この追悼サイトは、 フヨードル・ ドストエフスキー(19世紀後半のロシアを代表する文豪)さまのために作成されました。
享年59歳 、誕生日 1821年11月11日、命日 1881年2月9日
※ フヨードル・さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー[* 1](ロシア語: Фёдор Миха́йлович Достое́вский[* 2] [ˈfʲɵdər mʲɪˈxajləvʲɪtɕ dəstɐˈjɛfskʲɪj] ( 音声ファイル)、1821年11月11日〔ユリウス暦10月30日〕 - 1881年2月9日〔ユリウス暦1月28日〕)は、ロシア帝国の小説家・思想家である。レフ・トルストイ、イワン・ツルゲーネフと並び、19世紀後半のロシア小説を代表する文豪である。
28歳で空想的社会主義に関係して逮捕されるが、出獄後、社会主義に批判的になり、キリスト教的人道主義へと思想を変化させ、代表作である『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』などを発表し、「現代の預言書」とまでよばれる文学を創造した。ドストエフスキーの著作は、世界中で読まれ、170以上の言語に翻訳されている[2]。ソルジェニーツィンやチェーホフ、ニーチェ、サルトル、ウィトゲンシュタイン、アインシュタイン、日本人では、黒澤明、湯川秀樹、小林秀雄、大江健三郎、村上春樹、三島由紀夫、埴谷雄高などの多くの人物に影響を与えた。
四年後の1831年に、モスクワから150キロメートルほど南に離れたトゥーラ州にあるダロヴォーエを買う。その翌年には、隣村のチェリョーモシナを買い、「地主貴族」になった。しかし、土地を買ってすぐに大火事が起こり、二つの土地の屋敷は灰と化した。同年の夏には領地の屋敷は罹災から復興した。ドストエフスキーは、母が読み書きに使っていた『旧約聖書』や『新約聖書』、またシラーの『群盗』などに強い感銘を受けた。
1839年、父が農民に恨みを買い、ドストエフスキー家が所有する2つの領地であるダラヴォーエとチェルマシニャーの境界あたりで惨殺された[3]。1840年に士官候補生となる。1841年、野戦工兵旗手となる。1842年8月、少尉に任官。1843年8月に工兵学校を卒業した。卒業後に勤務したサンクトペテルブルクの工兵隊製図局が肌に合わず、約1年で中尉昇進のうえ退職し作家を目指す[4]。工兵学校生・作家時代を送ったサンクトペテルブルクは、物語の舞台として数々の作品に登場する。
デビューこそ華々しかったが、続けて発表した『白夜』『二重人格』は酷評をもって迎えられる。
この時の体験に基づいて後に『死の家の記録』を著す。他にも『白痴』などで、死刑直前の囚人の気持ちが語られるなど、この事件は以後の作風に多大な影響を与えた。刑期終了後、セミパラチンスクにおいて兵士として軍隊で勤務した後、1858年にペテルブルクに帰還する[5]。この間に理想主義者的な社会主義者からキリスト教的人道主義者へと思想的変化があった。その後『罪と罰』を発表し、評価が高まる。
自身の賭博にのめり込む性質、シベリア流刑時代に悪化した持病のてんかん(側頭葉てんかんの一種と思われる。恍惚感を伴う珍しいタイプのてんかん)などが創作に強い影響を与えており、これらは重要な要素としてしばしば作品中に登場する。賭博好きな性質は、必然としてその生涯を貧乏生活にした。借金返済のため、出版社との無理な契約をして締め切りに追われる日々を送っていた。あまりのスケジュール過密さのため、『罪と罰』『賭博者』などは口述筆記という形をとった。速記係のアンナ・スニートキナは後にドストエフスキーの2番目の妻となる。
また、小説以外の著名作に『作家の日記』がある。これは本来の日記ではなく、雑誌『市民』でドストエフスキーが担当した文芸欄(のちに個人雑誌として独立)であり、文芸時評(トルストイ『アンナ・カレーニナ』を絶賛)、政治・社会評論、時事評論、エッセイ、短編小説、講演原稿(プーシキン論)、宗教論(熱狂的なロシアメシアニズムを唱えた)を含み、後年ドストエフスキー研究の根本文献となった。ドストエフスキーは『作家の日記』でユダヤ人を批判する反ユダヤ主義的な主張を死去するまで繰り返し、またアーリア民族を賛美した[6]。その一方で、『作家の日記』においてドストエフスキーは、年少犯罪者や養育院など恵まれない子どもたちの生活に深い関心を寄せ、愛や人類の再生について考えていた[7]。
