この追悼サイトは、 矢野 博丈(ダイソー創業者・100円ショップの草分け)さまのために作成されました。
享年80歳 、誕生日 1943年4月19日、命日 2024年2月12日
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矢野 博丈(やの ひろたけ、1943年4月19日 – 2024年2月12日[1])は、日本の実業家。本名「栗原五郎」[出典 1]。「矢野」は妻の姓で「博丈」は姓名判断による改名[出典 2]。
100円ショップの草分けである大創産業(100円SHOPダイソー)の創業者[出典 3]。広島県東広島市出身[15]。
父親は医師で、戦時中は中国天津市の病院に勤めており[出典 4]、北京市で生まれる[出典 5]。母親は広島銀行の前身の一つ「山岡銀行」の娘[16]。8人兄弟の末っ子の5男[16]。戦後半年、父親の郷里である広島県賀茂郡久芳村(現・東広島市)に引き揚げ[出典 6]。父親は広島市内中心部の新川場通り(並木通り)で医院を開業していたが貧困であり[16]、自身は中央大学の二部に進学したが、貧しさのためたいへん苦労したという[5]。兄妹も医師になった医者一家で育つ[18]。
東広島市立久芳小学校を卒業後、広島市の新川場通りに転居した[出典 7]。広島市立国泰寺中学校を経て[出典 8]、旧制広島一中の伝統を継ぐ広島県立広島国泰寺高等学校に進学[出典 9]。「それ、どがんして、こがんなる?」などと田舎言葉を級友たちに笑われ[16]、陰湿な嫌がらせを受けたため[16]、町のボクシング道場へ通い、不良たちに取り囲まれてもパンチ一つで次々と打ちのめす腕力を身につけた[19]。高校在学中はボクシングに熱中[10]、1964年東京オリンピックバンタム級の強化選手にも選ばれた[出典 10]。自身は一浪後[19]、中央大学の二部に進学[18]。吉祥寺の下宿に住む[16]。将来はボクシングで飯を食おうという気もあったが、1964年の東京オリンピック・バンタム級金メダリストになる強い先輩・桜井孝雄が大学にいて[16]、レベル・才能の差を感じて挫折[21]。ボクシングを辞めた後は、大学二部にワンダーフォーゲル部を創部[16]。矢野は初代カニ族とも呼ばれる[16]。商売の初体験は新宿区淀橋市場でのアルバイト[16]。ここで現在の練馬区高野台にあった練馬青果地方卸売市場にバナナを運ぶ仕事をした[16]。遠い親戚と学生結婚[16]。1967年3月、中央大学理工学部二部土木工学科卒業[7]。工学士。
その後、ニチイ(現イオン)やダイエー、ユニーなどの全国的チェーンストアでも店頭販売で次々と実績を挙げ[出典 46]、大手小売りチェーン経営者の間で、ダイソーと矢野博丈の名が知られていく[19]。
矢野博丈 名言集
自身について
享年80歳 、誕生日 1943年4月19日、命日 2024年2月12日
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矢野 博丈(やの ひろたけ、1943年4月19日 – 2024年2月12日[1])は、日本の実業家。本名「栗原五郎」[出典 1]。「矢野」は妻の姓で「博丈」は姓名判断による改名[出典 2]。
100円ショップの草分けである大創産業(100円SHOPダイソー)の創業者[出典 3]。広島県東広島市出身[15]。
父親は医師で、戦時中は中国天津市の病院に勤めており[出典 4]、北京市で生まれる[出典 5]。母親は広島銀行の前身の一つ「山岡銀行」の娘[16]。8人兄弟の末っ子の5男[16]。戦後半年、父親の郷里である広島県賀茂郡久芳村(現・東広島市)に引き揚げ[出典 6]。父親は広島市内中心部の新川場通り(並木通り)で医院を開業していたが貧困であり[16]、自身は中央大学の二部に進学したが、貧しさのためたいへん苦労したという[5]。兄妹も医師になった医者一家で育つ[18]。
東広島市立久芳小学校を卒業後、広島市の新川場通りに転居した[出典 7]。広島市立国泰寺中学校を経て[出典 8]、旧制広島一中の伝統を継ぐ広島県立広島国泰寺高等学校に進学[出典 9]。「それ、どがんして、こがんなる?」などと田舎言葉を級友たちに笑われ[16]、陰湿な嫌がらせを受けたため[16]、町のボクシング道場へ通い、不良たちに取り囲まれてもパンチ一つで次々と打ちのめす腕力を身につけた[19]。高校在学中はボクシングに熱中[10]、1964年東京オリンピックバンタム級の強化選手にも選ばれた[出典 10]。自身は一浪後[19]、中央大学の二部に進学[18]。吉祥寺の下宿に住む[16]。将来はボクシングで飯を食おうという気もあったが、1964年の東京オリンピック・バンタム級金メダリストになる強い先輩・桜井孝雄が大学にいて[16]、レベル・才能の差を感じて挫折[21]。ボクシングを辞めた後は、大学二部にワンダーフォーゲル部を創部[16]。矢野は初代カニ族とも呼ばれる[16]。商売の初体験は新宿区淀橋市場でのアルバイト[16]。ここで現在の練馬区高野台にあった練馬青果地方卸売市場にバナナを運ぶ仕事をした[16]。遠い親戚と学生結婚[16]。1967年3月、中央大学理工学部二部土木工学科卒業[7]。工学士。
