この追悼サイトは、 山田 方谷(幕末期の儒家・陽明学者・備中松山藩士)さまのために作成されました。
享年72歳 、誕生日 1805年3月21日、命日 1877年6月26日
※ 山田さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
山田 方谷(やまだ ほうこく)は、幕末期の儒家・陽明学者、備中松山藩士。
方谷は号。諱は球(きゅう)、字は琳卿(りんけい)、通称は安五郎。備中聖人、小蕃山と称された[1]。
方谷は幼少期から朱子学を学んでいたが、学びが深まるにつれて朱子学に対する懐疑と不信が高まっていた[22]。天保4年(1833年)秋[23]、王陽明の『伝習録』を熟読し、本格的に陽明学の思想に触れた[24][25]。同年12月、さらに陽明学を学ぶべく、藩からさらに3年間の江戸遊学を許され京を離れる[26]。その直前、天保の大飢饉の影響で困窮した実家からは帰郷を懇願する手紙が届いたが、「今は学問に専心したい。必要なら家財や土地を処分してしのげ」と指示する返信をしただけで松山には帰らなかった[26]。
天保5年(1834年)1月、方谷は佐藤一斎の塾に入門した[27]。一斎は塾長を務める昌平黌で朱子学を教える一方で自身の私塾では陽明学を教えていたことから「陽朱陰王[注釈 6]」と言われていた[27]。一斎の門下で方谷はたちまち頭角を現し、一斎塾の塾頭となり[28]、後から入門してきた佐久間象山とともに「佐門の二傑」と並び称せられた[28]。
天保9年(1838年)、私邸内に私塾「牛麓舎」[注釈 7]を開く。牛麓舎には多くの入門希望者が詰めかけ、門人は数十人に膨れ上がり、塾舎の増築を迫られる事態となった[31]。方谷は身分に関係なく農家・商家の出身者も門人に迎え、その中には後の藩政改革において方谷の手足となる三島中洲、進鴻渓などがいた[32]。牛麓舎は方谷が藩政改革に携わることになった後は三島中洲が師範代として講義にあたったが、嘉永5年(1852年)に中洲が諸国遊学に出たことを機に閉鎖された[33]。
まず藩内に藩主から領民にいたるまでを対象とする倹約令が発せられた。その内容は大きく分けて、
改革の開始にあたり方谷は、藩の財務状況を調査した報告書を勝静と藩上層部に提出し、藩財政が危機的状況にあることを明らかにし[45]、状況を打開するには債権者である江戸・大坂の両替商たちに全てを正直に公表し財政再建への協力を依頼するしかないとした[51]。
方谷は自ら大坂に出向き、債権者を集めて帳簿の内容を全て公開して、債務の10 - 50年間の返済延期を要請し[52]、その間に財政の立て直しと産業振興を図り、それによって出た利益で負債を返済するという再建計画を提示して、彼らの協力をとりつけた[53]。
財政改革の手始めとして方谷は松山藩の大坂蔵屋敷を廃止した。それまで蔵屋敷では蔵役人たちが米問屋と癒着して彼らに取引を任せていた結果、多大な損失を出していた。方谷は蔵屋敷の廃止によって年間1,000両に上る維持費を浮かせ、借金の棚上げによって抵当を解除された年貢米を藩に取り戻した[54]。
取り戻した米は領内40ヶ所に設けた貯倉に保管し、米相場の動向を見て藩が直接取引を行うことで年間で3,000 - 6,000両の利益を出し、その中から返済が行われた[55]。また貯倉は飢饉のときには民衆に米を配給する義倉の役割も持っていた[56]。
松山のある備中北部は古くから良質な砂鉄の産地として知られており、それを使ったたたら製鉄が盛んだった。方谷は領内にある鉄山・銅山の開発を藩の直営事業とし[57]、城下の高梁川対岸にある近似(ちかのり)村(現・高梁市落合町近似)に鉄製品の製造工場を次々と建設し、ここを「相老(あいおい)町」と名付け、農具・鉄器・釘の大量生産を始めた[58]。その中でも三本歯の備中鍬は通常の鍬に比べて土地を深く耕せると評判を呼び、特産品となった[59]。
