承継
この追悼サイトは、 グレダ・ ガルボ(スウエーデン生まれのハリウッド女優)さまのために作成されました。

享年84歳 、誕生日 1905年9月18日、命日 1990年4月15日
※ グレダ・さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。

グレタ・ガルボ(Greta Garbo、1905年9月18日 - 1990年4月15日)は、スウェーデン生まれのハリウッド映画女優。本名はグレータ・ルヴィーサ・グスタフソン(Greta Lovisa Gustafsson)で、ハリウッドサイレント映画期ならびにトーキー映画初期の伝説的スターである。3度のアカデミー主演女優賞へのノミネート経験があり、1954年に「輝かしく忘れがたい演技」に対してアカデミー名誉賞が贈られている。また、1935年の『アンナ・カレニナ』と1936年の『椿姫』で、ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞を受賞しているアメリカン・フィルム・インスティチュートが1999年に選定した映画スターベスト100の女優部門では、キャサリン・ヘプバーンベティ・デイヴィスオードリー・ヘプバーンイングリッド・バーグマンに続く第5位にランクされた。

ガルボはノーベル文学賞受賞作家セルマ・ラーゲルレーヴ原作の1924年のスウェーデン映画『イエスタ・ベルリングの伝説』 の準主役で、女優としての活動を始めた。この作品でのガルボの演技が、アメリカの映画会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤー (MGM) の副社長ルイス・B・メイヤーに認められ、1925年にガルボはハリウッドへ招かれた。翌1926年にハリウッドでの1作目となるサイレント映画イバニエスの激流』で注目を集め、3作目の『肉体と悪魔』(1926年)で国際的な映画女優としての地位を築いた[1]

1930年の映画『アンナ・クリスティ』が、ガルボが出演した初のトーキー映画で、制作元のMGMはこの作品の宣伝に「ガルボが話す! (Garbo talks!)」というキャッチフレーズを使用した。同じ年の1930年には『ロマンス』も公開されている。ガルボはこの両作品でアカデミー主演女優賞にノミネートされた。当時のアカデミー賞俳優部門の規定では、同一年度に複数の映画に出演していたとしてもノミネートされる賞は一つだけだった[2]。大衆からのガルボの人気は高く、1932年にはガルボが映画会社との契約内容を主導したり、出演作品を自ら選ぶことが増えていった。ガルボの代表作として1936年の『椿姫』で演じた高級娼婦マルグリット・ゴーティエを挙げる専門家や評論家が多い。このマルグリット役でガルボは2度目のアカデミー主演女優賞にノミネートされている。その後、1939年のコメディ映画『ニノチカ』で3度目のアカデミー主演女優賞にノミネートされ、1941年の『奥様は顔が二つ』を最後に映画界から引退した。

引退した1941年にガルボはまだ35歳だった。その後もガルボのもとには多くの映画出演依頼が舞い込んできたが、ガルボが映画界に復帰することはなかった。引退後は公の場所に姿を見せることなく、隠棲生活のうちに死去した。

全盛期(1930年 - 1939年)[編集]
200px-Greta_Garbo_in_a_publicity_image_for_%22Anna_Christie%22.jpgアンナ・クリスティ(1930年)。ガルボが出演した初のトーキー映画。「ガルボが話す! (Garbo talks!)」という宣伝文句とともに公開された『アンナ・クリスティ』(1930年)は、アメリカの劇作家ユージン・オニールの戯曲を原作とした作品で、ガルボにとって初のトーキー映画だった。この映画でガルボが初めて口にした非常に有名な台詞が「ウイスキーをちょうだい、ジンジャエールとね」「ケチらないでね」 (Gimme a whiskey, ginger ale on the side, and don't be stingy, baby)」である[66]『アンナ・クリスティ』はこの年に公開された映画作品の中でトップの興行成績となり[67]、ガルボは同じ年に公開された『ロマンス』(1930年)とともに、初めてアカデミー主演女優賞にノミネートされた。またドイツ語版の『アンナ・クリスティ』も1930年に公開されている[68]。ガルボは『アンナ・クリスティ』でサイレント映画からトーキー映画への転向に成功し、続く『ロマンス』、『インスピレーション』(1931年)、『スザン・レノックス』(1931年)でも高い興行成績を収めた。さらにラモン・ノヴァロと共演した『マタ・ハリ』(1931年)では第一次世界大戦の有名な女スパイを演じ、MGMのオールスター・キャストで製作された『グランド・ホテル』(1932年)ではロシア人バレリーナのグルジンスカヤを演じている。

