墓マイラー カジポンさんの説明(5-27-2023)
- 所得倍増を唱えた高度成長期の首相。 1899年に広島で生まれた。 26歳で京大から大蔵省に入り、 50歳で衆議院議員 (広島2区)に 初当選、吉田茂の右腕となり大蔵大臣や通産大臣を務める。 税務改革などの経済政策を推進したが、 「貧乏人は麦を食え」 「中小企業の 五人や十人自殺してもやむを得ない」 など放言を繰り返したとして戦後初の “閣僚” 不信任案が可決されて辞職した。 しかしこれらの発 言は実際のものとは異なる。
- 「貧乏人は麦をくえ」は新聞記者がつけた見出しであり、実際の発言は「(国が需要と供給を無視して米価に介入するのではなく)所得に 応じて、所得の少ない人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則にそったほうへ持って行きたいというの が、私の念願であります」であり、池田自身も当時の米事情から麦飯を食べていた。 また、池田は経営の原則を無視している企業が倒産 するのはやむを得ないという意味で「正常な経済原則によらぬことをやっている方がおられた場合において、それが倒産して、また倒 産から思い余って自殺するようなことがあっても、お気の毒でございますが、止むを得ないということははっきり申し上げます」と答弁 したが、これがマスコミに 「中小企業の五人や十人自殺してもやむを得ない」と報道された。 池田はこれまで中小企業の育成に尽くして きたという自負があったため、最後まで発言を撤回しなかった。
- 1957年6月、吉田茂の直系の弟子である池田は、佐藤栄作と袂を分かって政策研究会「宏池会(こうちかい)」を旗揚げする。 同会は 官僚系を中心とした人材が結集し、のちに池田・大平正芳・鈴木善幸・宮澤喜一・岸田文雄と5人の総理大臣を輩出していく。 野党時代 にも河野洋平、 谷垣禎一と2人の自民党総裁が出ており、保守本流の名門派閥と見なされ、2023年時点で党内で最古の派閥となり、 党内のリベラル派として知られている。
- 1960年(61歳)、 安保闘争により総辞職した岸内閣の後を受けて池田は第58代総理大臣に就任。戦後初めて経済政策を全面に押し 出した首相となった。以降、 4年4カ月にわたり政権を握る。 「寛容と忍耐」をモットーに、 所得倍増を唱えて高度経済成長政策を推進し た。
- 池田政権は開発が遅れている地域の道路・下水・港などを整備して地方の産業を振興し、 農業基本法を制定して農業の近代化を進め、輸出を拡大して外貨収入を増やすとともに各国と経済協力を行った。 各産業は人手不足となって賃金が上昇し、 大企業と中小企業の間の極端な賃金格差が解消され、 国民1人当たりの消費支出は10年で2.3倍に拡大している。 世界貿易の平均成長率の2倍の成長率で輸出がのびた。 他面で公害、 物価の上昇、 農村の過疎化などの新たな国民生活上の問題を生み出した。 1964年(65歳)、東京オリンピック閉会式翌日、癌が進行していた池田は退陣を表明、11月の議員総会で佐藤栄作を後継総裁として 指名した。
- 1965年8月13日、癌のため65 歳で他界。総理在任中に行われた世論調査(朝日)で、一度も内閣支持率が不支持率を下回らなかった数少ない内閣だった。池田の他界から3年、 1968年に日本はアメリカに次ぐ世界第二位の経済大国に成長した。
発言と報道
池田勇人の語録には、本人の発言とは異なる見出しで発言を歪曲されて報道されたことで後世に歴史的失言として記憶されているものや、当時の流行語にまでなった有名な発言などが多い。 堺屋は「池田はマスコミが面白おかしく発言を歪曲しても怒らなかった」として、これがマスコミにも人気を得た理由としている。
- 「貧乏人は麦を食え」問題
- 「中小企業の五人や十人」報道
- 経済のことはこの池田にお任せください
- 私はウソは申しません
- 山より大きな猪…