承継
日本のスキージャンプ界を代表するレジェンド、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

  • 笠谷さんは、1972年札幌オリンピックで金メダルを獲得し、日本のスキージャンプ界に新たな時代を築き上げた偉大な選手でした。
  • その後の指導者としての活動でも、多くのジャンパーを育成し、日本のスキージャンプ界の発展に大きく貢献されました。
  • 笠谷さんの功績は、日本のスキージャンプ史に永遠に刻まれるでしょう。
0018616_320x290_7a982a.jpg

スキージャンプ界のレジェンド、笠谷幸生さん!金メダルに輝いた栄光の軌跡

  • 1943年8月17日、北海道余市郡大江村(現余市町)生まれ
  • 1972年、札幌オリンピックで金メダルを獲得
  • 1972年、全日本選手権優勝
  • 1973年、HAKUBAジャンプ週間優勝
  • 1974年、ラハティスキーゲームズ優勝
  • 1998年、長野オリンピックスキージャンプ競技 国際飛型審判員
  • 2003年、紫綬褒章
  • 2018年、文化功労者
このメッセージは、 2024年5月25日に、山崎山崎石材:管理者さんが投稿
阿部さん、本当にそう思っております。よろしくお願いいたします。
このメッセージは、 2024年5月11日に、雅司阿部さんが投稿
デジタルお墓はすごく良いと思います!
ぜひ多くの皆さんに見てもらいたいし、笠谷さんの事を忘れないでほしいと思っているので遺族の皆さんにもお見せしたいと思いますが良いでしょうか?

メッセージの投稿

 
メッセージ
このメッセージは、 2024年5月25日に、山崎山崎石材:管理者さんが投稿
阿部さん、本当にそう思っております。よろしくお願いいたします。
このメッセージは、 2024年5月11日に、雅司阿部さんが投稿
デジタルお墓はすごく良いと思います!
ぜひ多くの皆さんに見てもらいたいし、笠谷さんの事を忘れないでほしいと思っているので遺族の皆さんにもお見せしたいと思いますが良いでしょうか?
軌跡

出身地

1943年8月17日 北海道後志支庁余市郡大江村(現・仁木町)出身
余市高校、明治大学を卒業。ニッカウヰスキーに所属。

選手時代

4歳の頃から遊びとしてジャンプを始める。仁木中学校3年生の頃には兄に連れられて羽幌炭鉱明治大学合同の合宿に参加、ここで大人顔負けのジャンプを見せ、「仁木から(兄に続いて)再び神童が現れた」と言われた。

1959年北海道余市高等学校に入学するがスキー部の方針で高校選手権に出場できず、その怒りを闘争心に変えてこのシーズンのあらゆる大会の少年組を勝ち続けて翌の新潟県高田市(現・上越市)での全日本選手権に出場、この大会で3位に入ったほかこの年から海外遠征をこなすようになり、1963年2の第2回STV杯ジャンプ大会では日本人2人目の100mジャンパーとなる(同大会で直前に菊地定夫が初の100mジャンパーとなっている)など一気に日本を代表するジャンパーへと成長を遂げた。

Wikipediaより引用

1963年 明治大学経営学部に入学

1963年、明治大学経営学部に入学。1964年1月には全日本スキー選手権で初優勝し、インスブルックオリンピックに出場。70m級で23位、90m級で11位。 1967年、明治大学を卒業、ニッカウヰスキーに入社。余市工場に配属。 1968年グルノーブルオリンピックに出場。70m級23位、90m級で20位。
報告

