承継
この追悼サイトは、 ハンナ・ リデル(熊本初のハンセン病病院を作ったイギリス宣教師)さまのために作成されました。

享年76歳 、誕生日 1855年10月17日、命日 1932年2月3日
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ハンナ・リデル: Hannah Riddell1855年10月17日 - 1932年2月3日)は、イギリス宣教師で、1895年熊本に熊本初のハンセン病病院、回春病院を作っただけでなく、日本のハンセン病の歴史に大きな影響を与えた後継者はエダ・ハンナ・ライトである。エダによるとイギリスでのRiddellの発音はリデールであるが、文献等ではリデルが多いのでここではリデルを使う[1]

略歴[編集]1855年、ロンドン北方郊外バーネットに生まれた。生下時、父親(Daniel Riddell)は43歳、母親(Hannah Wright, 旧姓はHunt)は41歳、再婚同志で両方とも子持ちであった。

労働者階級の出身である。母親の連れ子がエダ・ハンナ・ライトの父親である[2]。リデルの父親は以前インドなどにも派遣された軍曹であったが、慢性肝炎を患い一時除隊した。しかし生活には年金だけでは不足で、補充兵の教育を開始した。リデルはその兵舎または宿舎(バラック)で生まれた。1877年、南ウェールズのザ・マンブルズに引っ越し、母親と共に、小規模の女子用の私立学校を経営した[3]。20歳そこそこの少女が全科目を教えている。リデルの教育の記録は現在見当たらないが、当時の状況から考えると堅実な教育をうけていたと思われる[4]。一時は学校経営はうまくいっていた。母は1886年に他界。学校は競合校が出現し、父が他界したと同時に1889年、破産した。生活を立て直そうと英国聖公会宣教協会(CMS ,Church Missionary Society、1799年創立の英国国教教会の組織)に入り、リバプールのYWCA協会の婦人校長をつとめた。35歳の時、日本に伝道に派遣された。その時女性宣教師5名が派遣され、リデルが最年長であった。宣教師グレース・ノットと共に熊本に落ち着き、彼女とは同志的な友情で結ばれた[5][6]。リデルは1891年に熊本市郊外の本妙寺でハンセン病患者と遭遇し、患者救護の決心をする。その年の12月協会本部にハンセン病の患者を見たと手紙に書いた。

彼女は新しい組織をつくることに興味があった。また、権力のある人に近づくという本能的才能があった[7][8][9]。教会によりハンセン病病院を作らせようと、力量を発揮した。経過は簡単にはいかなかったが、1895年11月12日に回春病院が完成した。しかし、色々の交渉の経緯において、組織のトップと交渉するので、中間管理職的な[10]ジョン・ブランドラム主教[11]は、リデルとの仲が悪化し、1897年から精神状態がおかしくなり、療養のため、香港行きの船に乗ったが、1900年12月29日船上で他界した。リデルは当時はイギリスにいた[12]。 リデルと対立しているヘンリー・エヴィントン主教ははっきりブランドラムの精神錯乱はリデルのせいであると書いている[13]リデルは教会組織にたくさん敵を作ったので、教会から離れて回春病院を経営せざるを得なかった。しかし離れたことが、自由な寄付を可能にした。日露戦争のため、寄付金を送っていたイギリス人は、送金に障害がでると考え、寄付が止まった[14]大隈重信は以前から回春病院の園内美化のために桜、楓を寄付した。リデルの経済危機に際し、全国的にハンセン病問題を訴えた方が効果的であると忠告した。また、渋沢栄一は、代表的な実業家であり、ハンセン病に積極的に関心を持った。リデルが最初に来た時は僅かではあるが1万5600円の金を寄付したと書いている[15]。大隈重信の相談にのり、銀行会館で全国的なハンセン病の会議を開いた。経済的危機に陥ったリデルの経済的支援のため、1905年に銀行会館で、有識者の会議があり[16]、同時に日本のハンセン病問題が討議された。公的なハンセン病対策が開始されたが、リデルは公的にも補助を受け、経済的にも一息ついた。この会議を機会にリデルはひのき舞台に上がったのである[17]。回春病院を非営利の団体と認められ、非課税となった。

リデルは衣装も着飾り、上京すれば帝国ホテルに宿泊し、有力者とここで会合をし、夏は軽井沢避暑をする。リデル自身貴族らしい生活を送ることが病院を支える資力をもった人間に対等に扱ってもらえる唯一の道だと確信していた[18]募金活動のために、多くの講演もこなし一日2回に及ぶこともあった。日本におけるハンセン病政策にも影響を与える。実業家、政治家、皇族にも会えるようになる。ハンセン病の権威である光田健輔のハンセン病隔離政策にたいして、リデルはキリスト教に基づいた主張をした。彼女は性的なことには潔癖であり、回春病院内では療養者に対して徹底した禁欲を強制し、男女が言葉を交わすのも禁じた。挙句の果ては療養者が雌雄のカナリアを同じ籠で飼うことさえ禁止した。

