この追悼サイトは、 蔦屋 重三郎(写楽の浮世絵などの出版元)さまのために作成されました。
享年47歳 、誕生日 1750年2月13日、命日 1797年5月31日
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蔦屋 重三郎(つたや じゅうざぶろう、寛延3年1月7日(1750年2月13日)[1] - 寛政9年5月6日(1797年5月31日)[1])は、江戸時代の版元(出版人)である。朋誠堂喜三二、山東京伝らの洒落本、恋川春町らの黄表紙、喜多川歌麿や東洲斎写楽の浮世絵などの出版で知られる。「蔦重」ともいわれる。号は耕書堂[1]、薜羅館など[1]。狂歌名を蔦唐丸(つたのからまる)と号し[1]、歌麿とともに吉原連に属した。
人物[編集]父は尾張出身の丸山重助で母は廣瀬津与[1]。重助は江戸の吉原で遊廓の勤め人だったという。寛延3年(1750年)、重三郎も吉原に生まれ、7歳の時に喜多川氏の養子になった[1]。「蔦屋」は喜多川氏の屋号であり、吉原の茶屋といわれる。安永2年(1773年)、重三郎は吉原大門の前に書店を開き[1]、安永3年(1774年)から鱗形屋孫兵衛に独占されていた吉原細見(店ごとに遊女の名を記した案内書)の販売・出版を行った[1]。同年7月、遊女評判記『一目千本』を刊行し[1]、翌安永4年(1775年)に吉原細見『籬の花』を出版している[1]。後に通油町、横山町1丁目、小伝馬町2丁目、浅草並木町、嘉永頃に浅草寺中梅園院地借り市右衛門店に移った。
安永6年(1777年)書肆として独立[1]。これ以降、朋誠堂喜三二・山東京伝・大田南畝・朱楽菅江・恋川春町・森島中良と親交を深め[1]、数多くの戯作や狂歌本を次々に刊行した。天明3年(1783年)には丸屋小兵衛の株を買取り[1]、一流版元の並ぶ日本橋通油町に進出[1]。洒落本、黄表紙、狂歌本、絵本、錦絵を手がけ、江戸屈指の地本問屋に成長した[1]。浮世絵では喜多川歌麿の名作を世に送ったほか、栄松斎長喜、東洲斎写楽などを育てている。また、鳥居清長、渓斎英泉、歌川広重らの錦絵を出版している。
しかし、田沼意次に代わり老中となった松平定信による寛政の改革が始まると、娯楽を含む風紀取締りも厳しくなり、寛政3年(1791年)山東京伝の洒落本・黄表紙『仕懸文庫』『錦の裏』『娼妓絹籭(しょうぎきぬぶるい)』が摘発され、重三郎は過料により身上半減の処分を受ける[1][注釈 1]。京伝は手鎖50日という処罰を受けた[1]。これにより、商売は大幅な縮小を余儀なくされたが、店には曲亭馬琴や十返舎一九が番頭として務めていた[1]。その後も、寛政6年(1794年)には写楽の役者絵を出版するなどしていた[1]。
寛政9年(1797年)に48歳で没。脚気であったという。重三郎の死後、「蔦屋重三郎」の名は番頭の勇助(2代目)が継ぎ[1]、4代目(文久元年(1861年))まで続いた[1]。2代目は享和2年(1802年)に葛飾北斎の狂歌本『潮来(いたこ)絶句集』を出版した際、装丁が華美ということで処罰された。
面倒見がよく、また人の才能を見抜く術を心得ていたといわれている。写楽の全作品の刊行を手掛けたのをはじめ、曲亭馬琴、十返舎一九など重三郎の世話を受けた人物は数多い。
作品[編集]
小説
蔦屋重三郎墓所 東京都台東区東浅草1-1-15 正法寺
※注:このサイトは、蔦屋重三郎に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
享年47歳 、誕生日 1750年2月13日、命日 1797年5月31日
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蔦屋 重三郎(つたや じゅうざぶろう、寛延3年1月7日(1750年2月13日)[1] - 寛政9年5月6日(1797年5月31日)[1])は、江戸時代の版元(出版人)である。朋誠堂喜三二、山東京伝らの洒落本、恋川春町らの黄表紙、喜多川歌麿や東洲斎写楽の浮世絵などの出版で知られる。「蔦重」ともいわれる。号は耕書堂[1]、薜羅館など[1]。狂歌名を蔦唐丸(つたのからまる)と号し[1]、歌麿とともに吉原連に属した。
