この追悼サイトは、 ジュリア・ ダンドレー(「神戸ホーム」現・神戸女学院大学を設立)さまのために作成されました。
享年65歳 、誕生日 1840年12月5日、命日 1906年7月12日
※ ジュリア・さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
ジュリア・エリザベス・ダッドレー(英: Julia Elizabeth Duddley、1840年12月5日 - 1906年7月12日)は、明治の日本で活動した宣教師・教育者。アメリカ合衆国イリノイ州ネイパービル出身。神戸女学院大学の前身である「女學校」(通名「神戸ホーム」)、聖和大学[1]の前身である神戸女子伝道学校(後の神戸女子神学校)を設立した。
経歴[編集]1840年、アメリカ合衆国イリノイ州ネイパービルに生まれる。13歳で父と死別。イリノイ州のロックフォード大学を卒業後、数年間、地元の女学校で教職に就く。同時に母の看病にあたり、26歳で母を看取る[2]。その数年後、アメリカン・ボードが行った女性宣教師の募集に応じ、1873年3月にイライザ・タルカットとともに神戸に赴任。伝道活動を行う傍ら、同年9月にタルカットとともに民家(花隈村、のちに北長狭)を借り、私塾を開設。タルカットの書簡(1874.5.16)によれば、この私塾には「24人の少女と婦人」が集っていた。1875年10月12日、旧三田藩主九鬼隆義らの支援を受け、アメリカン・ボードの承認を得て、タルカットとともに諏訪山の麓に寄宿学校「女學校」(通名「神戸ホーム」、1879年「神戸英和女学校」、1894年「神戸女学院」と改称)を創立。舎監を務める。これは兵庫県最初の女学校である[3]。1880年、学校を去り、従姉妹のマーサ・バローズとともに神戸女子伝道学校(後の神戸女子神学校。聖和大学の前身)を設立。同校は日本最古の女性教職者養成学校である[4]。1901年、病を患い、アメリカへ帰国。カリフォルニア州南部で療養生活を送り、1906年7月12日、同地で死去[5]。故郷ネイパービルで両親と同じ墓地に葬られている[6]。
1880年10月、バローズとともに、神戸の下山手通6丁目花隈町のスズキタイロウ(漢字不明)方の借間を教室として、日本初の女性の伝道者養成のための聖書学校を始めた。
これが神戸女子神学校の起源であり、後の聖和大学は、この年を創立の年とした。
81年、聖書学校は中断を余儀なくされたが、84年11月、2人は中山手通6丁目番外1、通称59番において、神戸女子伝道学校として再開した。
この学校は後に神戸女子神学校と称せられるようになった。
ダッドレーは、学校で教える傍ら神戸、兵庫、三田、明石のみならず、四国、中国地方を訪問し伝道。
学校では旧約聖書を担当した。
1900年、健康上の理由から帰国の途につき、南カリフォルニアのラホヤで数年間の余生を過ごし、06年7月、心不全のため永眠。
故郷に眠る両親のそばに埋葬された。
ダッドレーは、真摯な精神を内に秘め、明るく快活で、親しみやすく、よく話しよく笑った。
生徒、卒業生、学校、教会を愛し、多くの人たちをキリストに導いた。
著書に『聖書史記問答』(1877、1879)、『安息日学校問答集』(1878)、『育幼艸』(1880)他がある。
兵庫県西宮市岡田山4-1
左:「ソールチャペル」このチャペル、実は卒業生が結婚式で利用することが出来るんで
す。 自分が卒業した学校で結婚式が挙げられるって素敵ですね
図書館 1階
※注:このサイトは、ジュリア・ダッドレーに関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
享年65歳 、誕生日 1840年12月5日、命日 1906年7月12日
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ジュリア・エリザベス・ダッドレー(英: Julia Elizabeth Duddley、1840年12月5日 - 1906年7月12日)は、明治の日本で活動した宣教師・教育者。アメリカ合衆国イリノイ州ネイパービル出身。神戸女学院大学の前身である「女學校」(通名「神戸ホーム」)、聖和大学[1]の前身である神戸女子伝道学校(後の神戸女子神学校)を設立した。
経歴[編集]1840年、アメリカ合衆国イリノイ州ネイパービルに生まれる。13歳で父と死別。イリノイ州のロックフォード大学を卒業後、数年間、地元の女学校で教職に就く。同時に母の看病にあたり、26歳で母を看取る[2]。その数年後、アメリカン・ボードが行った女性宣教師の募集に応じ、1873年3月にイライザ・タルカットとともに神戸に赴任。伝道活動を行う傍ら、同年9月にタルカットとともに民家(花隈村、のちに北長狭)を借り、私塾を開設。タルカットの書簡(1874.5.16)によれば、この私塾には「24人の少女と婦人」が集っていた。1875年10月12日、旧三田藩主九鬼隆義らの支援を受け、アメリカン・ボードの承認を得て、タルカットとともに諏訪山の麓に寄宿学校「女學校」(通名「神戸ホーム」、1879年「神戸英和女学校」、1894年「神戸女学院」と改称)を創立。舎監を務める。これは兵庫県最初の女学校である[3]。1880年、学校を去り、従姉妹のマーサ・バローズとともに神戸女子伝道学校(後の神戸女子神学校。聖和大学の前身)を設立。同校は日本最古の女性教職者養成学校である[4]。1901年、病を患い、アメリカへ帰国。カリフォルニア州南部で療養生活を送り、1906年7月12日、同地で死去[5]。故郷ネイパービルで両親と同じ墓地に葬られている[6]。
1880年10月、バローズとともに、神戸の下山手通6丁目花隈町のスズキタイロウ(漢字不明)方の借間を教室として、日本初の女性の伝道者養成のための聖書学校を始めた。
これが神戸女子神学校の起源であり、後の聖和大学は、この年を創立の年とした。
81年、聖書学校は中断を余儀なくされたが、84年11月、2人は中山手通6丁目番外1、通称59番において、神戸女子伝道学校として再開した。
この学校は後に神戸女子神学校と称せられるようになった。
ダッドレーは、学校で教える傍ら神戸、兵庫、三田、明石のみならず、四国、中国地方を訪問し伝道。
学校では旧約聖書を担当した。
1900年、健康上の理由から帰国の途につき、南カリフォルニアのラホヤで数年間の余生を過ごし、06年7月、心不全のため永眠。
故郷に眠る両親のそばに埋葬された。
ダッドレーは、真摯な精神を内に秘め、明るく快活で、親しみやすく、よく話しよく笑った。
生徒、卒業生、学校、教会を愛し、多くの人たちをキリストに導いた。
著書に『聖書史記問答』(1877、1879)、『安息日学校問答集』(1878)、『育幼艸』(1880)他がある。
兵庫県西宮市岡田山4-1
左:「ソールチャペル」このチャペル、実は卒業生が結婚式で利用することが出来るんで
す。 自分が卒業した学校で結婚式が挙げられるって素敵ですね
図書館 1階
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