さらに山野に杉、竹、漆、茶の植林を行い[60]、松山の従来からの特産品であった葉煙草、檀紙、ゆべしの増産も奨励した[61]。特に煙草は藩の保護奨励策によって「松山刻(きざみ)」の名で知られる名物となった[60]。
方谷は年貢米以外の特産品の専売事業を担う「撫育所」と呼ばれる役所を新設した[61]。撫育所に集められた産物は高梁川を下り、玉島港で藩所有の廻船に積み替えられた[59]。船は商人による中間搾取を避けるために大坂を通過し、背後に関東地方という巨大市場を持つ江戸へと直接回漕され、積荷は木挽町(現・東京都中央区銀座3丁目)の江戸中屋敷内の倉で管理された[59]。
専売事業の利益は、開始から3年目の嘉永5年(1852年)には1万両を超え、翌年には5万両に迫った[59]。これによって、藩の負債償却が前倒しで始まり、領内の道路や河川の整備も進められた[61]。方谷は専売の利益を藩で独占せず、生産者に正当な対価を支払ったため、庶民の暮らしも潤い、旅人はその佇まいだけで松山領に入ったことが解るほどだったという[61]。
これらの専売事業は廃藩置県で松山藩が消滅するまで続けられ、戊辰戦争後に年貢を岡山藩に抑えられていた時期には藩の費用の全ては専売事業の収入で賄われていた[62]。後に藩が2万石で再興された際も松山藩の財政は同規模の他藩よりも余裕があったという[62]。
また新田開発も奨励し、新田からの収穫には租税を免除したため、耕地面積や農村人口が増加し、農地の取引価格も上昇した[63]。
江戸時代後半になると、各地の藩は幕府の許可を得て、藩札と呼ばれる独自の紙幣を発行していた。それらは正貨と兌換できることが原則であったが、財政が逼迫する藩では兌換用の準備金を他へ流用し、さらに穴埋めのために藩札の乱造が繰り返された結果、藩札の価値は紙切れ同然となっていた。備中松山藩も例外ではなく、方谷が元締役に就任した当時で藩発行の五匁札には偽札まで出回っており、藩札の信用は地に落ちていた[64]。
方谷は嘉永3年(1850年)に藩札の発行を停止し、3年間の期限付きで市中に出回っている五匁札を全て額面で買い取るとの触れを出した[65]。その結果、未発行分も併せて711貫300匁[66](金換算で11,855両[注釈 13])が藩の札座に集まった。嘉永5年(1852年)9月、方谷は松山城下の近似川原において買い集めた藩札を全て焼却すると布告した[67]。9月5日、布告を聞いて集まった藩士・領民の眼前で藩札の焼却が行われた[67]。作業には方谷自身も立ち会い、辰の刻(午前8時)から始まった焼却作業が終了したのは申の刻(午後4時)であった[68]。
全ての藩札を処分した方谷は、専売で得た利益の一部を積み立てて両替準備金とし、「永銭(永札)」と名付けた新しい藩札を発行した[69]。永銭は発行されると同時に抜群の信用を得て、松山藩内はおろか近隣他藩の領内でも使用されるようになった[70]。松山藩の金蔵には永銭との交換によってさらに正貨が積み上げられ、これにより負債の返済は加速度的に進み[70]、安政4年(1857年)には10万両の負債を完済し、さらに10万両の余剰金の蓄財に成功し[注釈 14]、当時の松山藩の財力は20万石以上と評価されるまでに至った[72]。
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山田方谷記念館 岡山県高梁市向町21
※注:このサイトは、山田方谷に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
享年72歳 、誕生日 1805年3月21日、命日 1877年6月26日
※ 山田さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
山田 方谷(やまだ ほうこく)は、幕末期の儒家・陽明学者、備中松山藩士。
方谷は号。諱は球(きゅう)、字は琳卿(りんけい)、通称は安五郎。備中聖人、小蕃山と称された[1]。
