この追悼サイトは、 杉村 春子(文学座・日本を代表する女優)さまのために作成されました。
享年91歳 、誕生日 1906年1月6日、命日 1997年4月4日
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杉村 春子(すぎむら はるこ、1906年(明治39年)1月6日 - 1997年(平成9年)4月4日[1])は、広島県広島市出身の新劇の女優。本名:石山 春子。旧姓:中野。
築地小劇場より始まり文学座に至る日本の演劇界の屋台骨を支え続け、演劇史・文化史に大きな足跡を残した、日本を代表する女優[2][3][4][5]。称号は東京都名誉都民。
1922年、山中高等女学校[1](現・広島大学付属福山高)卒業後、声楽家を目指し上京して東京音楽学校(現・東京芸術大学)を受験するが、2年続けて失敗[15]。1924年広島に戻り、1925年から1927年3月まで広島女学院で音楽の代用教員をしていた[8][13]。広島女学院の教員室で築地小劇場(俳優座の前身)の広島公演の話を聞き[4]、同劇団の旅芝居を見て感動[16]。1927年4月、母に音楽の勉強をしたいからと偽り再び上京[17]。劇団の合否を待たずに代用教員は退職し、同劇場のテストを受け、広島訛りが強く、土方与志から「三年くらいセリフなしで辛抱するなら」という条件付きで採用され[4][10][18]、築地小劇場の研究生となった[19]。芸名は姓だけ、青山杉作の一字を貰い、"杉村春子"とした[16]。同月『何が彼女をさうさせたか』にたまたま欠員が出たため、音楽教師の前歴を買われてオルガン弾きの役(台詞無し)で初舞台[17][4]。1929年、築地小劇場が分裂・解散した後は友田恭助らの築地座に誘われて参加[17]、1935年の舞台『瀬戸内海の子供ら』(小山祐士作)に出演した[20]。
文学座での活躍[編集]築地座の解散後の1937年、岸田国士、久保田万太郎、岩田豊雄らが創立した劇団文学座の結成に参加[4][8]。直後に友田恭助が戦死したことで妻の田村秋子が文学座に参加せず[21]、同劇団の中心女優として力を付けていく[13]。1938年に花柳章太郎の新生新派に客演し、大きな影響を受ける[13]。1940年に『ファニー』で主役を演じて以降[4]、文学座の中心女優となった[15][19]。また、文学座以外の舞台にも出演し、日本演劇界の中心的存在として活躍した[22][23]。
特に1945年4月、東京大空襲下の渋谷東横映画劇場で初演された森本薫作『女の一生』の布引けいは当たり役となり[14][24][25][26]、1990年までに上演回数は900回を超え、日本の演劇史上に金字塔を打ち立てた[11][27]。作中の台詞 "だれが選んでくれたんでもない、自分で歩き出した道ですもの。間違いと知ったら、自分で間違いでないようにしなくちゃ" は、生涯"女優の一生"を貫いた杉村の代名詞として有名[15][28][29]。初演はわずか5日間だった[29]。
そのほか、日本のそれまでの芝居になかった"女"のすべてをリアルにさらけ出した『欲望という名の電車』のブランチ役(上演回数593回)[26][20]、『華岡青洲の妻』の於継役(上演回数634回)[30]、『ふるあめりかに袖はぬらさじ』のお園役(上演回数365回)[11]、『華々しき一族』の諏訪役(上演回数309回)などの作品で主役を務め、『女の一生』と並ぶ代表作とした[4][9][10][19][31][32]。
1948年には「女の一生」により演劇部門で戦後初の日本芸術院賞を受賞した[4][17][33]。
1958年、日本新劇俳優協会設立に常任理事として参画(1995~1997年、三代目会長)[34]。
