この追悼サイトは、 小池 一夫(漫画原作者、小説家、作詞家、代表作「子連れ狼」)さまのために作成されました。
享年82歳 、誕生日 1936年5月8日、命日 2019年4月17日
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小池 一夫(こいけ かずお、本名及び僧号: 俵谷 星舟〈たわらや せいしゅう〉、旧名: 譲〈たわらや ゆずる〉、作詞家としての別名: 東 文彦〈あずま ふみひこ〉[1]、1936年5月8日 - 2019年4月17日)は、日本の漫画原作者、小説家、脚本家、作詞家、作家。男性、身長183cm、血液型はB型[2]。1976年までの筆名は小池 一雄[3]。別筆名に小池一雄、緒塚敬吾、イゴル・キニスキー等がある。
漫画原作作品に『子連れ狼』(画: 小島剛夕)、『御用牙』(画: 神田たけ志)、『高校生無頼控』(画: 芳谷圭児)、『修羅雪姫』(画: 上村一夫)、『クライング フリーマン』(画: 池上遼一)、『オークション・ハウス』(画: 叶精作)、小説に『乾いて候』、『夢源氏剣祭文』がある。初期の『ゴルゴ13』(さいとう・たかを)にも脚本家として関わっている。
「漫画はキャラ起てが大事だ」が信条。インパクトのあるキャラクターを動かし、世界的な謀略劇の中を鍛え上げた肉体を駆使して駆け抜けるというハッタリの効いた壮大な筋が身上。「キャラクター原論」の提唱者である。
1955年秋田県立秋田高等学校、1959年中央大学法学部卒。中学校から大学まで剣道部に在籍する。中大在籍時は『桃太郎侍』で知られる時代小説家・山手樹一郎に師事し[4]、小説家を目指すが断念。その後弁護士を目指すが、司法試験に三度失敗。雀荘の店員・経営または雀ゴロ[6]、農林省[4]、外国航路の船員、ゴルフ場勤務等の職業を経験。
1968年春、たまたま目にした『少年マガジン』に、さいとうプロダクションが原作者募集をしているのを見て、「枯れ葉の紳士録」という原稿を書き、応募[7]。締切りを大幅に過ぎていたにも拘らず、採用される[8]。以後、さいとうプロに所属し、『無用之介』『ゴルゴ13』などの原作に携わった後[9]、1970年に独立、7月に『ノスパイプ戦線』(ヤングコミック)で原作者デビュー(ただし原稿依頼は『白地に黒く死の丸染めて』の方が先行しており、一時期はこれがデビュー作とされていた)[10]。1972年には、叶精作、神江里見、小山ゆう、やまさき拓味、伊賀和洋、神田たけ志らとともにスタジオ・シップ(現・小池書院)を立ち上げ、所属メンバーのほかにも多くの実力派漫画家を作画に迎え、多数の漫画作品を発表する。遅咲きデビューからわずか数年で劇画界に一勢力を築く形となった[11]。
1970年代は、『子連れ狼』、『御用牙』、『修羅雪姫』、『忘八武士道』など、セックスとバイオレンスに満ちたアナーキーな時代劇作品を多数発表。仕事も多忙を極め1970年代前半には、月に15本程度連載を抱えていた[12]。また、その多くが映画化またはドラマ化され、1970年代の映画界に大きな影響を与えた。クエンティン・タランティーノ、ジョン・ウーなど、日本国外にも多くのファンを生んだ。なお、一部の映像化作品では、小池自身が脚本を担当している。漫画原作者としては先輩の梶原一騎も小池の活躍に脅威を覚え、『斬殺者』『ボディガード牙』など、セックスとバイオレンスを主題とした青年漫画誌向けの作品を書くようになった。
『子連れ狼』は1987年と、最も早い時期にアメリカで出版され、成功を収めた数少ない日本漫画の一つであり、今日の日本漫画ブームの草分けとなった。アメリカン・コミックの巨匠であるフランク・ミラーは『子連れ狼』の大ファンであり、ダークホース社から出版された『子連れ狼』アメリカ版の表紙絵を描いている。小池劇画はアメリカン・コミックスにも影響を与えたとされ、2001年のアイズナー賞受賞以降、アメリカに於ける多くの受賞がそのことを裏付けている。興行収入が1億ドルを超える大ヒットを記録した2002年のハリウッド映画『ロード・トゥ・パーディション』は、『子連れ狼』をモチーフにしている。
1980年代以降は、時代の変化もあり、刺激を弱め、週刊少年サンデーでキャリア唯一の少年誌ラブコメ『ラブZ』(1982年)を発表するなど[13]、娯楽性を主にした作品に作風を切り替えた。1984年には、雑誌『週刊サンケイ』に初の小説『乾いて候』を連載開始し、小説家としてもデビュー。
