この想いでサイトは、私たちの愛する人 村田 英雄(演歌歌手)さんを記念して作成されました。
※このサイトで故人への弔意・思い出を自由に投稿することができます。
本名:村田 英雄(むらた ひでお)
戒名:玉泉院英聲日楽大居士
墓地:村田英雄生誕地(〒839-1311 福岡県うきは市)、日本
本名:梶山 勇。血液型はAB型。新栄プロダクションに所属していた。愛称は、ムッチー。 浪曲で鍛え上げた歌声と男らしい風貌、世界観を持ち味に、戦後歌謡界の黄金期をリードした演歌界を代表する歌手の一人である。
4歳の時、両親が雲井式部一座に加わり巡業先で雲井式部から京山茶目丸と名付けてもらい、宮崎県の孔雀劇場にて『中山安兵衛婿入り』初舞台を踏む。その後大人気の浪曲師に因んで少年 酒井雲と改名。無許可で名乗っていたが、本家の知るところとなり、これが機縁となり大阪道頓堀の劇場に出演中の酒井雲本人を訪ね、楽屋で声しらべをしてもらい、5歳のときに酒井雲門下に弟子入りし、当時師匠が住んでいた大阪市西九条に移住し修行を開始する。64番目の弟子であった。この時、師匠から酒井雲坊の名前をもらい、13歳で真打昇進、14歳で「酒井雲坊一座」の座長となり、その後も九州にて地方公演を続ける。
1945年、16歳で海軍に志願し、佐世保鎮守府相浦海兵団輸送班に配属される。6月19日、福岡市吉塚の専売局に砂糖を輸送する任務に就いた際に、福岡大空襲に遭遇。翌日、十五銀行ビル地下室の遺体搬送作業に従事した[1]。
1947年に少女浪曲師の吉田伊万里(本名 野口ユイ子)と結婚。
1949年、浪曲界に顔の利いた西川芸能社(現 新栄プロダクション)前社長・西川幸男(浪曲師出身で、初代木村友衛門下だった)に宛て、自ら手紙を書きマネージメントを依頼。師匠・酒井雲と西川が合意、「日本一の浪曲師」を夢見て、妻子を九州に置いて上京し、25歳で村田英雄に改名。数年後に妻子を呼び寄せる。新婚当時は浪曲人気といえども貧乏の中で生活していたが、ラジオでの口演や実演で少しずつ名前が売れ出し、若手浪曲師として注目を集めるようになる。
1958年、たまたまラジオで村田の口演を聴いた古賀政男に見出され、すでに映画や演劇で知られていた十八番の芸題(演目)であった浪曲『無法松の一生』を古賀が歌謡曲化(歌謡浪曲)、同曲で歌手デビューを果たした。
1961年11月に発売した西條八十作詞船村徹作曲の「王将」がミリオンセラーとなり、翌1962年に第4回日本レコード大賞特別賞を受賞。「王将」のヒットで、以前出した「無法松の一生」「人生劇場」なども相乗効果でヒット、人気を確立する。
「王将」は1962年に三國連太郎&淡島千景主演(監督:伊藤大輔、脚本:伊藤大輔、東映東京)、1973年には勝新太郎&中村玉緒主演 (監督:堀川弘通、脚本:笠原良三、東宝)でそれぞれ、映画化され、村田の代表作の一つとなった。
1973年、持病の糖尿病の悪化で倒れ、一年間休業するも復帰。1970年代に入ってからはヒットもなく一時低迷するも、演歌ブーム最中の1979年に、有線放送から「夫婦春秋」(1967年発売)がヒットし、相乗効果で(当時の)新曲「人生峠」、続いて「夫婦酒」をヒットさせ健在ぶりをアピールした。 また1981年〜1982年には、ラジオ番組『ビートたけしのオールナイトニッポン』でその豪快なキャラクターや逸話をネタとして取り上げられた事で若年層からの人気も獲得する。
1988年、ともに同年代で同時期に活躍し、歌謡界をリードしてきた三橋美智也、春日八郎と「三人の会」を結成、ジョイント・コンサートなどで活動した。作風はデビューから一貫して『男』、『人生』、『夫婦』を題材に歌った曲が多い。また『二階堂伸』、『北くすを』、『北くすお』、のペンネームで作詞、作曲もこなしている。