学生結婚後、9度の転職[編集]
学生結婚を機に現姓名に改姓・改名。「クリハラ」より2音でシンプルな「ヤノ」のほうが覚えてもらいやすいし、親しみやすいと考えた[出典 11]。自ら「転職9回、夜逃げ同然1回、火事1回」という波乱の人生を話す[出典 12]。大学卒業後は3つの選択肢があった[出典 13]。大学の先生の知り合いの土木会社への就職、夫婦で住んでいたアパートの裏で老夫婦が営んでいたくず屋の手伝い、尾道市の妻の実家「魚光」でのハマチ養殖業の3つで[出典 14]、結局、ハマチ養殖業を継いだが、何の知識もなく[21]、3年で倒産[出典 15]、兄から借りた700万の借金(2024年の貨幣価値では約1億円)を踏み倒して1970年暮れ、妻子を連れ東京へ夜逃げ[出典 16][注釈 1]。夫婦でトラックに家財道具を積み込み、1971年1月3日に箱根駅伝で復路を走るランナーと茅ヶ崎で出くわした[27]。結局、流れ着いたのが学生時代を過ごした東京[出典 17]。高校時代の友人が図書月販(現・ほるぷ出版)で百科事典の販売で儲けていると聞き[出典 18]、図書月販で百科事典のセールスマンとなる[出典 19]。しかし口下手で一冊も売れず[出典 20]。もしも成績がよかったら広島辺りの営業所の所長になっていたかもしれないと話す[18]。それでお客と話をしないでいい商売を探し、ちり紙交換に転職[出典 21]。ちり紙交換は当時、高額収入の仕事で、ある程度成功する[出典 22]。しかしアメリカから古紙を輸入するようになってちり紙交換という商売が一気に無くなる[21]。広島に戻り、兄のお抱え運転手、義兄の経営するボウリング場、道路標識の設置、日雇いの肉体労働など計9回の転職を重ねる[出典 23]。移動販売の興味を持ち、広島で創業[編集]
1970年代の始め、たまたま豊田郡川尻町(現呉市)で大阪の業者が移動販売しているところに出くわし興味を持った[出典 24]。オバサンたちが公民館にぞろぞろ入って行き、フライパンや洗濯の物干し金具などを抱えて出てくる[27]。当時これは「サーキット商売」と呼ばれ[出典 25]、まだ物流機能が整っていない時代で各地を移動しながら日用雑貨を売る商売には需要があった[出典 26]。この商いには徒弟制度があり、親方に弟子入りし[出典 27]、商品の仕入れや売り方を見よう見まねで覚え[出典 28]、1972年3月、28歳のとき、広島市で雑貨をトラックで移動販売する「矢野商店」を夫婦で創業[出典 29]。広島の自宅兼倉庫でトラック1台から夫婦の二人三脚で商売をスタートする[出典 30]。妻は後にダイソーの仕入れ責任者となり、夫以上のやり手で、夫以上に"社長の器"と呼ばれた[36]。移動販売とはいわゆる「バッタ屋」と呼ばれる販売手法で[37]、倒産した企業や資金繰りが苦しくなった企業の在庫品を格安価格で買い取り、安値で売る商売である[37][注釈 2]。大阪生野区鶴橋などにある露店専門問屋でトラックが満載になるほど商品を買い込み、広島で売る[27]。商品は傷が入っているB級品だが、ちょっと見ただけでは分からず[27]。数百円で仕入れた物を1–2,000円で売る[27]。神社や農協、個人商店の店先[33]、公民館前の空き地などでビールケースに渡したベニヤ板やブルーシートの上に商品を入れたかごを陳列、補充し、バケツ[37]、あるいはレジ代わりに釘などを入れる工具箱を金庫にして会計[出典 31]。夜になったらブルーシートを掛けて帰る露天商のようなビジネス[出典 32]。あらかじめ前日に、出店するエリア一帯にある各家庭を一軒ずつ回り、チラシを郵便ポストに投函。翌日に店を開き、集まってきた客にタワシやほうき、ざる、鍋、日用雑貨などの生活必需品を売る。販売する期間は長くて1週間。短い時は1~2日間だけ。各地の会場を移動しながらこれを続ける[出典 33]。同業者は二年サイクルで西日本を回ることが多かったが[27]、矢野は妻子がいたため日帰りできるほとんど広島県内を回り、このため同じ場所に年4回行っていた[27]。当時「100円ショップ」という概念はなかったものの、100円など均一価格での商売は既にあった。値段を元々100円以外も付けていたが、忙しくてラベラーが間に合わず、100円均一にしたという[出典 34]。倉庫が手狭になったため、自宅兼倉庫を当時としては郊外の佐伯郡五日市町(現在の広島市佐伯区)に移す[36]。100均誕生の瞬間[編集]