沖縄の患者への助力を考え患者でクリスチャン青木恵哉を派遣した。リデルが大病した時は当時の医長である神宮良一も診察したが、ライトが心配して神戸から外人医師を招いた。巨体であったので、歩行困難をきたし、ある人はハンセン病を疑った。光田健輔によると、回春病院医師の三宅俊輔からハンセン病は誤伝と聞いたと記録し、彼女にリウマチがあったと書いている[19]ハンセン病九州療養所長の河村正之は、熊本県庁における天皇拝謁に際し、長い廊下をリデルは河村の肩を杖として歩いたという。しかしリデルは天皇の前に出た途端、練習していたお時儀の仕方を忘れてしまい、膝が痛むにもかかわらず、西洋婦人式のお時儀をしていた。1932年2月3日午後1時10分、リデルは逝去し、翌日盛大な葬儀が営まれた[20]

この文献は種々あり、最初は1891年12月1日リデルがCMSに送った文章である。ここには桜が満開であることは書いておらず、ハンセン病を救済したダミアン神父に相当する人が必要である、CMSでもやらないかと示唆している。

街から45分ほど歩くと何百年か前に当地に城を建てた人物の墓があります。そこに行くのには、お寺に着いてから舗装の荒い、桜並木の道をずっと歩いていきます。道すがら、左右どちらをみても、お寺や社(やしろ)、そしてその住職たちの住居が並んでいます。それから200段ほどの石段を登ると加藤清正の墓なのですが、その前に寺があります。寺の中、廟の前では常に香が焚かれて、ロウソクが灯っています。そしてそこにはさまざまな惨状を呈したハンセン病患者がいて、廟に眠る霊に清めを求めているのです。(中略)この間は、16歳くらいのひどく青ざめた少年が太鼓の前に座り、目を固く閉じ、太鼓の響きに合わせて首を激しく左右に振りながら祈りを繰り返しているのを目にしました。(中略)彼らにはダミアン神父が必要なのです。CMSには、そんな人物はいないのでしょうか。私自身には医療の経験はありませんが、医療面のアドバイスは効果的でしょうし、彼らの苦しみを多少なりとも癒すことになるのです。
回春病院設立の動機 此の動機は至極簡単なものであった。中には私の向かって、らい患者を看護するために,はるばると此の国へ渡って来たのかと訊ねる方もあるが、決して左様ではない。私は今より25年程前に日本に来た。来た当座は、日本にもらい患者がいることとは少しも知らなかった。しかるに2年ほど経って初めてらい患者の居ることが判った。そしてある時偶然にも、熊本市の付近に一つの寺があって、年々、沢山のらい患者が此処に巡礼にくるということを聞いた。私は幼い時から聖書を読んで、基督が世に助けのない人即ち、らい患者に特別の憐れみを垂れたというのを知っていたので、其れ聞いて深い深い興味を覚えた。そこで私は即座にその寺、即ち本妙寺を訪れたのである。


今考えてみたら、その日は神武天皇祭の日(注:4月3日)であった。それ故いつにもなく、沢山のらい患者が集まっていた。天は麗らかであった。一歩また一歩、寺に向って進むと、両側に桜の並木があり、まさに見ごろの桜花は紺青色の空に照り輝いている。辺りの光景は最も感銘的であってー今日なお脳裏を去らずー私は唯恍惚として見とれておった。何事ぞ!かくも麗しき桜樹の根元に坐して、見るも哀れなる病人が傍目も振らず、不断のお題目を唱えているではないか。歓楽の情は一変して悲哀の念となった。並木の下をくぐって、見るともなしに見ると、既に重態に陥っている病人が声を限りに救いを呼んでいる。約二百段ばかり、石段を登ると数え切らない程沢山のらい病人がいる。多くは婦人であって、幼い小児を抱いておった。段々寺に近寄ると、太鼓の音、これに調子を合わせているお題目の声が聞こえる。げに御堂は凄惨な声を張り揚げて、己がため、また愛人のため仏の加護を祈りつつある、世に最も哀れむべき人で充満されておった。
リデル、ライト両女史記念館

リデル、ライト両女史記念館
所在地:熊本県熊本市中央区黒髪5-23-1
TEL:096-345-6986(リデル、ライト両女史記念館)
(熊本地震に伴う休館)⇒096-343-0489
ホームページ:リデル、ライト両女史記念館
http://www.riddell-wright.com/memorial.php
定休日:休館日月曜日(祝日の場合は翌日)・年末年始
料金:無料
交通:バス停「立田自然公園入り口」より徒歩約10分
駐車場:有り(5台程度)
※注:このサイトは、ハンナ・リデルに関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝

このメッセージは、 2024年7月21日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
日本のハンセン病の歴史に大きな功績を遺し、ハンセン病政策にも大きな影響を与えたイギリスの女性宣教師です。     合掌

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このメッセージは、 2024年7月21日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
日本のハンセン病の歴史に大きな功績を遺し、ハンセン病政策にも大きな影響を与えたイギリスの女性宣教師です。     合掌