15日に青山葬儀場にて執り行われ、飛鳥山邸から青山までの葬送の列を沿道で多くの人が見送った。
法名は泰徳院殿仁智義譲青淵大居士。墓所は谷中霊園渋沢家墓地。
渋沢栄一名言集 四十、五十は洟垂れ小僧、六十、七十は働き盛り、九十になって迎えが来たら、百まで待てと追い返せ 一人ひとりに天の使命があり、その天命を楽しんで生きることが処世上の第一要件である。金儲けを品の悪いことのように考えるのは根本的に間違っている。しかし儲けることに熱中しすぎると、品が悪くなるのも確かである。金儲けにも品位を忘れぬようにしたい。 夢なき者は理想なし 理想なき者は信念なし 信念なき者は計画なし 計画なき者は実行なし 実行なき者は成果なし 成果なき者は幸福なし ゆえに幸福を求むる者は夢なかるべからず。 できるだけ多くの人にできるだけ多くの幸福を与えるように行動するのが我々の義務である。 心を穏やかにさせるには思いやりを持つことが大事である。一切の私心をはさまずに物事にあたり、人に接するならば心は穏やかで余裕を持つことができるのだ。 男はいかに丸くとも角を持たねばならぬ。 人は死ぬまで同じ事をするものではない。理想にしたがって生きるのが素晴らしいのだ。 長所を発揮するように努力すれば、短所は自然に消滅する。 事業には信用が第一である。世間の信用を得るには世間を信用することだ。個人も同じである。自分が相手を疑いながら、自分を信用せよとは虫のいい話だ。 論語とソロバンというかけ離れたものを一つにするという事が最も重要なのだ。
勲章等
渋沢栄一記念館 埼玉県深谷市下手計1204 電話048-587-1100
※注:このサイトは、渋沢栄一に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
享年91歳 、誕生日 1840年3月16日、命日 1931年11月11日
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渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、旧字体:澁澤 榮一、1840年3月16日〈天保11年2月13日〉- 1931年〈昭和6年〉11月11日)は、日本の実業家[1]。位階勲等爵位は正二位勲一等子爵。雅号は青淵(せいえん)。
江戸時代末期に農民(名主身分)から武士(一橋家家臣)に取り立てられ、のちに主君・徳川慶喜の将軍就任にともない幕臣となり[2]、明治政府では官僚も務めた。民部省を経て直属の上司である大蔵大輔と井上馨の下で大蔵少輔、吉田清成らと共に造幣、戸籍、出納など様々な政策立案を行い、初代紙幣頭、次いで大蔵省三等官の大蔵少輔事務取扱となる。
井上馨と共に退官後は実業界に転じ、第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京商法会議所(現・東京商工会議所)、東京証券取引所といった多種多様な会社や経済団体の設立・経営に関わった。そのうち企業は約500社[3] にもおよび、「日本資本主義の父」[4] と称され、実業家の肥田理吉(肥田琢司の弟)らと日本経済の在り方を論じた[5]。
同時に東京養育院等の福祉事業、東京慈恵会、聖路加国際病院等の医療事業、東京大学文学部新聞研究室(現:東京大学大学院情報学環教育部)、商法講習所(現:一橋大学)、大倉商業学校(現:東京経済大学)、高千穂高等商業学校(現:高千穂大学)等の実業教育、東京女学館などの女子教育、台湾協会学校(現:拓殖大学)の設立、二松學舍(現:二松学舎大学)第3代舎長就任等による私学教育支援や、理化学研究所設立等の研究事業支援、国際交流、民間外交の実践等にも尽力した。また『論語と算盤』の言葉に代表されるその道徳経済合一の思想でも広く知られている[6]。
慶応2年(1866年)12月、主君の慶喜が将軍となったことに伴って幕臣となる。フランスの首都パリで行われる万国博覧会(1867年)に将軍の名代として出席する慶喜の異母弟・清水家当主の徳川昭武の随員として御勘定格陸軍付調役の肩書を得て、フランスへと渡航する。パリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行する。その際に通訳兼案内役として同行していたアレクサンダー・フォン・シーボルトより語学や諸外国事情を学び、シーボルトの案内で各地で先進的な産業・諸制度を見聞すると共に、近代社会のありように感銘を受ける。フランス滞在中に、幕府における役職は御勘定格陸軍付調役から外国奉行支配調役となり、その後開成所奉行支配調役に転じている[8]。パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後、昭武はパリに留学する予定であったが、大政奉還に伴い、慶応4年(1868年)5月には新政府から帰国を命じられ、昭武の水戸徳川家相続の件もあり、昭武と共に9月4日(1868年10月19日)にマルセイユから帰国の途につき、同年11月3日(12月16日)に横浜港へ帰国した。
