承継
この追悼サイトは、 田部井 淳子(登山家・女性初のエベレスト登頂者)さまのために作成されました。

享年77歳 、誕生日 1939年9月22日、命日 2016年10月20日
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田部井 淳子(たべい じゅんこ、1939年昭和14年〉9月22日 - 2016年平成28年〉10月20日[2][3])は、日本登山家福島県田村郡三春町出身。既婚。一男一女あり。旧姓は石橋[4]

女性として世界で初めて世界最高峰エベレストおよび七大陸最高峰への登頂に成功したことで知られる。

1975年、エベレスト日本女子登山隊 副隊長兼登攀隊長として、女性で世界初の世界最高峰エベレスト8848m(ネパール名:サガルマータ、チベット名:チョモランマ)登頂に成功。その後、日本女性で登頂したのは難波康子(1996年)で、田部井が登頂成功した21年後である。ネパール王国から最高勲章グルカ・ダクシン・バフ賞、文部省スポーツ功労賞、日本スポーツ賞朝日体育賞

1988年、福島県民栄誉賞第1号、埼玉県民栄誉賞、川越市民栄誉賞、三春町名誉町民、エイボンスポーツ賞を受賞した。

1992年、1988年のマッキンリー、1991年のビンソンマシフに次いでエルブルス山に登頂し、女性で世界初の七大陸最高峰登頂者となった。同年文部省スポーツ功労賞を、1995年に内閣総理大臣賞を受賞した。1999年、旧ソ連7000メートル峰5座の登頂により、スノー・レオパードの称号を得た(日本女性初)。

エベレストの女性初登頂[編集]エベレスト登山の費用は当時、総額4300万円(自己負担150万円)。準備期間は実質4年。荷物を軽くするために乾燥食品を持参した。高所訓練中、隊長の久野英子が一時帰国、副隊長だった田部井に重圧がかかった。テントを飲み込んだ雪崩にあったにもかかわらず生還、下山をせずアタックすることを主張し計画は続行された。

頂上アタックのため,第四キャンプには登頂予定の田部井淳子と渡辺百合子が待機していたが、荷揚げを予定していたシェルパ六人が高山病のため荷揚げが出来ず、酸素ボンベの不足が決定的になった。隊長の久野英子はアタッカーとして田部井淳子を指名し登頂に成功した。[9]

企業からの献金を使わないという方針転換で行われたので予算が減少、当初2回アタックの予定が1回に変更になった。

ヒラリー・ステップを見たときに、髪の毛が逆立ったと表現した。

主な登山歴[編集]240px-%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%83%97%E3%83%AB%E3%83%8A%E2%85%A2%E3%80%81%E3%83%9E%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%97%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%AC4.jpgアンナプルナIII峰(1970年)240px-Mount_McKinely%2C_sunrise.jpgマッキンリー山登頂(1988年)著書[編集]
  • 『エベレスト・ママさん 山登り半生記』(山と渓谷社,1978年)のち新潮文庫
    • (文庫版改題)『タベイさん、頂上だよ~田部井淳子の山登り半生記』(山と渓谷社,2012年)
  • 『七大陸最高峰に立って』(小学館,1992年)
    • (文庫版改題)『高いところが好き』(小学館 2007年)
  • 『山の頂の向こうに』(佼成出版社 1995年)
  • 『エプロンはずして夢の山』(東京新聞出版局 1996年)
  • 『さわやかに山へ』(東京新聞 1997年)
  • 『山を楽しむ』(岩波新書 2002年)
  • 『はじめての山歩き 花、木、自然に会いに』(文化出版局 2002年)
  • 『山からの贈り物』(角川学芸出版 2007年)ISBN 978-4-04-621304-4
  • 『いつでも山を 田部井淳子の実践エイジング登山』(小学館 2008年)ISBN 978-4-09-387776-3
  • 『日本人なら富士山に登ろう! 初心者のための安心・安全登山術』(アスキー・メディアワークス 2010年)ISBN 978-4048681261
  • 『田部井淳子のあんしん!たのしい!山歩きお悩み解決BOOK(マイコミムック)』(毎日コミュニケーションズ 2010年)ISBN 978-4839935948
  • 『山の単語帳』(世界文化社 2012年)
  • 『それでもわたしは山に登る』(文藝春秋 2013年)のち文庫
  • 『人生、山あり時々谷あり』(潮出版社 2015年)
  • 『田部井淳子のそこに山があるから 大人の山歩き・登山の愉しみ』(洋泉社) 2016年
  • 『再発! それでもわたしは山に登る』(文藝春秋)2016年
登山家・田部井淳子~エベレスト女性初登頂も成し遂げた生涯
 エベレストをかたどったモニュメント  埼玉県日高市「日和田山」駐車場

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軌跡

(プロフィール)

三春小学校卒業。小学4年生の時に那須の茶臼岳に登ったことが(一説には福島・安達太良山とも)登山家への意識の芽生えになったと言われている[5]。 福島県立田村高等学校卒業。 1962年昭和女子大学英米文学科卒業。日本物理学会で学会誌の編集に従事しながら社会人の山岳会に入会し、登山活動に力を注ぐ。以後数年間、谷川岳穂高岳でのクライミングに熱中した。1965年佐宗ルミエと共に、女性ペアによる初めての谷川岳一ノ倉沢積雪期登攀に成功した(12月19-20日)[6]

登山・アウトドアの活動が趣味の田部井政伸と山で出会い交際、1967年に結婚した。

1969年、「女子だけで海外遠征を」を合い言葉に女子登攀クラブを設立した。翌年にアンナプルナIII峰(7555m)に遠征して登頂に成功した

報告

(エピソード)

イーライフ宇崎勝さんが2023年9月26日に投稿
  • 登山で「もうダメだ」と思ったことが3回あり、いずれも雪崩に巻き込まれたときである。1度目はエベレストの第二キャンプ(6500m)でテントごと雪崩に埋められ、2度目は1986年にポベーダ山(トムール)の雪崩で600m流され、3度目は、その夜に再び近くを通過した雪崩の爆風に襲われ、テントごと吹き飛ばされた[10]。ポペーダ山では1999年に登ったときにも雪崩がテントを襲ったが、早朝に出発していたため助かった[10]
  • 1969年冬に登った谷川岳一ノ倉沢凹状岩壁は、エベレストよりもつらかったと回想している[11]
  • 旅行会社が企画する登山ツアーやテレビ・雑誌の登山企画の出演によって謝礼は得ているものの、自分が求める登山ではスポンサーなどによる資金を得ずに自身でお金を支払っていること、ガイド資格などを所持していないことから「登山家が自分の仕事かと言うと、そうではないと思う」とインタビューで答えている[12]。エベレスト後の登山では一切スポンサーをつけていない[13]