この追悼サイトは、 吉田 秀雄(電通元社長・「鬼十則」で有名)さまのために作成されました。
享年59歳 、誕生日 1903年11月9日、命日 1963年1月27日
※ 吉田さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
秀雄らが小倉に戻った翌年、勝五郎が高圧線に触れて事故死してしまう。享年45歳。母サトは32歳、秀雄は10歳のときのことである。これにより一家は困窮する。秀雄は小学校5年生ながら新聞配達をして家計を支えた。秀雄は成績優秀であったが、家計が進学を許さない状況にあった。そこで、彼は2回の養子縁組みを受け入れる。中学、高校、大学へと進学させてもらうことを条件に養子になる選択をした。なお、1回目については、半年で先方に実子が生まれたため、破談になっている。
こうして吉田家の養子に入った秀雄は、県立小倉中学から鹿児島市の旧制第七高等学校(補欠入学)へ進む。その後東京帝国大学経済学部に入学し、大学在学中の1926年(大正15年)4月には、4歳年下の女性と結婚することになる。
入社[編集]1928年(昭和3年)、東大卒業後、吉田は、社員総数360名の日本電報通信社(現・電通)の一員となった。本社丸の内の営業部地方内勤課の配属になった。
戦前の広告代理店には、料金に規定・基準となるものがなく、広告主、代理業者、掲載誌の力関係がすべてを決していたといっても過言ではなかった。花形は営業の外勤となり、彼らは獲得した契約高に応じて会社から歩合を支給されていた。
その結果、儲ければ何をしてもよい、と勘違いをする物も多く、手段を選ばぬ「広告屋」が大手を振っていた。
吉田は、後年、当時を振り返り「広告取引きというものが本当のビジネスになっていない。実業じゃないのだ。ゆすり、かたり、はったり、泣き落としだ。僅かにそれを会社という企業形態でやっているだけで、まともな人間や地道なものにはやれなかった仕事なんだ。」(電通入社25周年回顧座談会より)と無能の如く語っている。
1938年(昭和13年)2月、吉田は営業局地方内勤課長に昇進する。その僅か3ヶ月後に「工場事業場管理令」が公布され、すぐに施行された。これが「国家総動員法」の最初の発動となる。時代は太平洋戦争へと突入していく。
日常生活は戦争のために痩せ細り、広告活動そのものが価値をもたない時勢となっていった。
1940年(昭和15年)12月に創業者の光永星郎が社長を辞任し、後を弟の光永眞三に託した。
1941年(昭和16年)2月に吉田は営業局地方部長に昇進する。翌年6月には取締役に選任され、同年12月には常務取締役になった。
1943年(昭和18年)から1944年(昭和19年)にかけ、岸信介商工大臣の商工経済会法と戦争の最終的勝利を大義名分に、広告代理業者の整備と広告料金公定の改革が行われていた。これは、全国に186あった広告代理店を12社に統合・再編し、地方毎に異なっていた新聞広告料金を全国一定の公定価格に当てはめるという計画であった。
あの手この手で広告料金を決めていた質の悪い「広告屋」にとっては、死活問題であったが、吉田はこの2つの計画を率先して推進し、協定を成立にこぎつけた。
そして、全国186の広告代理店を12社に統合する際、そのうち東阪名九すべての地域で電通を存続させ唯一全国ネットワークを持つ会社にした。名古屋、九州の代理店はすべてこのとき電通に吸収され、東京は電通と博報堂など6社、大阪は電通、近畿広告、旭広告など4社となった。
戦後[編集]1945年(昭和20年)2月20日、電通の創業者光永星郎が78歳で死去した。同年、2代目社長の眞三が辞任を表明する。
3代目の社長には、東京商大(現在の一橋大学)出身の上田硯三が就任した。
1947年(昭和22年)、GHQにより公職追放された上田の後任として、吉田は電通の第4代代表取締役社長に就任する。
吉田の社長就任の挨拶に、次のような一節がある。「先ず日本の広告界の進歩向上を考える電通ということを思って居ります。従来兎角広告業は文化水準を低く見られて来て居るのであります。電通がその仕事振りによって広告業の文化水準を新聞と同じまでに引き上げたいと念願して居ります」(「電通報」1947年6月25日)。
電通マンは早朝から深夜まで働くのが当たり前。吉田の「鬼十則」の精神しかり、時代が日本人に猛烈に働くことを強いていた暗黒時代ともいえる。
箱根カントリー倶楽部でゴルフをプレーしていた吉田は、かつてない激痛に襲われる。かかりつけの医師の勧告により6月25日、東大木本外科に入院し、同月29日に胃の切開手術が行われた。胃癌だったが、この事実は長男宏にしか知らされず、吉田には胃潰瘍と告げられた。
退院後、一時は半ラウンドとはいえゴルフを楽しめるまで回復したが、11月13日に再度入院。悪化する病状を食い止めることはできなかった。
1963年(昭和38年)1月10日、3度目の入院。1月24日に帰宅し、その3日後、1月27日午前零時55分、吉田は永眠した[2]。
従四位・勲二等瑞宝章を追贈された。
鬼十則[編集]1951年制定[5]。
吉田家の墓
多磨霊園入口 東京都府中市
面積は都立霊園としては最大の128haで、東京ドーム27個分に相当する。
※注:このサイトは、吉田秀雄に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
享年59歳 、誕生日 1903年11月9日、命日 1963年1月27日
※ 吉田さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
秀雄らが小倉に戻った翌年、勝五郎が高圧線に触れて事故死してしまう。享年45歳。母サトは32歳、秀雄は10歳のときのことである。これにより一家は困窮する。秀雄は小学校5年生ながら新聞配達をして家計を支えた。秀雄は成績優秀であったが、家計が進学を許さない状況にあった。そこで、彼は2回の養子縁組みを受け入れる。中学、高校、大学へと進学させてもらうことを条件に養子になる選択をした。なお、1回目については、半年で先方に実子が生まれたため、破談になっている。
