生い立ち
船越英二郎は1923年、東京都四谷区内藤新宿(現・東京都新宿区)に生まれた。本名、船越英二郎(ふなこし えいじろう)。四谷第五小学校、帝京中学校を卒業後、美術学校か写真学校への進学を希望していたが、父親の勧めで1941年に専修大学経済学部に入学する。しかし、1944年、兵役のため専修大学を繰り上げ卒業。香川県三豊郡豊浜町(現観音寺市)の陸軍海軍兵学校に入学し、翌年8月の終戦まで見習い将校として勤務した。その後、父の勧めで故郷の新宿で写真屋を開業。1947年、俳優になった兄の友人が、大映の第2回ニューフェイス募集に船越の応募書類を冷やかしで送り、採用された。同年3月、大映東京撮影所俳優養成所を受講し、4月には専属契約となった。
俳優から旅館の主人
1958年、長谷川一夫の姪で女優の長谷川弘美子と結婚し、2年後に長男で後に俳優となる船越英一郎が誕生した。1959年の『野火』は、大岡昇平が脚本を書き、市川崑が監督した。何日も絶食して役作りをし、フィリピン戦線で飢餓の中をさまよう敗残兵の演技が絶賛され、第33回キネマ旬報ベスト・テン主演男優賞、第14回毎日映画コンクール主演男優賞をはじめさまざまな映画賞を受賞した。その後、『黒い十人の女』(1964年)、『破戒』(1967年)、『私は二人』(1971年)などの話題作に出演している。1965年、息子の英一郎の喘息治療のため神奈川県湯河原町(足柄下郡)に住居を移し、会員制旅館「船越」を設立。1971年、大映の倒産を機にテレビドラマに活動の場を移し、『時間ですよ!』『熱き時代』『暴れん坊将軍』など、代表作を次々と発表した。
船越家の五輪塔
日本映画の黄金時代、この時期にデビューした女優たちは、頻繁に主演女優に抜擢され、スクリーンの中で有名な存在となった。中でも長谷川弘美子は、片岡千恵蔵の「大菩薩峠」シリーズのお浜とお豊の二役から、大友柳太朗の「丹下左膳」シリーズの濃い櫛巻お藤まで、さまざまな役をこなす「姫女優」として大映撮影所で頭角を現したのである。引退後は湯河原で平穏な生活を送っていたが、息子の嫁と船越英二(夫の元教え子)の確執、旅館の廃業、娘の自殺と不幸に見舞われた。
墓は東京都新宿区(旧神奈川県)の正受院にあるが、2013年2月23日、松井和代(英治の息子と結婚して船越と改姓)が移した。現在、彼女の墓石の上には「船越家」と書かれた五輪塔が建っている。
墓は東京都新宿区(旧神奈川県)の正受院にあるが、2013年2月23日、松井和代(英治の息子と結婚して船越と改姓)が移した。現在、彼女の墓石の上には「船越家」と書かれた五輪塔が建っている。