60年安保前後から左翼に接近、安保反対のデモ行進に積極的に参加した[18]。1960年6月15日(水曜日)に参議院国会参議院面会所前であった新劇人会議のデモに暴力団が殴り込み、80人の負傷者を出したが、杉村は劇団の若い女優たちのスクラムに守られて難を逃れた[18]。衆議院南通用門で樺美智子が惨死したのはその数時間後だった[18]。文学座分裂の動きは安保闘争のさなかに芽生えた[18]。脱退した劇団員はこのとき無関心を装った人たちだった[18]。
1963年1月、杉村の感情の起伏が激しい性格と、専横ともいえる劇団への統率ぶりに不満を持った芥川比呂志、岸田今日子、仲谷昇、神山繁、加藤治子、小池朝雄ら、中堅劇団員の大半が文学座を集団脱退し[26]、現代演劇協会・劇団雲を結成[4][9][10]。さらに同年12月には、それまで杉村主演の戯曲を書いていた三島由紀夫の新作戯曲(喜びの琴事件)上演拒否問題が起き、翌1964年1月、三島を筆頭に丹阿弥谷津子、中村伸郎、賀原夏子、南美江ら、文学座の古参劇団員が次々に脱退していった[3][4][35][26][36]。 杉村は、これらの脱退メンバーの大半とはその後の関係を断絶し、特に反杉村を鮮明にしていた福田恆存が代表となった劇団雲に参加したメンバーに対しては、共演を頑なに拒否するなど終生許すことはなかった[37]。
文学座は、主要メンバーの2度にわたる大量離脱で創立以来最大の危機を迎え、当時の新聞は"崩壊に瀕する文学座"などと書きたてたが[38]、太地喜和子、江守徹、樹木希林、小川真由美、高橋悦史ら若手を育てることにより乗り切った[3][4][39][40][41]。とくにテレビ時代を迎えていた時流に乗って、次々にテレビに新人を送り込んだ功績は大きい[20][42]。自身もニューメディアのテレビに積極的に出演した[43][42]。
新劇のリアリズムに立脚しつつ、新派や歌舞伎の技法を研究[4][20]。広島訛りは終生抜けなかったが[12]、リズムあるセリフ術と卓越したリアリズム演技で、細やかな情感を巧みに表現する独特のアクのある芸風を作り上げ見る人の心を捉えた[13][20]。
映画・テレビでの活躍[編集]舞台以外にも映画・テレビでも幅広く活躍[4][11][17]。映画初出演は築地小劇場時代の1927年に小山内薫が監督をした『黎明』か[53]1932年、初代水谷八重子と共演した『浪子』[54] か、1937年、松竹の『浅草の灯』[20][55] か、文献によって記述が異なる[注釈 1]。1940年、国策映画『奥村五百子』(豊田四郎監督、東宝)で初主演[13][注釈 2]。
戦後、黒澤明、木下惠介、小津安二郎、成瀬巳喜男、豊田四郎、溝口健二、今井正などの巨匠たちから、既存の映画俳優には無い自然でリアルな演技力を高く評価されて[17]、日本映画史を彩る140本以上の作品に出演[13]、映画史にもその名を刻んだ[20][19]。森雅之と共に最も映画に貢献した新劇俳優でもある[1][53]。杉村ほど他のジャンルの俳優と共演した新劇俳優はいない[20]。
特に、『東京物語』『麦秋』をはじめとする小津安二郎作品の常連でもあり、小津組でたった一人、読み合わせへの不参と"縫い"(かけ持ち)を許された俳優であった[5][57]。
1995年、当時89歳で新藤兼人の『午後の遺言状』で主演し、毎日映画コンクール、日刊スポーツ映画大賞、キネマ旬報で主演女優賞を受賞している。
1974年、杉村は女優としては東山千栄子、初代水谷八重子に次いで3人目の文化功労者に選ばれた。
受賞[編集]
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享年91歳 、誕生日 1906年1月6日、命日 1997年4月4日
※ 杉村さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
杉村 春子(すぎむら はるこ、1906年(明治39年)1月6日 - 1997年(平成9年)4月4日[1])は、広島県広島市出身の新劇の女優。本名:石山 春子。旧姓:中野。