笠谷さんがあの「ゴルゴ13」に間違われたエピソード

山崎山崎石材:管理者さんが2024年6月3日に投稿
故 笠谷幸生氏 天上への離陸を見守る会にて初披露した笠谷さんのエピソードです。
笠谷さんの略歴紹介に会場爆笑!
遂にばらした、私だけが知っている、笠谷さん生涯最大の危機
その時、私は言いました!
日の丸、つけてないよね!
それなら大丈夫、笠谷さんほら、よく街角にある、磔にされたキリストに似てるから、ヨーロッパ人のカメラマンだと思われてるって!
この変な慰めを笠谷さんは複雑な顔で聞いていました!
今日までこの話を封印したのは、話が話だし、その国の大統領が噛んでいるし、下手に書いて国際問題になるのを恐れたし!??
上記文 笠谷幸生さんお別れの会「天上への離陸を見守る会」実行委員代表:伊藤龍治

笠谷幸生氏は、何故にこれほど愛されたのか?

山崎山崎石材:管理者さんが2024年5月29日に投稿
笠谷幸生氏、北海道新聞続報

笠谷幸生氏は、何故にこれほど愛されたのか?
笠谷さんから人の悪口を聞いたことは一度もなかった。私が水を向けても、それは、俺は、分からん、と相手にしなかった。
昔、ジャンプ界の先輩、後輩がタバコの吸い殻を雪の上に捨て撒くっていた頃、笠谷さんはそっと近づき、これ使えと携帯灰皿を手渡した。誰が見ているか分からないからな、、
それ以来、ジャンプ場は見違えるように綺麗になった。
原田雅彦君がいう、私が途方に暮れた時、笠谷さんに救われたというのを私は知っている。原田君は1983年世界チャンピオン、1994年リレハンメル五輪団体戦で墜落し、日本は限りなく金に近い銀メダル獲得!
1985年、カナダ、サンダーベイ世界選手権。
前回大会優勝者は無条件で出場できるのだが、原田君は優勝者から20m遅れで失格。岡部、斎藤君がワンツーフィニッシュで大喜びする脇を、原田君は一人で山を降りた。バスに乗ろうと曲がった瞬間、そこに笠谷さんが待っていたのだ。
今日の岡部、斎藤の金、銀は、君が前回金を取ってくれたから繋がったんだ!
胸張って帰ろよ!
この一言が原田君を長野五輪に導いたのだ。
笠谷幸生さんは、愛を持って、どれだけ多くの後輩を育てたのだろうか!
笠谷幸生は、永遠である!
上記文 笠谷幸生さんお別れの会「天上への離陸を見守る会」実行委員代表:伊藤龍治氏
生涯「笠谷幸生のワックスマン」
   


故 笠谷幸生氏 天上への離陸を見守る会  参会者が感動した場面とは!

山崎山崎石材:管理者さんが2024年5月30日に投稿
大勢の方が教えてくれました!
笠谷氏奥様、則子様の御礼のご挨拶
 笠谷さんの肺気腫との長い闘いを赤裸々にお話しくださいました。皆様、驚かれたと思いますが、間違いなく皆様の胸を撃ちました。
 松山千春さんのご遺族へのお心遣い、特に則子奥様への献花時のエスコートの見事さは多くの皆様に感動を与えてくださいました。
 献花に心を寄せてくださった、札幌市立新川高校吹奏楽部、クラリネット-アンサンブルの演奏は、間違いなく全員に感動を与えて下さいました。
特に、虹と雪のバラード、千の風になって、ふるさと、ひこうき雲、の連続演奏時、指揮者の米田先生がカメラマンの邪魔にならないようにと、しゃがみ込んだままで指揮を続けて下さった姿は、心を撃たれました。
多くの人々の真心が結集しました!
これだけ多くのメダリスト、日本代表が一堂に会したのは、しかも彼らが揃って裏方を嬉々として務めたというのは前代未聞、この先恐らく二度とないことでしょう!
笠谷幸生さんの離陸は見守りました。
着陸斜面、ランディングバーンを用意すれば、いつでも笠谷幸生さんは世界一と云われたあのフォームで、貴方の下に舞い降りてくれるでしょう!
上記文 笠谷幸生さんお別れの会「天上への離陸を見守る会」実行委員代表:伊藤龍治