この想いでサイトは、私たちの尊敬する人 山内 房治郎(任天堂・創業者)さんを記念して作成されました。
世界中にその名を知られている「NINTENDO」。家庭用ゲーム機の市場をつくった会社だ。しかし1983年に「ファミリーコンピュータ」を発売する直前までは、花札やトランプを主力製品とした京都のローカル企業に過ぎなかった。それを大きく生まれ変わらせたのが、22歳にして社長に就任した山内溥氏(1927─2013)だった。
※このサイトで故人への弔意・思い出を自由に投稿することができます。
初代、山内房次郎は
1859年、京都に福井宗助の長男として生まれ[1]、1872年に山内猶七の養子となる[2]。1885年より石灰問屋「灰岩」でセメント(小野田セメント京都代理店)を取り扱うかたわら、1889年9月23日に、「京都市下京区正面通り大橋西入る」の地にあった空き家を買い取り、その地に「任天堂骨牌」(山内房治郎商店)を創業した。灰岩の経営と並行して、自らの工芸家としての腕を活用し花札の製造販売を始め、今日の世界的コンピューターゲーム企業「任天堂」の基礎を築いた。当時の任天堂は一つの商店に過ぎず、「本社」ならぬ「本店」で直接花札を買うことが可能だった。房治郎は花札だけではなくトランプの製造も始め、「明治の煙草王」村井吉兵衛と交渉してタバコ流通網を使い花札・トランプの販売を開始。房治郎が隠居する頃には日本一のプレイングカード会社となっていた。一方、セメント業でも灰岩からの事業引継を前提に1920年に灰孝本店を設立(孫娘で積良の次女である孝から命名)、1925年には灰岩を完全に継承した。その後も灰孝本店は孝の子孫が事業を引き継いでいる[2]。
かるたなどのカード類は、今でこそ工業化されているが、当時は職人の手仕事の世界であり、伝統的にすべての製造者は自身や知り合いの店舗、作業場を通じて製品を直売していた。しかし、房治郎は単なる職人にとどまらず、商売人として時代の一歩先を行くセンスを持ち合わせており、カード屋としては初めて全国に市場を開拓。カード一筋に生きてきた任天堂は、小さいながらも極めて安定した優秀なカードメーカーとして、昭和初期には全国にその名が知れ渡るようになった。
年老いた房治郎には跡継ぎとなる息子がいなかった。そこで1929年(昭和4年)、最も優秀な従業員だった金田積良を婿養子として迎え入れた。金田から山内となった積良は、任天堂2代目店主となり、事業を受け継いだ。1933年(昭和8年)、手狭となっていた木造の本店を改築し、当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りにし、合名会社山内任天堂を設立、輸出業務にも進出した。
カード類の輸出は無税だったことから、その利益幅は大きかった。その資金を使って京都の東山地区にまとまった土地を購入するなど、不動産事業にも積極的に取り組んだ。1947年(昭和22年)には、任天堂の販売会社「株式会社丸福」を設立し、製造と販売のラインを分け、社内体制の合理化を図った。
新設した工場では、それまでの家内工業では実現できなかった新しいトランプの開発に取り組んだ。従来の紙製トランプは、折れやすく、周囲がけば立つ、手の油が染み付くなどの欠点があったが、任天堂骨牌は1年以上かけて新素材を使ったトランプを考案。1953年(昭和28年)に、わが国で初めてプラスチック製トランプの開発に成功し、量産を開始した。価格が従来の倍近くになったことなどから当初は伸び悩んだが、その高い品質は少しずつ人々にも理解されるようになり、売り上げも上昇。青年社長だった溥の読みは当たり、家業を継いで以来の大きなハードルを見事に越えたのだった。
やがてプラスチック製トランプは売れに売れ、高度経済成長の波にも乗って、任天堂骨牌の売り上げは3億円台に上昇。ちょうどその頃、子供たちの間でディズニーアニメ映画がはやっているという情報を耳にした溥は、トランプの絵柄にキャラクターをあしらった商品を思いつく。
1960年(昭和35)になると、トランプや花札の大量生産機を独自に開発し、生産性が大幅に向上した。大量生産によるコスト削減とディズニートランプによる売り上げ・収益増で、1962年(昭和37年)にカードゲームの会社としては初めて株式上場を果たす。溥はさらなる飛躍を求め、新しいビジネスに進出したいという思いから、翌年には社名からかるたを意味する「骨牌」を取り、現在の任天堂株式会社に変更した。
ファミリーコンピュータ(ファミコン)誕生に至るまでの挑戦と失敗の歴史が始まる。
任天堂本社 京都市南区上鳥羽鉾立町11-1
ニンテンドーミュージアム 京都府宇治市小倉町神楽田56番地
