墓地:青山霊園 東京都港区南青山2丁目32–2 1側1号4側
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- 藤村 操 (みさお) (1886.7.20-1903.5.22) 享年16歳
- 日光の華厳滝で投身自殺した哲学青年。 北海道出身の旧制一高の学生。 12歳で単身、東京へ出て開成中学に入り、飛び級で京北中学 に編入。 この間、13歳のときに銀行頭取だった父・胖(ゆたか)が他界。 1902年(16歳)、 最年少で第一高等学校に入学。 翌1903年5月21日、制服制帽のまま失踪した。
- その前日の英語の授業で、藤村は予習をせず、態度も悪かったため、 新任講師だった 35歳の夏目漱石 (1867-1916) から、「勉強する気がないなら、もう出てこなくてよい」と説教されていた。よい」と説教されていた。
- 失踪の夜、藤村は栃木県日光の旅館に宿泊する。 翌22日、藤村は片想い中の1歳年上の馬島千代(当時18歳)を訪ねて、手紙と高山 樗牛の 『滝口入道』(平家物語に登場する悲恋をはかなみ出家する男の話)を手渡し、手紙には「傍線を惹いた箇所をよく読んで下さい」 と記した。 その後、“滝” を目指して華厳(けごん)の滝に向かい、 そばのミズナラの木の幹を削って、 遺書 「巖頭之感 (がんとうのかん)」を 墨で書き残して投身した。 享年16歳10カ月。遺書には「人生は不可解であり死ぬことにした」という内容が刻まれていた。 藤村の死は「巖頭之感」とともに5日後に各紙が「煩悶(は んもん) 青年の自殺」 「哲学的自死」として報道、 大きな反響を呼んだ。
巖頭之感(がんとうのかん) 現代語訳
岩の上で思う 天地は何者にもとらわれず、 なんと悠々としていることか。 今と昔のとは、はるかにへだたってしまった。五尺 (151cm)の小さな体でこの大きさを測ろうとしている。 ホレーショの哲学はなんら権威のあるものではない。 全ての真相はただ一言につきている。 「不可解」であると。 私はこの恨みを抱いて煩悶して、ついに死を決断した。 こうして岩の上に立つことになって、 胸の中に何も不安はない。 初めて知ったのだ、大きな悲観は、大きな楽観と同じということを
- 遺体は約40日後に発見された。 木に刻んだ遺書は警察に削り取られ、 伐採されたが、 写真として残る。「立身出世」を美徳としてきた当 時の社会にあって、文明、国家、 出世主義に背を向け、人生の新しい価値を求めての煩悶自殺であり、悲観主義によるエリート学生の死 は若者たちに衝撃を与え、後を追う者が続出。 死後4年間で、華厳滝で自殺を図った者は185名、うち死者は40名に達した。 遺言の 『頭之感』をそらんじた学生は大変な数にのぼり、“人生不可解”は多くの哲学青年の合言葉ともなった。
※漱石は自責の念に駆られ、この事件が後年ノイローゼとなった一因とも。 他界4年後、 漱石は 『草枕』の第12章でこの自死に言及して いる。 「かの青年は《美》の一字のために捨つるべからざる命を捨てたるものと思う」とし、それを批判したり笑う人間には「(そういう連 中は“下司下郎(げすげろう)”であり) 藤村よりは人格として劣等であるから、嗤(わら)う権利がない」 と、 藤村を擁護している。 ※4年後に生存説を書いた本が出た。 藤村は自殺未遂後、日光の山を下山し、 海賊船で世界を巡り、パリで悟りを開くというもので、出 版直後に発売禁止処分になった。 荒唐無稽な内容にもかかわらず、のちに神田の古本屋で 147万円の高値がついた。
★藤村家墓域に石碑型の墓標「巌頭の感」が建ち、遺言がそのまま刻まれている。
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