陽明学との出会い[編集]
天保2年(1831年)7月、27歳の方谷は藩から2年間の京都遊学の許しを得て、三たび寺島白鹿の塾に入門した[21]。方谷は幼少期から朱子学を学んでいたが、学びが深まるにつれて朱子学に対する懐疑と不信が高まっていた[22]。天保4年(1833年)秋[23]、王陽明の『伝習録』を熟読し、本格的に陽明学の思想に触れた[24][25]。同年12月、さらに陽明学を学ぶべく、藩からさらに3年間の江戸遊学を許され京を離れる[26]。その直前、天保の大飢饉の影響で困窮した実家からは帰郷を懇願する手紙が届いたが、「今は学問に専心したい。必要なら家財や土地を処分してしのげ」と指示する返信をしただけで松山には帰らなかった[26]。
天保5年(1834年)1月、方谷は佐藤一斎の塾に入門した[27]。一斎は塾長を務める昌平黌で朱子学を教える一方で自身の私塾では陽明学を教えていたことから「陽朱陰王[注釈 6]」と言われていた[27]。一斎の門下で方谷はたちまち頭角を現し、一斎塾の塾頭となり[28]、後から入門してきた佐久間象山とともに「佐門の二傑」と並び称せられた[28]。
世嗣・勝静との出会い[編集]
天保7年(1836年)正月、大小姓格に昇格し[25]、9月には藩主・板倉勝職の参勤の行列に供奉して松山に帰る[29]。10月には藩校・有終館の学頭(校長)に就任し、松山城下の御前(おんざき)丁(現・高梁市御前町)に新たな屋敷を与えらえた[30]。天保9年(1838年)、私邸内に私塾「牛麓舎」[注釈 7]を開く。牛麓舎には多くの入門希望者が詰めかけ、門人は数十人に膨れ上がり、塾舎の増築を迫られる事態となった[31]。方谷は身分に関係なく農家・商家の出身者も門人に迎え、その中には後の藩政改革において方谷の手足となる三島中洲、進鴻渓などがいた[32]。牛麓舎は方谷が藩政改革に携わることになった後は三島中洲が師範代として講義にあたったが、嘉永5年(1852年)に中洲が諸国遊学に出たことを機に閉鎖された[33]。
松山藩の藩政改革[編集]
嘉永2年(1849年)11月、方谷は藩主・板倉勝静から江戸へ召喚され、藩の財政を司る元締役とその補佐役である吟味役の兼務を命じられた[39]。当初、方谷は農民上がりの儒者であることを理由に就任を固辞したが、勝静の説得に遂に就任を引き受けるに至った[40]。方谷の元締役就任は藩士たちには驚きをもって迎えられ、帰国した方谷は早速に藩の財務状況の調査を始めた。その結果、年ごとの会計は適切に処理されることなく先送りが繰り返され、さらに飢饉や不時の出費がある度に借金をし、これを返済するため更に借金を重ねた結果、元本だけで総額10万両を超える負債を抱え、藩士の家禄の借り上げや年貢の臨時徴収が常態化しており[42]、さらに表向きは5万石とされていた藩の実際の石高は半分にも満たない約1万9千余石に過ぎず[42][注釈 9]、これまでの元締役は債権者に藩の実収入を隠して借金を繰り返していた[44]ことが判明した。嘉永3年(1850年)3月、板倉勝静は松山に帰国すると正式に藩政改革の大号令を発し、改革に対して不平を述べたり背信行為を行う者は厳罰に処す旨を宣言し、また改革の全権を委ねた方谷に対する誹謗中傷を禁じた[45]。
まず藩内に藩主から領民にいたるまでを対象とする倹約令が発せられた。その内容は大きく分けて、
- 年月を期して全藩士の俸禄を減俸[注釈 10]。
- 身分ごとに着用できる衣服・装飾品を制限し、絹や金などを用いた製品の使用を禁止。生活全般における奢侈の禁止[注釈 11]。
- 役人が領民から賄賂や接待を受けることを禁止[注釈 12]。 である
藩の財務状況の公開
[編集]方谷は自ら大坂に出向き、債権者を集めて帳簿の内容を全て公開して、債務の10 - 50年間の返済延期を要請し[52]、その間に財政の立て直しと産業振興を図り、それによって出た利益で負債を返済するという再建計画を提示して、彼らの協力をとりつけた[53]。