今日ではすっかり街の風景として定着した感のある100円ショップ。大成功した画期的なビジネスモデル誕生は綿密に計算して生み出されたものではなく、まったくの偶然[出典 35]。1972年に矢野商店を創業したばかりの頃、いつものように露店での移動販売に出かけようとしていたが、雲ゆきが怪しくなり、雨が降ってきそうになった。雨ならば露店での商売はできないため「今日は、やめだ」と思っていたら、予想に反して晴れてきた。それでトラックに商品を積み、現地に到着したら、既に何人ものお客さんが待ち構えていた。チラシをまいて宣伝していたためで「早くして!」と急かされ、あわてて荷物を降ろし、開店準備を始めた。すると待ちきれないお客さんが勝手に段ボールを開け、商品を手にして聞いてくる。「これ、なんぼう?」。急いで伝票を探すが、商品数があまりにも多く、なかなか見つからない。その時、思わず口をついて出たのが、その後の矢野の運命を決定づける一言になった。「100円でええ!」。それを聞いたほかの客も、次々に「これ、なんぼなん?」「これ、なんぼ?」と聞いてくる。確認が間に合わなくなり、追い詰められた矢野が口にしたのが「もう全部100円でええ!」。その瞬間から客の目の色が変わり、商品が売れに売れた。「100円均一」にこれほどまでの引力があったというのは矢野にとっても大きな発見だった。以降、商品はすべて100円になり、そこから大創産業の100円均一の歴史が始まった[出典 36]。スーパー店内での事業拡大[編集]
東京初進出は「イトーヨーカ堂北千住店」[36]。店長に挨拶に行ったら「そんなモン売れるワケないだろ、荷物を持って帰れ!」と怒鳴られた[出典 43]。商売人にとって単価100円の物が、10–30坪程度の1店舗で1日何十万、何百万も売れるのは有り得ない話[36]。当時はそのような商売が成り立つとは考えられていなかったが[出典 44]、結局この北千住店で1日130万を売り上げ、イトーヨーカ堂本社にまで噂が届いたという[18]。自身のお店がウケた理由について「ワシはしゃべれんけん、いっぱい商品を置くことで商品にしゃべってもらおう、と考えたんですわ。店中に商品が溢れていたら客に話しかけなくても、勝手に客が商品を探して動いてくれます。しゃべれん自分が話しかけて売り込む必要もないし、お客さんも喜んでくれるし、都合がいいんですわ」などと述べている[出典 45]。移動販売時代から矢野がトラックに積み込む商品は、他業者の二倍から三倍多かった[18]。その後、ニチイ(現イオン)やダイエー、ユニーなどの全国的チェーンストアでも店頭販売で次々と実績を挙げ[出典 46]、大手小売りチェーン経営者の間で、ダイソーと矢野博丈の名が知られていく[19]。
矢野博丈 名言集
自身について
- 「自分は才能も運もない人間だから、神様が一生懸命働く以外に人生の選択権をくれなかった。それで、ここまでこれたけえ」[18]
- 「自分は頭は悪いし、顔も悪い。次に生まれ変わるとしても、もう自分には生まれたくない」[59]。
- 「取材でもあまり話さないようにしている」[60]
- 「私はインターネットも分からないし、時代遅れな人間ですから」[60]
- 「仕入れは格闘技だ」[10]
- 「お客様はよう分からん」[出典 70]
- 「店舗が増えるのが怖くて『出すな、出すな』と言うてきた」[39]
- 「6年ぐらい前まで「ダイソーはつぶれる」という確信を持っていました」[出典 71]
- 「やってきたことがいいか悪いかは、ダイソーが潰れる時にならんとわかりません」[61]
- 「朝礼は年3回。創業から25年間会議ゼロ、目標、予算、ノルマを立てたことがない。経営計画もない。行き当たりばったり」[62]
- 「見よう見真似で成功したのはホームセンター、コンビニまで。100円ショップで成功したのも単なる偶然なんじゃけ。偶然はそう何回も起きるもんじゃない」[62]
- 「人間には将来を見通す力なんてないから、ウチには経営計画も戦略も何もありません。予算やノルマもないし、朝礼さえウチはやってない」[18]
- 「会社が潰れたら自殺しようと思っていましたから。30代の頃は会社が潰れたら、秋田か北海道のひなびた温泉に妻と子どもを連れて行って、妻が仲居頭で僕が風呂掃除とお客さんの背中を流す係をやろうなんて思っていたんですが、45歳くらいになってくると扱う額が大きくなりすぎて、もう死ぬしかないなと。ゴルフに行っても『あの松の木、首を吊りやすそうだな』って思うほどでした」[30]
- 「今は潰れても会社再生法がありますが、我々の時代は会社が潰れたら社長は死んで、借金を生命保険で払うしか選択肢がなかったので、当時は僕のような考えが当たり前でした」[30]
- 「夢は畳の上で死にたいです。どうせ自殺でしょうけど、できれば畳の上で死にたい。それが夢です」[出典 72]
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