ドストエフスキーの葬列を描いたスケッチ晩年に、自身の集大成的作品『カラマーゾフの兄弟』を脱稿。その数ヵ月後の1881年1月28日午後8時38分、家族に看取られながら亡くなった。ドストエフスキーの葬儀には、三万人の人びと、七十二の団体、十五の聖歌隊が参加した[8]。1月31日にアレクサンドル・ネフスキー大修道院墓地に葬られる[9]。ドストエフスキーの墓には、『カラマーゾフの兄弟』の序文で引用した、新約聖書の『ヨハネによる福音書』第12章24節が刻まれている。
享年59歳 、誕生日 1821年11月11日、命日 1881年2月9日
※ フヨードル・さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー[* 1](ロシア語: Фёдор Миха́йлович Достое́вский[* 2] [ˈfʲɵdər mʲɪˈxajləvʲɪtɕ dəstɐˈjɛfskʲɪj] ( 音声ファイル)、1821年11月11日〔ユリウス暦10月30日〕 - 1881年2月9日〔ユリウス暦1月28日〕)は、ロシア帝国の小説家・思想家である。レフ・トルストイ、イワン・ツルゲーネフと並び、19世紀後半のロシア小説を代表する文豪である。
28歳で空想的社会主義に関係して逮捕されるが、出獄後、社会主義に批判的になり、キリスト教的人道主義へと思想を変化させ、代表作である『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』などを発表し、「現代の預言書」とまでよばれる文学を創造した。ドストエフスキーの著作は、世界中で読まれ、170以上の言語に翻訳されている[2]。ソルジェニーツィンやチェーホフ、ニーチェ、サルトル、ウィトゲンシュタイン、アインシュタイン、日本人では、黒澤明、湯川秀樹、小林秀雄、大江健三郎、村上春樹、三島由紀夫、埴谷雄高などの多くの人物に影響を与えた。
生涯[編集]
幼少期[編集]
フョードル・ドストエフスキーはモスクワのマリインスキー貧民救済病院の官舎で、ミハイル・アンドレ―ヴィチ・ドストエフスキーの次男として、生まれる。ミハイルは、マリインスキー貧民救済病院の医師であり、後に院長を務めた。母は、モスクワの裕福な商人の娘であった。敷地内にある実家で育つ。兄1人、妹2人、弟2人あり。1827年に、父が八等官に昇進して領地を持つことが許された。四年後の1831年に、モスクワから150キロメートルほど南に離れたトゥーラ州にあるダロヴォーエを買う。その翌年には、隣村のチェリョーモシナを買い、「地主貴族」になった。しかし、土地を買ってすぐに大火事が起こり、二つの土地の屋敷は灰と化した。同年の夏には領地の屋敷は罹災から復興した。ドストエフスキーは、母が読み書きに使っていた『旧約聖書』や『新約聖書』、またシラーの『群盗』などに強い感銘を受けた。
青年期と両親の死[編集]
1833年、中学受験のため兄・ミハイルと一緒にドラシューソフの塾に通い、1834年に文学教育で有名な、チェルマーク寄宿学校に入学。1837年に母が死去した。そののち、兄ミハイルとともにサンクトペテルブルクに遊学。この年咽喉の病により発音が不自由となる。1838年16歳の時に帝都のサンクトペテルブルク陸軍中央工兵学校に入学[* 3]。1839年、父が農民に恨みを買い、ドストエフスキー家が所有する2つの領地であるダラヴォーエとチェルマシニャーの境界あたりで惨殺された[3]。1840年に士官候補生となる。1841年、野戦工兵旗手となる。1842年8月、少尉に任官。1843年8月に工兵学校を卒業した。卒業後に勤務したサンクトペテルブルクの工兵隊製図局が肌に合わず、約1年で中尉昇進のうえ退職し作家を目指す[4]。工兵学校生・作家時代を送ったサンクトペテルブルクは、物語の舞台として数々の作品に登場する。
作家としてのスタート――新しいゴーゴリ[編集]
1846年、処女作『貧しき人々』を批評家のヴィッサリオン・ベリンスキーに「第二のゴーゴリ」と激賞され、華々しく作家デビューを果たす。デビュー前のドストエフスキーから直接作品を渡されて読んだ詩人ニコライ・ネクラーソフが、感動のあまり夜中にドストエフスキー宅を訪れたという逸話は有名である。デビューこそ華々しかったが、続けて発表した『白夜』『二重人格』は酷評をもって迎えられる。
死の体験と流刑[編集]