人物[編集]父は尾張出身の丸山重助で母は廣瀬津与[1]。重助は江戸の吉原で遊廓の勤め人だったという。寛延3年(1750年)、重三郎も吉原に生まれ、7歳の時に喜多川氏の養子になった[1]。「蔦屋」は喜多川氏の屋号であり、吉原の茶屋といわれる。安永2年(1773年)、重三郎は吉原大門の前に書店を開き[1]、安永3年(1774年)から鱗形屋孫兵衛に独占されていた吉原細見(店ごとに遊女の名を記した案内書)の販売・出版を行った[1]。同年7月、遊女評判記『一目千本』を刊行し[1]、翌安永4年(1775年)に吉原細見『籬の花』を出版している[1]。後に通油町、横山町1丁目、小伝馬町2丁目、浅草並木町、嘉永頃に浅草寺中梅園院地借り市右衛門店に移った。
安永6年(1777年)書肆として独立[1]。これ以降、朋誠堂喜三二・山東京伝・大田南畝・朱楽菅江・恋川春町・森島中良と親交を深め[1]、数多くの戯作や狂歌本を次々に刊行した。天明3年(1783年)には丸屋小兵衛の株を買取り[1]、一流版元の並ぶ日本橋通油町に進出[1]。洒落本、黄表紙、狂歌本、絵本、錦絵を手がけ、江戸屈指の地本問屋に成長した[1]。浮世絵では喜多川歌麿の名作を世に送ったほか、栄松斎長喜、東洲斎写楽などを育てている。また、鳥居清長、渓斎英泉、歌川広重らの錦絵を出版している。
しかし、田沼意次に代わり老中となった松平定信による寛政の改革が始まると、娯楽を含む風紀取締りも厳しくなり、寛政3年(1791年)山東京伝の洒落本・黄表紙『仕懸文庫』『錦の裏』『娼妓絹籭(しょうぎきぬぶるい)』が摘発され、重三郎は過料により身上半減の処分を受ける[1][注釈 1]。京伝は手鎖50日という処罰を受けた[1]。これにより、商売は大幅な縮小を余儀なくされたが、店には曲亭馬琴や十返舎一九が番頭として務めていた[1]。その後も、寛政6年(1794年)には写楽の役者絵を出版するなどしていた[1]。
寛政9年(1797年)に48歳で没。脚気であったという。重三郎の死後、「蔦屋重三郎」の名は番頭の勇助(2代目)が継ぎ[1]、4代目(文久元年(1861年))まで続いた[1]。2代目は享和2年(1802年)に葛飾北斎の狂歌本『潮来(いたこ)絶句集』を出版した際、装丁が華美ということで処罰された。
面倒見がよく、また人の才能を見抜く術を心得ていたといわれている。写楽の全作品の刊行を手掛けたのをはじめ、曲亭馬琴、十返舎一九など重三郎の世話を受けた人物は数多い。
作品[編集]
- 北尾重政 『一目千本花すまひ』 吉原細見 安永3年(1774年)
- 鳥居清長 「雪月花東風流」 中判 錦絵揃物 天明末ころ
- 喜多川歌麿 『身貌大通神略縁起』 黄表紙 志水燕十作 天明1年(1781年)
- 喜多川歌麿 『画本虫撰』 絵入狂歌本 天明8年(1788年)
- 喜多川歌麿 「婦女人相十品」 大判 錦絵揃物 寛政3年‐寛政4年頃
- 北尾政演 『錦之裏』 洒落本 山東京伝作 寛政3年(1791年)
- 喜多川歌麿 「歌撰恋之部」 大判 錦絵揃物 寛政5年頃
- 栄松斎長喜 「四季美人」 大判 錦絵揃物 寛政中期
- 東洲斎写楽の版画全作品 寛政6年5月 - 寛政7年1月
- 北尾重政、葛飾北斎、鳥文斎栄之ほか 『男踏歌』 絵入狂歌本 寛政10年(1798年)
- 渓斎英泉 「新吉原八景」 大判8枚揃 錦絵 文政初期
- 歌川広重 「諸国六玉河」 横大判6枚揃 錦絵 天保6年(1835年)‐天保7年(1836年)
- 歌川広重 「膝栗毛道中雀」 横大判 錦絵揃物
- 2代歌川国輝 「東京築地ホテル館」 大判3枚続 錦絵
小説
- 『蔦重の教え』主人公の師(2014年2月10日初版、著:車 浮代、飛鳥新社、ISBN 978-4864103060)(2021年3月14日文庫、著:車 浮代、双葉社、ISBN 978-4575524550)
- 『稀代の本屋 蔦屋重三郎』主人公(2016年12月21日初版、著:増田晶文、草思社、ISBN 978-4-7942-2248-0)
蔦屋重三郎墓所 東京都台東区東浅草1-1-15 正法寺
※注:このサイトは、蔦屋重三郎に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
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