世界中にその名を知られている「NINTENDO」。家庭用ゲーム機の市場をつくった会社だ。しかし1983年に「ファミリーコンピュータ」を発売する直前までは、花札やトランプを主力製品とした京都のローカル企業に過ぎなかった。それを大きく生まれ変わらせたのが、22歳にして社長に就任した山内溥氏(1927─2013)だった。
※このサイトで故人への弔意・思い出を自由に投稿することができます。
初代、山内房次郎は
1859年、京都に福井宗助の長男として生まれ[1]、1872年に山内猶七の養子となる[2]。1885年より石灰問屋「灰岩」でセメント(小野田セメント京都代理店)を取り扱うかたわら、1889年9月23日に、「京都市下京区正面通り大橋西入る」の地にあった空き家を買い取り、その地に「任天堂骨牌」(山内房治郎商店)を創業した。灰岩の経営と並行して、自らの工芸家としての腕を活用し花札の製造販売を始め、今日の世界的コンピューターゲーム企業「任天堂」の基礎を築いた。当時の任天堂は一つの商店に過ぎず、「本社」ならぬ「本店」で直接花札を買うことが可能だった。房治郎は花札だけではなくトランプの製造も始め、「明治の煙草王」村井吉兵衛と交渉してタバコ流通網を使い花札・トランプの販売を開始。房治郎が隠居する頃には日本一のプレイングカード会社となっていた。一方、セメント業でも灰岩からの事業引継を前提に1920年に灰孝本店を設立(孫娘で積良の次女である孝から命名)、1925年には灰岩を完全に継承した。その後も灰孝本店は孝の子孫が事業を引き継いでいる[2]。
かるたなどのカード類は、今でこそ工業化されているが、当時は職人の手仕事の世界であり、伝統的にすべての製造者は自身や知り合いの店舗、作業場を通じて製品を直売していた。しかし、房治郎は単なる職人にとどまらず、商売人として時代の一歩先を行くセンスを持ち合わせており、カード屋としては初めて全国に市場を開拓。カード一筋に生きてきた任天堂は、小さいながらも極めて安定した優秀なカードメーカーとして、昭和初期には全国にその名が知れ渡るようになった。
年老いた房治郎には跡継ぎとなる息子がいなかった。そこで1929年(昭和4年)、最も優秀な従業員だった金田積良を婿養子として迎え入れた。金田から山内となった積良は、任天堂2代目店主となり、事業を受け継いだ。1933年(昭和8年)、手狭となっていた木造の本店を改築し、当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りにし、合名会社山内任天堂を設立、輸出業務にも進出した。
カード類の輸出は無税だったことから、その利益幅は大きかった。その資金を使って京都の東山地区にまとまった土地を購入するなど、不動産事業にも積極的に取り組んだ。1947年(昭和22年)には、任天堂の販売会社「株式会社丸福」を設立し、製造と販売のラインを分け、社内体制の合理化を図った。
京都市内の任天堂の旧本社社屋。改装され2022年4月に高級ホテル「丸福樓(まるふくろう)」として開業 1927年(昭和2年)、山内家の4代目にして待望の男の子・溥が生まれた。積良の養子であった実父とは溥が幼い頃に別れ、溥は祖父母のもとで育てられた。家業は栄え、裕福だった溥は東京の大学に進学。終戦直後で国民の大半が貧しかった頃に、ビリヤードクラブ通いをし、庶民には手の届かなかったレストランでビフテキを頬張りながらワインをたしなむといったぜいたくな暮らしをしていた。ところが、大学4年生の時に祖父が病で倒れたため、大学を中退して京都に呼び戻されてしまう。
やがてプラスチック製トランプは売れに売れ、高度経済成長の波にも乗って、任天堂骨牌の売り上げは3億円台に上昇。ちょうどその頃、子供たちの間でディズニーアニメ映画がはやっているという情報を耳にした溥は、トランプの絵柄にキャラクターをあしらった商品を思いつく。
1960年(昭和35)になると、トランプや花札の大量生産機を独自に開発し、生産性が大幅に向上した。大量生産によるコスト削減とディズニートランプによる売り上げ・収益増で、1962年(昭和37年)にカードゲームの会社としては初めて株式上場を果たす。溥はさらなる飛躍を求め、新しいビジネスに進出したいという思いから、翌年には社名からかるたを意味する「骨牌」を取り、現在の任天堂株式会社に変更した。
ファミリーコンピュータ(ファミコン)誕生に至るまでの挑戦と失敗の歴史が始まる。
任天堂本社 京都市南区上鳥羽鉾立町11-1
ニンテンドーミュージアム 京都府宇治市小倉町神楽田56番地
- ※注:このサイトは、山内房治郎に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
メッセージの投稿
メッセージ
アルバム
報告