闘病[編集]村田の人生は「糖尿病との闘い」でもあった。食生活では大の野菜嫌いで、「太い声を出すには何より肉を食べることだ」として肉を多食した上、無類の酒好きであった。こうした生活習慣が影響し、35歳で発症。
発症から約8年後の1972年から1973年にかけて病状悪化のため一時入院。その後1991年、長年連れ添った妻・ユイ子が死去。その3日前には「三人の会」の仲間で公私共に親しかった先輩歌手の春日八郎も死去したことで、心労が重なり再び病状が悪化、見かねた周囲の関係者からの勧めで妻の葬儀終了後に治療のため入院。退院後は後見人(『全国村田英雄後援会』幹部)と「大阪のお母さん」と呼んでいた長年の愛人(ユイ子も生前「この人ならば」と半ば公認していた)石田須眞子(2009年11月1日、78歳没)が住む大阪府門真市に身を寄せ、ここを本拠地とし、仕事のある際だけ上京する生活を続ける。また同地で村田の闘病生活の支えとなっていた須眞子と「男としてけじめをつける」と再婚(2000年5月発表)。結婚式も挙げ、合計140歳の高齢婚と大いに話題となった。
記念館[編集]
村田英雄 カラオケ人気曲ベスト25
1.無法松の一生 11.人生峠 21.男吉良常
2.王将 12.二代目無法松 22.夫婦酒
3.夫婦春秋 13.柔道一代 23.白鷺の城
4.花と竜 14.度胸千両 24.山頭火
5.人生劇場 15.侍ニッポン 25.男の祈り
6.男の土俵 16.男の花道
7.男の一生 17.祝い節
8.皆の衆 18.浪花の女
9.なみだ坂 19.姿三四郎
10.蟹工船 20.あゝ万次郎
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本名:村田 英雄(むらた ひでお)
戒名:玉泉院英聲日楽大居士
墓地:村田英雄生誕地(〒839-1311 福岡県うきは市)、日本
本名:梶山 勇。血液型はAB型。新栄プロダクションに所属していた。愛称は、ムッチー。 浪曲で鍛え上げた歌声と男らしい風貌、世界観を持ち味に、戦後歌謡界の黄金期をリードした演歌界を代表する歌手の一人である。
4歳の時、両親が雲井式部一座に加わり巡業先で雲井式部から京山茶目丸と名付けてもらい、宮崎県の孔雀劇場にて『中山安兵衛婿入り』初舞台を踏む。その後大人気の浪曲師に因んで少年 酒井雲と改名。無許可で名乗っていたが、本家の知るところとなり、これが機縁となり大阪道頓堀の劇場に出演中の酒井雲本人を訪ね、楽屋で声しらべをしてもらい、5歳のときに酒井雲門下に弟子入りし、当時師匠が住んでいた大阪市西九条に移住し修行を開始する。64番目の弟子であった。この時、師匠から酒井雲坊の名前をもらい、13歳で真打昇進、14歳で「酒井雲坊一座」の座長となり、その後も九州にて地方公演を続ける。
1945年、16歳で海軍に志願し、佐世保鎮守府相浦海兵団輸送班に配属される。6月19日、福岡市吉塚の専売局に砂糖を輸送する任務に就いた際に、福岡大空襲に遭遇。翌日、十五銀行ビル地下室の遺体搬送作業に従事した[1]。
1947年に少女浪曲師の吉田伊万里(本名 野口ユイ子)と結婚。
1949年、浪曲界に顔の利いた西川芸能社(現 新栄プロダクション)前社長・西川幸男(浪曲師出身で、初代木村友衛門下だった)に宛て、自ら手紙を書きマネージメントを依頼。師匠・酒井雲と西川が合意、「日本一の浪曲師」を夢見て、妻子を九州に置いて上京し、25歳で村田英雄に改名。数年後に妻子を呼び寄せる。新婚当時は浪曲人気といえども貧乏の中で生活していたが、ラジオでの口演や実演で少しずつ名前が売れ出し、若手浪曲師として注目を集めるようになる。
