米国留学
足摺岬沖のアジ漁に出る漁船に、料理人として乗り込んだ。乗組員は、5日半(一説には10日)漂流した後、伊豆諸島の無人島の一つである鳥島に漂着した。この島で143日間、わずかな水溜まりと海藻と海鳥だけを食べて生き抜いた。同年5月9日(1841年6月27日)、ウミガメを食料として確保するために島に立ち寄った万次郎一行は、ウィリアム・ホイットフィールド船長率いるアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランドの乗組員に発見・救助されたる。
船長のホイットフィールドは、彼の聡明さを賞賛してよくしてくれた。アメリカ本土に渡った万次郎は、しばらくホイットフィールド船長の隣に住むエベニーザー・エイキン(英語版)の家に滞在し、船長と叔母のアメリアから養子のように扱われる。ここで地元の子どもたちと一緒に学校に通い、英語や、数学、測量・航海術などの技術を学んだ。その後、バートレット牧師が運営するバートレット・アカデミーという全寮制の学校で学び、そこで数学・測量・航海術・造船技術などを学ぶ。彼は寝る間を惜しんで熱心に勉強し、首席となった。
船長のホイットフィールドは、彼の聡明さを賞賛してよくしてくれた。アメリカ本土に渡った万次郎は、しばらくホイットフィールド船長の隣に住むエベニーザー・エイキン(英語版)の家に滞在し、船長と叔母のアメリアから養子のように扱われる。ここで地元の子どもたちと一緒に学校に通い、英語や、数学、測量・航海術などの技術を学んだ。その後、バートレット牧師が運営するバートレット・アカデミーという全寮制の学校で学び、そこで数学・測量・航海術・造船技術などを学ぶ。彼は寝る間を惜しんで熱心に勉強し、首席となった。
帰国後の活躍
- 1850年(23歳)、帰国を決意して資金を得るためゴールドラッシュ真っ只中の西部サンフランシスコへ渡り、金の採掘で得た600ドルを手にホノルルに渡り、漁師仲間と再会した。ハワイに残った4人のうち、1人は永住を希望、2人が帰国を望み、1人は病没していた。同年、上海行きの商船に仲間2人と乗り込み、ハワイで購入した小舟「アドベンチャー号」も積み込んだ。
- 1851年2月、万次郎達は琉球にアドベンチャー号で上陸し、番所で尋問を受け薩摩に送られた。当時の薩摩藩主は聡明な島津斉彬(なりあきら)。斉彬は西洋文物に興味津々で、万次郎を手厚くもてなし、藩主自ら海外の先進技術や文化について質問した。その後、長崎奉行所で尋問された後、さらに土佐藩でも高知城下で長い取り調べを受け、帰国から約1年半後、漂流から11年目にしてようやく故郷の中ノ浜村に帰ることができた。
- その後、土佐藩は貧しい漁民の万次郎に武士の身分を与えて取り立て、藩校の教授に任命。生徒には後藤象二郎、岩崎弥太郎らがいた。彼が土佐にもたらした西洋の情報は坂本龍馬を大いに刺激し、その視野を世界に広げた。
- 万次郎のドラマチックな人生はここで終わらなかった。帰郷のすぐ翌年、1853年(26歳)にペリーが黒船艦隊を連れて来航したのだ。幕府はアメリカの知識を求めて万次郎を江戸に呼び出し、彼は直参の旗本(将軍直属の家臣、俸禄一万石未満)の身分を与えられた。また故郷の地名から「中濱」の苗字が授けられた。万次郎は日米和親条約締結に向けて助言を行い、軍艦教授所の教授として造船の指揮、測量術、航海術の指導に当たった。27歳で幕府の剣道指南の娘・鉄と結婚。
- 1859年(32歳)、日本最初の本格的な英会話教本となる『英米対話捷径(しょうけい、早道)』を刊行。幕臣で西洋軍学者の大鳥圭介は万次郎から英語を学んだ。
- 1860年(33歳)、勝海舟が船長となった咸臨丸に福澤諭吉らと乗船し、日米修好通商条約の批准書を交換するためアメリカに向かう。10年ぶりに再訪したサンフランシスコでは遣米使節団の通訳として活躍した。
- 40歳で明治維新を迎え、42歳から新政府の要請で開成学校(現・東京大学)の英語教授を務める。
- 1870年(43歳)、普仏戦争の視察団として大山巌らと欧州へ派遣されたが、病に伏しロンドンで待機。帰国の途上、30年前に彼を救助した捕鯨船のホイットフィールド船長と再会し、感謝を込めて自分の日本刀を贈った。
- 1898年11月12日、万次郎は波瀾万丈の71年の生涯を終えた。墓は万次郎が生前に東京・谷中の仏心寺に用意していた。甘いものや、うなぎの蒲焼が好物だったという。
- 1920年、万次郎の墓が仏心寺から雑司ヶ谷霊園に神式にして移される。
- 2010年、生誕地の高知県土佐清水市中浜に茅葺木造平屋建ての「ジョン万次郎生家」が復元された。