築地小劇場より始まり文学座に至る日本の演劇界の屋台骨を支え続け、演劇史・文化史に大きな足跡を残した、日本を代表する女優[2][3][4][5]。称号は東京都名誉都民。
1922年、山中高等女学校[1](現・広島大学付属福山高)卒業後、声楽家を目指し上京して東京音楽学校(現・東京芸術大学)を受験するが、2年続けて失敗[15]。1924年広島に戻り、1925年から1927年3月まで広島女学院で音楽の代用教員をしていた[8][13]。広島女学院の教員室で築地小劇場(俳優座の前身)の広島公演の話を聞き[4]、同劇団の旅芝居を見て感動[16]。1927年4月、母に音楽の勉強をしたいからと偽り再び上京[17]。劇団の合否を待たずに代用教員は退職し、同劇場のテストを受け、広島訛りが強く、土方与志から「三年くらいセリフなしで辛抱するなら」という条件付きで採用され[4][10][18]、築地小劇場の研究生となった[19]。芸名は姓だけ、青山杉作の一字を貰い、"杉村春子"とした[16]。同月『何が彼女をさうさせたか』にたまたま欠員が出たため、音楽教師の前歴を買われてオルガン弾きの役(台詞無し)で初舞台[17][4]。1929年、築地小劇場が分裂・解散した後は友田恭助らの築地座に誘われて参加[17]、1935年の舞台『瀬戸内海の子供ら』(小山祐士作)に出演した[20]。
文学座での活躍[編集]築地座の解散後の1937年、岸田国士、久保田万太郎、岩田豊雄らが創立した劇団文学座の結成に参加[4][8]。直後に友田恭助が戦死したことで妻の田村秋子が文学座に参加せず[21]、同劇団の中心女優として力を付けていく[13]。1938年に花柳章太郎の新生新派に客演し、大きな影響を受ける[13]。1940年に『ファニー』で主役を演じて以降[4]、文学座の中心女優となった[15][19]。また、文学座以外の舞台にも出演し、日本演劇界の中心的存在として活躍した[22][23]。
特に1945年4月、東京大空襲下の渋谷東横映画劇場で初演された森本薫作『女の一生』の布引けいは当たり役となり[14][24][25][26]、1990年までに上演回数は900回を超え、日本の演劇史上に金字塔を打ち立てた[11][27]。作中の台詞 "だれが選んでくれたんでもない、自分で歩き出した道ですもの。間違いと知ったら、自分で間違いでないようにしなくちゃ" は、生涯"女優の一生"を貫いた杉村の代名詞として有名[15][28][29]。初演はわずか5日間だった[29]。
そのほか、日本のそれまでの芝居になかった"女"のすべてをリアルにさらけ出した『欲望という名の電車』のブランチ役(上演回数593回)[26][20]、『華岡青洲の妻』の於継役(上演回数634回)[30]、『ふるあめりかに袖はぬらさじ』のお園役(上演回数365回)[11]、『華々しき一族』の諏訪役(上演回数309回)などの作品で主役を務め、『女の一生』と並ぶ代表作とした[4][9][10][19][31][32]。
1948年には「女の一生」により演劇部門で戦後初の日本芸術院賞を受賞した[4][17][33]。
1958年、日本新劇俳優協会設立に常任理事として参画(1995~1997年、三代目会長)[34]。
60年安保前後から左翼に接近、安保反対のデモ行進に積極的に参加した[18]。1960年6月15日(水曜日)に参議院国会参議院面会所前であった新劇人会議のデモに暴力団が殴り込み、80人の負傷者を出したが、杉村は劇団の若い女優たちのスクラムに守られて難を逃れた[18]。衆議院南通用門で樺美智子が惨死したのはその数時間後だった[18]。文学座分裂の動きは安保闘争のさなかに芽生えた[18]。脱退した劇団員はこのとき無関心を装った人たちだった[18]。