その後、ミハイル・ペトラシェフスキーが主宰する空想的社会主義サークルのサークル員となったため、1849年に官憲に逮捕される。死刑判決を受けるも、銃殺刑執行直前に皇帝ニコライ1世からの特赦が与えられて(この一連の特赦は全て仕組まれたものであった)、シベリアに流刑へ減刑となり、オムスクで1854年まで服役する。この時の体験に基づいて後に『死の家の記録』を著す。他にも『白痴』などで、死刑直前の囚人の気持ちが語られるなど、この事件は以後の作風に多大な影響を与えた。刑期終了後、セミパラチンスクにおいて兵士として軍隊で勤務した後、1858年にペテルブルクに帰還する[5]。この間に理想主義者的な社会主義者からキリスト教的人道主義者へと思想的変化があった。その後『罪と罰』を発表し、評価が高まる。
自身の賭博にのめり込む性質、シベリア流刑時代に悪化した持病のてんかん(側頭葉てんかんの一種と思われる。恍惚感を伴う珍しいタイプのてんかん)などが創作に強い影響を与えており、これらは重要な要素としてしばしば作品中に登場する。賭博好きな性質は、必然としてその生涯を貧乏生活にした。借金返済のため、出版社との無理な契約をして締め切りに追われる日々を送っていた。あまりのスケジュール過密さのため、『罪と罰』『賭博者』などは口述筆記という形をとった。速記係のアンナ・スニートキナは後にドストエフスキーの2番目の妻となる。
また、小説以外の著名作に『作家の日記』がある。これは本来の日記ではなく、雑誌『市民』でドストエフスキーが担当した文芸欄(のちに個人雑誌として独立)であり、文芸時評(トルストイ『アンナ・カレーニナ』を絶賛)、政治・社会評論、時事評論、エッセイ、短編小説、講演原稿(プーシキン論)、宗教論(熱狂的なロシアメシアニズムを唱えた)を含み、後年ドストエフスキー研究の根本文献となった。ドストエフスキーは『作家の日記』でユダヤ人を批判する反ユダヤ主義的な主張を死去するまで繰り返し、またアーリア民族を賛美した[6]。その一方で、『作家の日記』においてドストエフスキーは、年少犯罪者や養育院など恵まれない子どもたちの生活に深い関心を寄せ、愛や人類の再生について考えていた[7]。
ドストエフスキーの葬列を描いたスケッチ晩年に、自身の集大成的作品『カラマーゾフの兄弟』を脱稿。その数ヵ月後の1881年1月28日午後8時38分、家族に看取られながら亡くなった。ドストエフスキーの葬儀には、三万人の人びと、七十二の団体、十五の聖歌隊が参加した[8]。1月31日にアレクサンドル・ネフスキー大修道院墓地に葬られる[9]。ドストエフスキーの墓には、『カラマーゾフの兄弟』の序文で引用した、新約聖書の『ヨハネによる福音書』第12章24節が刻まれている。
女性関係[編集]
ドストエフスキーは多くの女性たちと複雑な恋愛関係を持ったが、それは直接的にも間接的にも作家活動に影響を及ぼした。最初の妻マリアは既婚であり、後の恋人ポリーナ・スースロワとの交際も屈折したものだった。2番目の妻であるアンナ(英語版)は家政をみるだけでなくドストエフスキーの速記役でもあるが、彼女たちはただ伝記のなかに現れるばかりでなく、小説中の登場人物のモデルとも考えられている[10]。著作[編集]
死去するまでに残した著作は全部で35篇で、短編も多く出している。- 1841年『マリヤ・ステュアルト』(Мария Стюарт)
- 1846年『貧しき人びと』(Бедные люди)
- 1847年『九通の手紙にもられた小説』(Роман в девяти письмах)
- 1848年『他人の妻』
- 1849年『ネートチカ・ネズワーノワ』(Неточка Незванова)
- 1857年『小英雄』(Маленький герой)
- 1859年『伯父様の夢』(Дядюшкин сон)
- 1862年『いまわしい話』(Скверный анекдот)
- 1863年『冬に記す夏の印象』(Зимние заметки о летних впечатлениях) ヨーロッパ滞在経験が主となっている。
- 1864年『地下室の手記』(Записки из подполья)
- 1865年『鰐』(Крокодил)(未完)
- 1866年『罪と罰』(Преступление и наказание)
- 1868年『白痴』(Идиот)
- 1869年『大いなる罪人の生涯』(創作ノート)
- 1870年『永遠の夫』(Вечный муж)
- 1871年『悪霊』(Бесы)
- 1873年『ボボーク』(Бобок)※
- 1875年『未成年』(Подросток)
- 1876年『キリストのもみの木祭りに行った男の子』(Мальчик у Христа на ёлке)※
- 1877年『おかしな人間の夢』(Сон смешного человека)※
- 1880年『カラマーゾフの兄弟』(Братья Карамазовы)