こうして吉田家の養子に入った秀雄は、県立小倉中学から鹿児島市の旧制第七高等学校(補欠入学)へ進む。その後東京帝国大学経済学部に入学し、大学在学中の1926年(大正15年)4月には、4歳年下の女性と結婚することになる。
入社[編集]1928年(昭和3年)、東大卒業後、吉田は、社員総数360名の日本電報通信社(現・電通)の一員となった。本社丸の内の営業部地方内勤課の配属になった。
戦前の広告代理店には、料金に規定・基準となるものがなく、広告主、代理業者、掲載誌の力関係がすべてを決していたといっても過言ではなかった。花形は営業の外勤となり、彼らは獲得した契約高に応じて会社から歩合を支給されていた。
その結果、儲ければ何をしてもよい、と勘違いをする物も多く、手段を選ばぬ「広告屋」が大手を振っていた。
吉田は、後年、当時を振り返り「広告取引きというものが本当のビジネスになっていない。実業じゃないのだ。ゆすり、かたり、はったり、泣き落としだ。僅かにそれを会社という企業形態でやっているだけで、まともな人間や地道なものにはやれなかった仕事なんだ。」(電通入社25周年回顧座談会より)と無能の如く語っている。
1938年(昭和13年)2月、吉田は営業局地方内勤課長に昇進する。その僅か3ヶ月後に「工場事業場管理令」が公布され、すぐに施行された。これが「国家総動員法」の最初の発動となる。時代は太平洋戦争へと突入していく。
日常生活は戦争のために痩せ細り、広告活動そのものが価値をもたない時勢となっていった。
1940年(昭和15年)12月に創業者の光永星郎が社長を辞任し、後を弟の光永眞三に託した。
1941年(昭和16年)2月に吉田は営業局地方部長に昇進する。翌年6月には取締役に選任され、同年12月には常務取締役になった。
1943年(昭和18年)から1944年(昭和19年)にかけ、岸信介商工大臣の商工経済会法と戦争の最終的勝利を大義名分に、広告代理業者の整備と広告料金公定の改革が行われていた。これは、全国に186あった広告代理店を12社に統合・再編し、地方毎に異なっていた新聞広告料金を全国一定の公定価格に当てはめるという計画であった。
あの手この手で広告料金を決めていた質の悪い「広告屋」にとっては、死活問題であったが、吉田はこの2つの計画を率先して推進し、協定を成立にこぎつけた。
そして、全国186の広告代理店を12社に統合する際、そのうち東阪名九すべての地域で電通を存続させ唯一全国ネットワークを持つ会社にした。名古屋、九州の代理店はすべてこのとき電通に吸収され、東京は電通と博報堂など6社、大阪は電通、近畿広告、旭広告など4社となった。
戦後[編集]1945年(昭和20年)2月20日、電通の創業者光永星郎が78歳で死去した。同年、2代目社長の眞三が辞任を表明する。
3代目の社長には、東京商大(現在の一橋大学)出身の上田硯三が就任した。
1947年(昭和22年)、GHQにより公職追放された上田の後任として、吉田は電通の第4代代表取締役社長に就任する。
吉田の社長就任の挨拶に、次のような一節がある。「先ず日本の広告界の進歩向上を考える電通ということを思って居ります。従来兎角広告業は文化水準を低く見られて来て居るのであります。電通がその仕事振りによって広告業の文化水準を新聞と同じまでに引き上げたいと念願して居ります」(「電通報」1947年6月25日)。
電通マンは早朝から深夜まで働くのが当たり前。吉田の「鬼十則」の精神しかり、時代が日本人に猛烈に働くことを強いていた暗黒時代ともいえる。
箱根カントリー倶楽部でゴルフをプレーしていた吉田は、かつてない激痛に襲われる。かかりつけの医師の勧告により6月25日、東大木本外科に入院し、同月29日に胃の切開手術が行われた。胃癌だったが、この事実は長男宏にしか知らされず、吉田には胃潰瘍と告げられた。
退院後、一時は半ラウンドとはいえゴルフを楽しめるまで回復したが、11月13日に再度入院。悪化する病状を食い止めることはできなかった。
1963年(昭和38年)1月10日、3度目の入院。1月24日に帰宅し、その3日後、1月27日午前零時55分、吉田は永眠した[2]。
従四位・勲二等瑞宝章を追贈された。
鬼十則[編集]1951年制定[5]。
- 仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない。
- 仕事とは、先手々と働き掛けていくことで、受け身でやるものではない。
- 大きな仕事と取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする。
- 難しい仕事を狙え、そしてこれを成し遂げるところに進歩がある。
- 取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……。
- 周囲を引きずり回せ、引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる。
- 計画を持て、長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。
- 自信を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚みすらない。
- 頭は常に全回転、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービスとはそのようなものだ。
- 摩擦を怖れるな、摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈未練になる。
吉田家の墓
多磨霊園入口 東京都府中市
面積は都立霊園としては最大の128haで、東京ドーム27個分に相当する。
※注:このサイトは、吉田秀雄に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
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