1963年1月、杉村の感情の起伏が激しい性格と、専横ともいえる劇団への統率ぶりに不満を持った芥川比呂志、岸田今日子、仲谷昇、神山繁、加藤治子、小池朝雄ら、中堅劇団員の大半が文学座を集団脱退し[26]、現代演劇協会・劇団雲を結成[4][9][10]。さらに同年12月には、それまで杉村主演の戯曲を書いていた三島由紀夫の新作戯曲(喜びの琴事件)上演拒否問題が起き、翌1964年1月、三島を筆頭に丹阿弥谷津子、中村伸郎、賀原夏子、南美江ら、文学座の古参劇団員が次々に脱退していった[3][4][35][26][36]。 杉村は、これらの脱退メンバーの大半とはその後の関係を断絶し、特に反杉村を鮮明にしていた福田恆存が代表となった劇団雲に参加したメンバーに対しては、共演を頑なに拒否するなど終生許すことはなかった[37]。
文学座は、主要メンバーの2度にわたる大量離脱で創立以来最大の危機を迎え、当時の新聞は"崩壊に瀕する文学座"などと書きたてたが[38]、太地喜和子、江守徹、樹木希林、小川真由美、高橋悦史ら若手を育てることにより乗り切った[3][4][39][40][41]。とくにテレビ時代を迎えていた時流に乗って、次々にテレビに新人を送り込んだ功績は大きい[20][42]。自身もニューメディアのテレビに積極的に出演した[43][42]。
新劇のリアリズムに立脚しつつ、新派や歌舞伎の技法を研究[4][20]。広島訛りは終生抜けなかったが[12]、リズムあるセリフ術と卓越したリアリズム演技で、細やかな情感を巧みに表現する独特のアクのある芸風を作り上げ見る人の心を捉えた[13][20]。
映画・テレビでの活躍[編集]舞台以外にも映画・テレビでも幅広く活躍[4][11][17]。映画初出演は築地小劇場時代の1927年に小山内薫が監督をした『黎明』か[53]1932年、初代水谷八重子と共演した『浪子』[54] か、1937年、松竹の『浅草の灯』[20][55] か、文献によって記述が異なる[注釈 1]。1940年、国策映画『奥村五百子』(豊田四郎監督、東宝)で初主演[13][注釈 2]。
戦後、黒澤明、木下惠介、小津安二郎、成瀬巳喜男、豊田四郎、溝口健二、今井正などの巨匠たちから、既存の映画俳優には無い自然でリアルな演技力を高く評価されて[17]、日本映画史を彩る140本以上の作品に出演[13]、映画史にもその名を刻んだ[20][19]。森雅之と共に最も映画に貢献した新劇俳優でもある[1][53]。杉村ほど他のジャンルの俳優と共演した新劇俳優はいない[20]。
特に、『東京物語』『麦秋』をはじめとする小津安二郎作品の常連でもあり、小津組でたった一人、読み合わせへの不参と"縫い"(かけ持ち)を許された俳優であった[5][57]。
1995年、当時89歳で新藤兼人の『午後の遺言状』で主演し、毎日映画コンクール、日刊スポーツ映画大賞、キネマ旬報で主演女優賞を受賞している。
1974年、杉村は女優としては東山千栄子、初代水谷八重子に次いで3人目の文化功労者に選ばれた。
受賞[編集]
- 日本芸術院賞(1948年)
- 第2回ブルーリボン賞助演女優賞(1951年)『麦秋』『めし』『命美わし』
- 第8回毎日映画コンクール女優助演賞(1953年)『にごりえ』『東京物語』
- 放送文化賞(1959年)
- 朝日文化賞(1969年)
- 毎日芸術賞(1969年)
- 文化功労者(1974年)
- 山路ふみ子映画賞文化賞(1988年)
- 紀伊国屋演劇賞(1991年)
- 芸術祭賞(1991年)
- 名誉都民(1992年)
- 読売演劇大賞(1994年)
- 第8回日刊スポーツ映画大賞女優主演賞(1995年)『午後の遺言状』
- 第69回キネマ旬報ベスト・テン主演女優賞(1995年)『午後の遺言状』
- 第50回毎日映画コンクール女優主演賞(1995年)『午後の遺言状』
- 第5回日本映画批評家大賞特別女優賞(1995年)『午後の遺言状』
※注:このサイトは、杉村春子に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
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