1869年(明治2年)10月、明治新政府からの招状が静岡藩庁に届き、栄一は大久保一翁に相談し東京へ向かうと民部省租税正の辞令書を受ける。一度は辞任を決意するも、大隈重信らの説得で11月に出仕する。民部省内に改正掛が置かれると掛長となり、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わった。明治4年(1871年)年7月27日に民部省が大蔵省に統合されることに伴い、芳川顕正紙幣頭の下で大蔵権大丞となり、次いで大蔵大丞となる。1872年(明治5年)には大蔵省三等出仕となり、紙幣寮の頭に就任(同三等出仕は上野景範)。大蔵大輔井上馨や大蔵少輔吉田清成と連携して造幣寮の事務に勤しみ、ドイツで印刷された明治通宝(通称「ゲルマン紙幣」)を取り扱ったが、贋札事件の発生も少なくなかった。さらに、同年2月に起きた東京での大火からの再建を大蔵省が主導することとなり、井上馨、東京府参事の三島通庸らとともに煉瓦造りの街並みを計画した。しかし、予算編成を巡って大久保利通や大隈と対立し1873年5月7日、大蔵大輔井上馨や大蔵少輔吉田清成と共同で財政改革意見を建議し、建議書を『日新真事誌』などに掲載して論議を喚起した。明治6年(1873年)5月14日に井上馨と共に退官した。
大蔵省を辞職した栄一は、井上馨やアレクサンダー・フォン・シーボルト、その弟のハインリヒ・フォン・シーボルトの協力も得ながら明治6年(1873年)自ら設立を指導した第一国立銀行(後の第一銀行、第一勧業銀行、現:みずほ銀行)の総監役に就任する。大株主の三井組、小野組の頭取2名の上に立って、日本最初の銀行の創業を担う。明治7年(1874年)に二大株主の一つ小野組が破綻したことで、新銀行は経営危機に陥った。三井組は単独経営を志向するが、栄一は小野組の古河市兵衛の誠実な対応にも助けられ、被害を最小限に留め、三井組による銀行経営の独占を退けた。自ら単独の第一銀行頭取となり、公益に資する民間取引を軸に据えた銀行の路線を確立する。財閥の機関銀行的な運営とは一線を画し、新興の商工業者の創業指導や資金支援を積極的に展開する。
また、栄一は全国に設立された多くの国立銀行の指導、支援を第一国立銀行を通じて行った。明治10年(1877年)、宇和島伊達家を主な出資先とする第二十国立銀行(後、第一銀行と合併)の設立には相談役を引受け、最終的には第一銀行が吸収合併して経営を引き取り、その深川支店を栄一自邸跡地に移した。
死去 1931年[編集]昭和6年(1931年)11月11日、栄一は老衰の為死去した。享年92(91歳没)。
栄一は数カ月前より大腸狭窄症を発症しており、10月には自邸で開腹手術を受けていた。栄一の逝去の報に接し、弔問の客がひきもきらなかったと伝えられている。当日午後には昭和天皇の勅使、香淳皇后と貞明皇太后の使者が差し遣わされた。
14日、通夜に際しても勅使、御使が遣わされ、栄一の事績を称えた御沙汰書が下賜された。栄一の葬儀は15日に青山葬儀場にて執り行われ、飛鳥山邸から青山までの葬送の列を沿道で多くの人が見送った。
法名は泰徳院殿仁智義譲青淵大居士。墓所は谷中霊園渋沢家墓地。
渋沢栄一名言集 四十、五十は洟垂れ小僧、六十、七十は働き盛り、九十になって迎えが来たら、百まで待てと追い返せ 一人ひとりに天の使命があり、その天命を楽しんで生きることが処世上の第一要件である。金儲けを品の悪いことのように考えるのは根本的に間違っている。しかし儲けることに熱中しすぎると、品が悪くなるのも確かである。金儲けにも品位を忘れぬようにしたい。 夢なき者は理想なし 理想なき者は信念なし 信念なき者は計画なし 計画なき者は実行なし 実行なき者は成果なし 成果なき者は幸福なし ゆえに幸福を求むる者は夢なかるべからず。 できるだけ多くの人にできるだけ多くの幸福を与えるように行動するのが我々の義務である。 心を穏やかにさせるには思いやりを持つことが大事である。一切の私心をはさまずに物事にあたり、人に接するならば心は穏やかで余裕を持つことができるのだ。 男はいかに丸くとも角を持たねばならぬ。 人は死ぬまで同じ事をするものではない。理想にしたがって生きるのが素晴らしいのだ。 長所を発揮するように努力すれば、短所は自然に消滅する。 事業には信用が第一である。世間の信用を得るには世間を信用することだ。個人も同じである。自分が相手を疑いながら、自分を信用せよとは虫のいい話だ。 論語とソロバンというかけ離れたものを一つにするという事が最も重要なのだ。
勲章等
- 1888年(明治21年)5月31日 - 金製黄綬褒章[39]
- 1892年(明治25年)7月19日 - 勲四等瑞宝章(民間人初の叙勲)[47]
- 1902年(明治35年)2月22日 - 勲三等瑞宝章[48]
- 1911年(明治44年)8月24日 - 勲一等瑞宝章[49]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[50]、旭日大綬章[51]
- 1928年(昭和3年)11月10日 - 旭日桐花大綬章[52]
- 1930年(昭和5年)5月21日 - 紺綬褒章飾版[53] 12月5日 - 帝都復興記念章[54]
- 1889年(明治22年)6月8日 - ドイツ帝国:王冠第三等勲章[55]
- 1905年(明治38年)10月20日 - 大韓帝国:勲一等太極章[56]
- 1907年(明治40年)12月19日 - フランス:レジオンドヌール勲章コマンドゥール[57]
- 1915年(大正4年)5月3日 - 支那共和国:一等嘉禾章[58]
- 1920年(大正9年)2月15日 - ベルギー:王冠第一等勲章[59]
- 1920年(大正9年)4月15日 - セルブ・クロアート・スロヴェーヌ国:サン・サヴァ第一等勲章[60]
- 1920年(大正9年)7月28日 - ベルギー:ロワ・アルベール記章[61]
- 1923年(大正12年)7月3日 - 中華民国:一等大綬宝光嘉禾章[62]
- 1926年(大正15年)11月12日 - フランス:レジオンドヌール勲章グランクロワ[63]
渋沢栄一記念館 埼玉県深谷市下手計1204 電話048-587-1100
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