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この追悼サイトは、 江利 チエミ(歌手・女優・タレント)さまのために作成されました。

江利 チエミ(えり ちえみ、本名:久保 智恵美(くぼ ちえみ)、1937年昭和12年〉1月11日 - 1982年〈昭和57年〉2月13日[1])は、昭和期に活躍した日本歌手女優タレント

享年45歳 、誕生日 1937年1月11日、命日 1982年2月13日
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“少女歌手・江利チエミ”のルーツは「生活を支えるため」であり、この点は美空ひばりとの相違である。ひばりはひばりの母親のなし得なかった「歌手になる」という夢と、自身も歌が好きで非常に巧かったということが合致し、マメ歌手の人生をスタートするが、豊かではないまでも実家は父が「魚増」という鮮魚店を営み、家計に困窮していたわけでは無かった。かたや智恵美は、師匠である柳家三亀松とのいわば喧嘩別れで失職した父、病床で寝たり起きたりの母、また3人の兄、これだけのものを背負っていた。長兄も陸軍士官学校出身で英語も堪能なエリートだったが、戦後の価値観の変化などで順調とは行かず、結局、父がマネージャー、長兄が付き人という3人4脚での芸能活動が、1949年(昭和24年)、12歳のころからスタートすることになった。

進駐軍のキャンプまわりの仕事をこなしていくうちに智恵美はドリス・デイの「アゲイン」などを習得し、ジャズ歌手への志向を高めていく。進駐軍のアイドルとなり、愛称は「エリー」となる

1952年(昭和27年)1月23日に自分の意志を貫き「テネシーワルツ/家へおいでよ」でレコードデビューを果たす。そのときチエミは15歳だった。しかし吹き込みは前年の11月だったため、キングレコードは「14歳の天才少女」というキャッチコピーを提案した[1]。しかしこのとき「嘘をつくのは嫌だ!」と抗議。少女時代から自分の意志を通す一徹な部分を持った性格だった。
メジャーデビューシングルの「テネシーワルツ」は23万枚[2]、続く「ツゥー・ヤング」(トゥー・ヤング)も15万枚[2] の大ヒットとなった。クラシック音楽以外の全ての海外製ポピュラー音楽を総称して「ジャズ」と呼んだ当時、この大ヒットが、大規模の劇場や公会堂を使ったジャズ・コンサート(ジャズ・コン)ブームや、ジャズを放送で取り上げる民間放送の開局ラッシュと重なり、ジャズが全国へ広がるうえでの牽引役となる。

元々、チエミの興行権を握っていたのは吉本興業だった。若き日の永島達司はチエミの興行を打った会場で「山口組の三代目と吉本の林さんが怖そうな人と来てるから逃げてください」と忠告された。挨拶に行くと2人は「ウチのところでもやってくれ」と切り出してきた。後に『夢のワルツ』(講談社)の中で永島は、大物2人は文句を言おうと思ってきたが会場の客層を見て(キョードー東京の連中を)使った方が便利だと考えたんだろう、と語っている。
メジャーデビューの翌年、1953年(昭和28年)の春には、招かれてアメリカキャピトル・レコードで「ゴメンナサイ / プリティ・アイド・ベイビー」を録音、ヒットチャートにランキングされるという日本人初の快挙を達成したとされる[注釈 3][注釈 4]ロサンゼルスなどでステージにも立ち絶賛を浴びる。帰路のハワイでも公演を成功させ、そこで合流したジャズ・ボーカル・グループ「デルタ・リズム・ボーイズ」と共に凱旋帰朝、ジョイント・コンサートを各地で開き、ジャズ・ボーカリスト・ナンバー1の地位を獲得する。

なお、チエミが渡米している間にライバルとなる雪村いづみがデビューする。帰国第一声は「雪村いづみって、どんな子?」だったという。しかもデビュー曲が自らカバーしようと準備していたテレサ・ブリュワー「想い出のワルツ」(原題: Till I Waltz Again with You)だったので心中おだやかではなかったが、スカートの丈が合わずシミーズが少し出た背の高い痩せぎすな少女・いづみが空港で出迎え、その屈託の無い可憐な姿にチエミの心は和み、やがて2人は終生の親友となった。

