(学生時代~終戦)
蔦は1923年に徳島市で生まれ[1]、旧家の一人息子として裕福に育った。徳島県立商業学校に進学するが、当時の徳商は後に「徳島県高校野球育ての親」と言われる稲原幸雄監督が率いており、練習見学で猛練習に恐れをなして1年目はテニス部に所属[12]。2年目から野球部に転じ、稲原の指揮で1939年の選抜に一塁手として、1940年の春の選抜・夏の選手権には投手として甲子園に出場している。先輩に林義一、同級生に平井三郎がいる。卒業後は同志社大学経済学部に入学し、野球部では徳網茂とバッテリーを組んで黄金時代を築くが[13]、学徒出陣で太平洋戦争に出征する。のちに日本海軍の特攻隊員となるも、出撃前に終戦を迎えた。