承継
この追悼サイトは、 フランシスコ・ ザビエル(カトリック教会の聖人・東洋の使徒)さまのために作成されました。

享年46歳 、誕生日 1506年4月7日、命日 1552年12月3日
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フランシスコ・ザビエルスペイン語: Francisco de Xavier または Francisco de Jasso y Azpilicueta, 1506年4月7日 - 1552年12月3日[1])は、スペインナバラ王国生まれのカトリック教会司祭宣教師イエズス会の創設メンバーの1人バスク人

ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドゴアに派遣され、その後1549年天文18年)に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名である。また、日本やインドなどで宣教を行い、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれている。カトリック教会の聖人で、記念日は12月3日

1525年、19歳で名門パリ大学に留学。聖バルバラ学院フランス語版)に入り、自由学芸を修め、哲学を学んでいるときにフランス出身の若きピエール・ファーヴルと同室になる。のちにザビエルと同様にバスクから来た37歳の転校生イニゴ(イグナチオ・デ・ロヨラ)も加わる。イニゴはパンプローナの戦いで片足の自由を失い傷痍軍人として故郷のロヨラ城で療養の後、スペインのアルカラ大学を経てパリ大学モンテーギュ学院で学んでいた。1529年、ザビエルの母が死亡。その4年後、ガンディアの女子修道院長だった姉も亡くなる。

この時期ザビエルは哲学コースの最後の課程に入っていたが、ロヨラから強い影響を受け、聖職者を志すことになる。そしてロヨラの感化を受けた青年たちが集まり、1534年8月15日、ロヨラ、ザビエル、ファーヴルとシモン・ロドリゲスディエゴ・ライネスニコラス・ボバディリャアルフォンソ・サルメロンの7人が、モンマルトル聖堂において神に生涯を捧げるという誓いを立てた。これが「モンマルトルの誓い」であり、イエズス会の創立である。この時のミサは、当時唯一司祭となっていたファーヴ ルが執り行った。

一同はローマ教皇パウルス3世の知遇を得て、叙階許可を与えられたので、1537年6月、ヴェネツィアの教会でビンセンテ・ニグサンティ司教によって、ザビエルもロヨラらとともに司祭に叙階された。彼らはエルサレム巡礼の誓いを立てていたが、国際情勢の悪化で果たせなかった。

1548年11月にゴアで宣教監督となったザビエルは、翌1549年4月15日、イエズス会士コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、ゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人とともにジャンク船でゴアを出発、日本を目指した[注釈 4]

一行は上川島広東省江門市台山)を経由し、ヤジロウの案内でまずは薩摩半島坊津に上陸、その後許しを得て、1549年天文18年)8月15日に現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した。この日はカトリック聖母被昇天の祝日にあたるため、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げた。

1549年9月には、伊集院城(一宇治城/現・鹿児島県日置市伊集院町大田)で薩摩国守護大名島津貴久に謁見、宣教の許可を得た[注釈 5]。 ザビエルは薩摩での布教中、福昌寺の住職で友人の忍室文勝(にんしつもんしょう)と好んで宗教論争を行ったとされる。後に日本人初のヨーロッパ留学生となる鹿児島のベルナルドなどにもこの時に出会う。

しかし、貴久が仏僧の助言を聞き入れ禁教に傾いたため、「にのぼる」ことを理由に薩摩を去った(仏僧とザビエル一行の対立を気遣った貴久のはからいとの説もある)。

1550年(天文19年)8月、ザビエル一行は肥前国平戸に入り、宣教活動を行った。同年10月下旬には、信徒の世話をトーレス神父に託し、ベルナルド、フェルナンデスと共に京を目指し平戸を出立。11月上旬に周防国山口に入り、無許可で宣教活動を行う。周防の守護大名・大内義隆にも謁見するが、男色を罪とするキリスト教の教えが義隆の怒りを買い、同年12月17日に周防を発つ。岩国から海路に切り替え、に上陸。豪商の日比屋了珪の知遇を得る