財政改革の手始めとして方谷は松山藩の大坂蔵屋敷を廃止した。それまで蔵屋敷では蔵役人たちが米問屋と癒着して彼らに取引を任せていた結果、多大な損失を出していた。方谷は蔵屋敷の廃止によって年間1,000両に上る維持費を浮かせ、借金の棚上げによって抵当を解除された年貢米を藩に取り戻した[54]。
取り戻した米は領内40ヶ所に設けた貯倉に保管し、米相場の動向を見て藩が直接取引を行うことで年間で3,000 - 6,000両の利益を出し、その中から返済が行われた[55]。また貯倉は飢饉のときには民衆に米を配給する義倉の役割も持っていた[56]。
殖産興業政策
[編集]さらに山野に杉、竹、漆、茶の植林を行い[60]、松山の従来からの特産品であった葉煙草、檀紙、ゆべしの増産も奨励した[61]。特に煙草は藩の保護奨励策によって「松山刻(きざみ)」の名で知られる名物となった[60]。
方谷は年貢米以外の特産品の専売事業を担う「撫育所」と呼ばれる役所を新設した[61]。撫育所に集められた産物は高梁川を下り、玉島港で藩所有の廻船に積み替えられた[59]。船は商人による中間搾取を避けるために大坂を通過し、背後に関東地方という巨大市場を持つ江戸へと直接回漕され、積荷は木挽町(現・東京都中央区銀座3丁目)の江戸中屋敷内の倉で管理された[59]。
専売事業の利益は、開始から3年目の嘉永5年(1852年)には1万両を超え、翌年には5万両に迫った[59]。これによって、藩の負債償却が前倒しで始まり、領内の道路や河川の整備も進められた[61]。方谷は専売の利益を藩で独占せず、生産者に正当な対価を支払ったため、庶民の暮らしも潤い、旅人はその佇まいだけで松山領に入ったことが解るほどだったという[61]。
これらの専売事業は廃藩置県で松山藩が消滅するまで続けられ、戊辰戦争後に年貢を岡山藩に抑えられていた時期には藩の費用の全ては専売事業の収入で賄われていた[62]。後に藩が2万石で再興された際も松山藩の財政は同規模の他藩よりも余裕があったという[62]。
また新田開発も奨励し、新田からの収穫には租税を免除したため、耕地面積や農村人口が増加し、農地の取引価格も上昇した[63]。
藩札の刷新
[編集]方谷は嘉永3年(1850年)に藩札の発行を停止し、3年間の期限付きで市中に出回っている五匁札を全て額面で買い取るとの触れを出した[65]。その結果、未発行分も併せて711貫300匁[66](金換算で11,855両[注釈 13])が藩の札座に集まった。嘉永5年(1852年)9月、方谷は松山城下の近似川原において買い集めた藩札を全て焼却すると布告した[67]。9月5日、布告を聞いて集まった藩士・領民の眼前で藩札の焼却が行われた[67]。作業には方谷自身も立ち会い、辰の刻(午前8時)から始まった焼却作業が終了したのは申の刻(午後4時)であった[68]。
全ての藩札を処分した方谷は、専売で得た利益の一部を積み立てて両替準備金とし、「永銭(永札)」と名付けた新しい藩札を発行した[69]。永銭は発行されると同時に抜群の信用を得て、松山藩内はおろか近隣他藩の領内でも使用されるようになった[70]。松山藩の金蔵には永銭との交換によってさらに正貨が積み上げられ、これにより負債の返済は加速度的に進み[70]、安政4年(1857年)には10万両の負債を完済し、さらに10万両の余剰金の蓄財に成功し[注釈 14]、当時の松山藩の財力は20万石以上と評価されるまでに至った[72]。
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山田方谷記念館 岡山県高梁市向町21
※注:このサイトは、山田方谷に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
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