1958年、たまたまラジオで村田の口演を聴いた古賀政男に見出され、すでに映画や演劇で知られていた十八番の芸題(演目)であった浪曲『無法松の一生』を古賀が歌謡曲化(歌謡浪曲)、同曲で歌手デビューを果たした。
1961年11月に発売した西條八十作詞船村徹作曲の「王将」がミリオンセラーとなり、翌1962年に第4回日本レコード大賞特別賞を受賞。「王将」のヒットで、以前出した「無法松の一生」「人生劇場」なども相乗効果でヒット、人気を確立する。
「王将」は1962年に三國連太郎&淡島千景主演(監督:伊藤大輔、脚本:伊藤大輔、東映東京)、1973年には勝新太郎&中村玉緒主演 (監督:堀川弘通、脚本:笠原良三、東宝)でそれぞれ、映画化され、村田の代表作の一つとなった。
1973年、持病の糖尿病の悪化で倒れ、一年間休業するも復帰。1970年代に入ってからはヒットもなく一時低迷するも、演歌ブーム最中の1979年に、有線放送から「夫婦春秋」(1967年発売)がヒットし、相乗効果で(当時の)新曲「人生峠」、続いて「夫婦酒」をヒットさせ健在ぶりをアピールした。 また1981年〜1982年には、ラジオ番組『ビートたけしのオールナイトニッポン』でその豪快なキャラクターや逸話をネタとして取り上げられた事で若年層からの人気も獲得する。
1988年、ともに同年代で同時期に活躍し、歌謡界をリードしてきた三橋美智也、春日八郎と「三人の会」を結成、ジョイント・コンサートなどで活動した。作風はデビューから一貫して『男』、『人生』、『夫婦』を題材に歌った曲が多い。また『二階堂伸』、『北くすを』、『北くすお』、のペンネームで作詞、作曲もこなしている。
闘病[編集]村田の人生は「糖尿病との闘い」でもあった。食生活では大の野菜嫌いで、「太い声を出すには何より肉を食べることだ」として肉を多食した上、無類の酒好きであった。こうした生活習慣が影響し、35歳で発症。
発症から約8年後の1972年から1973年にかけて病状悪化のため一時入院。その後1991年、長年連れ添った妻・ユイ子が死去。その3日前には「三人の会」の仲間で公私共に親しかった先輩歌手の春日八郎も死去したことで、心労が重なり再び病状が悪化、見かねた周囲の関係者からの勧めで妻の葬儀終了後に治療のため入院。退院後は後見人(『全国村田英雄後援会』幹部)と「大阪のお母さん」と呼んでいた長年の愛人(ユイ子も生前「この人ならば」と半ば公認していた)石田須眞子(2009年11月1日、78歳没)が住む大阪府門真市に身を寄せ、ここを本拠地とし、仕事のある際だけ上京する生活を続ける。また同地で村田の闘病生活の支えとなっていた須眞子と「男としてけじめをつける」と再婚(2000年5月発表)。結婚式も挙げ、合計140歳の高齢婚と大いに話題となった。
記念館[編集]
村田英雄 カラオケ人気曲ベスト25
1.無法松の一生 11.人生峠 21.男吉良常
2.王将 12.二代目無法松 22.夫婦酒
3.夫婦春秋 13.柔道一代 23.白鷺の城
4.花と竜 14.度胸千両 24.山頭火
5.人生劇場 15.侍ニッポン 25.男の祈り
6.男の土俵 16.男の花道
7.男の一生 17.祝い節
8.皆の衆 18.浪花の女
9.なみだ坂 19.姿三四郎
10.蟹工船 20.あゝ万次郎
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