美空ひばり・雪村いづみとともに「三人娘」と呼ばれ、一世を風靡、『ジャンケン娘』(1955年)などの一連の映画で共演した。その頃からチエミは、日劇をホームグラウンドとして活躍、日劇の歴史で「歌手の名前がそのロングラン公演のタイトル」となったのは、1955年(昭和30年)4月26日 - 5月6日『チエミ海を渡る』がさきがけだった(チエミの日劇初出場はメジャーデビュー前の1951年(昭和26年)。1952年から1967年までリサイタルを開いた)。またTBSチエミ大いに歌う』は、ワンマンショウスタイルのさきがけともなった歌番組(1965年4月 - 11月)であった。

映画の『サザエさん』シリーズ(1956年から全10作が作られた)もヒット。後にテレビドラマ(1965年 - 1967年)、舞台化もされ生涯の当たり役となる。東映作品『ちいさこべ』では京都市民映画祭で優秀助演女優賞を獲得、『ふんどし医者』など、自身主演の音楽娯楽映画(『唄祭りロマンス道中』(渥美清・共演)、『ジャズ娘誕生』(石原裕次郎・共演)、『チエミの婦人靴』など)以外にも数多く助演した。

220px-Eri_Chiemi.JPG1955年220px-Takakura_ken_eri_chiemi_1960.jpeg高倉健と。1960年1959年(昭和34年)、ゲスト出演した東映映画での共演が縁で高倉健と結婚[1]、家庭に入るものの、1960年(昭和35年)に本格的に復帰。高倉と結婚した3年後の1962年、チエミは妊娠し子供を授かるが重度の妊娠高血圧症候群(この当時は「妊娠中毒症」と呼ばれていた)を発症し、中絶を余儀なくされ子宝には恵まれなかった[5]

チエミの姉(異父姉)による横領事件(後述)などがあって、高倉に迷惑をかけてはならない、と1971年(昭和46年)にチエミ側から高倉に離婚を申し入れることに[1]。チエミは数年かけて数億に及んだ借財と抵当にとられた実家などを取り戻す。

私生活の面では、3人の兄はチエミの存命中に2人が亡くなり、高倉健との間に授かった子供も重度の妊娠高血圧症候群から中絶を余儀なくされ、かわいがっていた甥の電車事故死、異父姉とのトラブル、そして離婚と、恵まれない部分も多かった。さらに1968年にはポリープによる声帯の手術、1970年1月21日には当時世田谷区瀬田(旧・玉川瀬田町)にあった邸宅を火災で焼失、1972年には日本航空351便ハイジャック事件に乗客として遭遇する(歌手・俳優の三田明も搭乗していた)等、芸能生活の華やかな栄光の陰で常に不幸もつきまとっていた。
ベスト・アルバム[編集]
  1. 究極盤 江利チエミ 〜スーパーベスト〜 (2018年6月6日)
  2. 江利チエミ ベストセレクション 2019 (2019年4月10日)
  3. 決定版 2020 江利チエミ (2019年12月11日)
  4. 甦る昭和歌謡 江利チエミ ベスト10 (2020年11月4日)
  5. チエミ・オリジナル (2021年11月17日)
  6. テネシー・ワルツ 〜江利チエミ ベスト・ポップス〜 (2021年11月17日)
  7. 決定版 2022 江利チエミ (2021年12月8日)
作曲作品[編集]さよならは一度でいいの(1968年) 作詞:水垣洋子 作曲:江利チエミ 編曲:森岡賢一郎

         20220620_asagei_eri-250x250.jpg 江利チエミと高倉健

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      江利チエミのお墓 法徳寺 東京都世田谷区瀬田1-7-7

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軌跡

(生い立ち)

1937年昭和12年)1月11日(月曜日)、東京市下谷区(現・東京都台東区下谷)に3男1女の末娘として生まれる。血液型はA型。

父・久保益雄は福岡県田川郡添田町の出身。独学でクラリネット奏者になったが、軍事徴用での工場の作業で指の先を痛め、以降再び独学でピアノ弾きに転向したりと、ともかく「音楽センス」の素晴らしい人だったと言われており、智恵美が生まれた頃は船のバンドマスター、吉本興業に所属していた[注釈 1]。益雄はバンドマスターを経て吉本所属(東京吉本)の大スター、柳家三亀松三味線漫談)の相三味線やピアノ伴奏を務める[注釈 2]。この三味線も独学で習得したものだった。

母はレビュー一座・東京少女歌劇出身の女優、谷崎歳子である。のちに浅草の軽演劇の舞台に立ち、吉本興業に所属する。名喜劇女優として、当時同じく吉本にいた笠置シヅ子と共演したり、榎本健一とも映画で共演したりしているが、智恵美を身ごもるころより身体を壊し、一線から退いた。