1551年(天文20年)1月、日比屋了珪の支援により、一行は念願の京に到着。了珪の紹介で小西隆佐の歓待を受けた。

ザビエルは、全国での宣教の許可を「日本国王」から得るため、インド総督とゴアの司教の親書とともに後奈良天皇および征夷大将軍・足利義輝への拝謁を請願。しかし、献上の品がなかったためかなわなかった。また、比叡山延暦寺の僧侶たちとの論戦も試みるが、拒まれた。これらの失敗は戦乱による室町幕府の権威失墜も背景にあると見られ、当時の御所や京の町はかなり荒廃していたとの記録もある。京での滞在をあきらめたザビエルは、山口を経て、1551年3月、平戸に戻る。

ザビエルは、平戸に置き残していた献上品を携え、三度山口に入った。1551年4月下旬、大内義隆に再謁見。それまでの経験から、貴人との会見時には外観が重視されることを知っていたザビエルは、一行を美服で装い、珍しい文物を義隆に献上した。献上品は、天皇に捧呈しようと用意していたインド総督とゴア司教の親書の他、望遠鏡、洋琴、置時計、ギヤマンの水差し、鏡、眼鏡、書籍、絵画、小銃などであった[注釈 6]。ザビエルは、初めて日本に眼鏡を持ち込んだといわれる。

これらの品々に喜んだ義隆はザビエルに宣教を許可し、信仰の自由を認めた。また、当時すでに廃寺となっていた大道寺をザビエル一行の住居兼教会として与えた(日本最初の常設の教会堂)。ザビエルはこの大道寺で一日に二度の説教を行い、約2ヵ月間の宣教で獲得した信徒数は約500人にものぼった

また、山口での宣教中、ザビエルたちの話を座り込んで熱心に聴く盲目の琵琶法師がいた。彼はキリスト教の教えに感動してザビエルに従い、後にイエズス会の強力な宣教師ロレンソ了斎となった

日本滞在が2年を過ぎ、ザビエルはインドからの情報がないことを気にしていた。そして一旦インドに戻ることを決意。11月15日、日本人青年4人(鹿児島のベルナルド、マテオ、ジュアン、アントニオ)を選んで同行させ、トーレス神父とフェルナンデス修道士らを残して出帆。種子島、中国の上川島を経てインドのゴアを目指した。1552年2月15日、ゴアに到着すると、ザビエルはベルナルドとマテオを司祭の養成学校である聖パウロ学院に入学させた。マテオはゴアで病死するが、ベルナルドは学問を修めてヨーロッパに渡った最初の日本人となった。

中国布教への志しと終焉、死後列聖まで[編集]200px-Casket_of_Saint_Francis_Xavier.jpg                            ゴアのボム・ジェズ教会内・ザビエルの遺体が安置された棺200px-The_Arm_of_St._Francis_Xavier_1949.jpg1949年に日本に運ばれたザビエルの右腕1552年4月、ザビエルは、日本での布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国での宣教が不可欠と考え、バルタザール・ガーゴ神父を自分の代わりに日本へ派遣。ザビエル自らは中国を目指し、同年9月上川島に到着した。しかし中国への入境は思うようにいかず、ザビエルは病を発症。12月3日、上川島でこの世を去った。46歳であった。

      200px-Yamaguchi_Xavier_Memorial_Church.JPG  山口ザビエル記念聖堂  山口県山口市

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このメッセージは、 2024年5月5日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名である。
生涯を宣教に捧げたカトリック教会の聖人よ永遠に!     アーメン!

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このメッセージは、 2024年5月5日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名である。
生涯を宣教に捧げたカトリック教会の聖人よ永遠に!     アーメン!
軌跡

(青年期まで)

1506年4月7日、フランシスコ・ザビエルはナバラ王国パンプローナに近いハビエル城で生まれ、地方貴族の家で育った。5人姉弟(兄2人、姉2人)の末っ子で、父はドン・フアン・デ・ハッソ、母はドーニャ・マリア・デ・アズピリクエタ。父はナバラ王フアン3世の信頼厚い家臣として宰相を務め、フランシスコが誕生した頃、すでに60歳を過ぎていた。ナバラ王国は小国ながらも独立を保ってきたが、フランスとスペイン(カスティーリャアラゴン)の紛争地になり、1515年についにスペインに併合される。父・フアンはこの激動の中で逝去した。その後、ザビエルの一族はバスク人とスペイン、フランスの間での複雑な争いに翻弄されることになる。