200px-With_Ramon_Novarro_in_Mata_Hari.jpgマタ・ハリ(1931年)。ガルボとラモン・ノヴァロ。『マタ・ハリ』も『グランド・ホテル』も大ヒットし[69]、『グランド・ホテル』はアカデミー作品賞を受賞した。この当時のガルボには世界中に熱狂的なファンがおり[70]、最盛期には「ガルボマニア」として社会現象になるほどだった[71][72]。『マタ・ハリ』は「パニックの原因」となり、ニューヨークでの公開時には「警官が群衆整理に駆り出された」ほどだった[73]。映画出演一本あたりのガルボの出演料は25万ドルから30万ドル(2013年の貨幣価値で400万ドルから500万ドル相当)で、「映画史上最高の金を生み出す機械 (the greatest money-making machine)」となっていった[22][70][74]

主な作品肉体と悪魔』(1926年)
アンナ・クリスティ』(1930年)
グランド・ホテル』(1932年)
クリスチナ女王』(1933年)
アンナ・カレニナ』(1935年)
椿姫』(1936年)
ニノチカ』(1939年)


スウェーデン王室は、文化、音楽、演劇、文学などに優れた業績を残した人物に贈られる文化功労賞メダル英語版)を、1937年1月にガルボに対して授与している[199]。アメリカの芸能誌『ヴァラエティ』が1950年に実施した投票で、ガルボは20世紀前半の最優秀女優部門で最高得票数を集めた[200]。1957年には世界最古の写真博物館であるジョージ・イーストマン・ハウスから、映像作品における優れた貢献としてジョージ・イーストマン賞を授与されている[201]

1983年11月にガルボはスウェーデン国王カール16世グスタフから、北極星勲章英語版)のコマンドール章を受けた[202]。また、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームのハリウッド大通り6901には、ガルボのスター・プレートがある。

ガルボは史上もっとも美しい女性として『ギネスブック』に掲載されたことがある[203][204][205]。また、ガルボは何度も切手のデザインとなっており、2005年9月にはアメリカ合衆国郵便公社スウェーデン郵便株式会社 英語版) が協同で、ガルボをデザインした記念切手を発行している[206][207][208]。2011年4月6日にスウェーデン国立銀行が、2014年から2015年ごろに登場予定の新100クローナ紙幣に、ガルボの肖像を起用すると発表した[209]

Swedish actress Greta Garbo as Susan Lenox in the film 'The Rise of Helga' , 1931.

     Greta Garbo.

※注:このサイトは、グレダ・ガルボに関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝

このメッセージは、 2024年9月18日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
ガルボは史上最も美しい女性としてギネスブックに掲載されたこともある。
引退した1941年にガルボはまだ35歳だった。 その後もガルボのもとには多くの映画出演依頼がきたが、ガルボが映画界に復帰することはなかった。
彼女の心境はいかばかりだったかと追想します。    合掌

メッセージの投稿

 
メッセージ
このメッセージは、 2024年9月18日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
ガルボは史上最も美しい女性としてギネスブックに掲載されたこともある。
引退した1941年にガルボはまだ35歳だった。 その後もガルボのもとには多くの映画出演依頼がきたが、ガルボが映画界に復帰することはなかった。
彼女の心境はいかばかりだったかと追想します。    合掌
軌跡

(幼少期)

ガルボはストックホルムセーデルマルム英語版)に生まれ、グレタ・ロヴィーサ・グスタフソンと名づけられた。父親のカール・アルフレート・グスタフソン(1871年 - 1920年)は肉体労働者で、母親のアンナ・ロヴィーサ(1872年 - 1944年)は主婦だったが後にジャム工場で働くようになった[3][4]。ガルボは三人兄妹の末子で、兄はスヴェン・アルフレート(1898年 - 1967年)、姉はアルヴァ・マリア(1903年 - 1926年)である[5]

(少女時代)

カール・アルフレートは、アンネビー英語版) からストックホルムを訪れていたときにアンナと出会った。カール・アルフレートは独り立ちするために故郷からストックホルムへと移住し、道路清掃、食料雑貨店、工場、肉屋の店員など、さまざまな職で生計を立てていた[6]。アンナはヘーグビー英語版)の出身で、カール・アルフレートと結婚したのはストックホルムに出てきて間もなくのことだった[7][8]。二人の暮らしは貧しく、下町の給湯設備のない3室のアパートに住んでいた。当時ストックホルムで一番貧しい人々が住んでいたこのスラム街で、ガルボら三兄妹は育てられた[9]

(追想)

灰色一色の長い冬の夜でした。父は部屋の片隅に座り込んで、新聞の人物写真に落書きをしており、母は鼻歌を歌いながらぼろぼろの古い衣服を繕っていました。私たち子供は声を潜めて雑談するか、たんに黙って座っていることしかできませんでした。まるで身の回りに危険が迫っているかのように感じられ、私たちは不安で一杯だったのです。このような夜は神経質な少女にとって忘れられないものでした。私たちが育った家やアパートはどれも似たようなもので、ひどく劣悪な環境で暮らしていたのです[10]