後進の育成にも力を入れ、1977年に「小池一夫劇画村塾」を開設。出身者に高橋留美子、原哲夫、板垣恵介、山口貴由、山本貴嗣、堀井雄二、さくまあきら、西村しのぶ、山本直樹らがいる。
2000年に大阪芸術大学芸術学部映像学科の教授に招聘され、『小池一夫のキャラクター原論』を上梓。2001年、同大学にて漫画家養成を目的とした「小池一夫ゼミ」第一期をスタート。主な小池ゼミ出身者としては椎橋寛、森橋ビンゴ、田雑芳一、宮本和也、険持ちよ、矢寺圭太、篠丸のどからがいる。2002年、同学部文芸学科長。2005年、同大学でキャラクター造形学科の開設に尽力し、同学科長に就任。佐藤健太郎、金田陽介、鳴海アミヤらを輩出している。2009年、同大学を退任。
2003年、「小池一夫劇画村塾」の後継となるプロ養成漫画塾「小池一夫塾」を新宿にある映像テクノアカデミア内に開講。この頃から過去の劇画村塾と違い、既にプロとして活動していた作家が入塾する傾向が生じ、「小池一夫塾」には山崎紗也夏、ナカタニD.、安藤満、ゆずはらとしゆき、おおひなたごうらが在籍していた。同時期、『子連れ狼』の続編となる『新・子連れ狼』も連載開始した。2006年、「小池一夫塾」と入れ替わる形で劇画村塾を再開(東京第9期、大阪第1期)。2007年、同塾、東京第10期、大阪第2期をスタート。同年9月、劇画村塾を株式会社化(その後同社は社名を株式会社MANGARAK / マンガラク / 漫画楽;社長 金田直己(金徳吉)に変更)するも、2009年に同社と訣別。2011年4月、独自の講座「キャラクターマンWEB講座」を開講し、同年11月には創作ブランド「小池工房」を設立していた。
2005年、生まれ故郷である秋田県大仙市に百歳寓という別荘を設けたが、晩年、事業の失敗に伴い、売却された[14]。
日本文藝家協会・日本映像学会・日本アカデミー賞協会の会員。星野仙一新仙組総長、阪神タイガース金本知憲後援会会長。
2019年4月17日、肺炎のため死去[15][16]。82歳だった。

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享年82歳 、誕生日 1936年5月8日、命日 2019年4月17日
※ 小池さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
小池 一夫(こいけ かずお、本名及び僧号: 俵谷 星舟〈たわらや せいしゅう〉、旧名: 譲〈たわらや ゆずる〉、作詞家としての別名: 東 文彦〈あずま ふみひこ〉[1]、1936年5月8日 - 2019年4月17日)は、日本の漫画原作者、小説家、脚本家、作詞家、作家。男性、身長183cm、血液型はB型[2]。1976年までの筆名は小池 一雄[3]。別筆名に小池一雄、緒塚敬吾、イゴル・キニスキー等がある。
人物[編集]
秋田県大仙市出身[4]。中央大学法学部卒。大阪芸術大学キャラクター造形学科教授(学科長)、神奈川工科大学情報学部情報メディア学科教授、大阪エンタテインメントデザイン専門学校教授を歴任した。出版社の小池書院元編集長。漫画原作作品に『子連れ狼』(画: 小島剛夕)、『御用牙』(画: 神田たけ志)、『高校生無頼控』(画: 芳谷圭児)、『修羅雪姫』(画: 上村一夫)、『クライング フリーマン』(画: 池上遼一)、『オークション・ハウス』(画: 叶精作)、小説に『乾いて候』、『夢源氏剣祭文』がある。初期の『ゴルゴ13』(さいとう・たかを)にも脚本家として関わっている。
「漫画はキャラ起てが大事だ」が信条。インパクトのあるキャラクターを動かし、世界的な謀略劇の中を鍛え上げた肉体を駆使して駆け抜けるというハッタリの効いた壮大な筋が身上。「キャラクター原論」の提唱者である。
経歴[編集]
1936年、秋田県大曲町(現・大仙市)に生まれる。幼少期より周囲の子供より一回り大柄で、ガキ大将だった。少年期は近所の物持ちの家に入りびたり、倉の中にあった立川文庫などの講談本や少年向けの小説などを読み、それを学校で同級生に語って聞かせる[5][4]。1955年秋田県立秋田高等学校、1959年中央大学法学部卒。中学校から大学まで剣道部に在籍する。中大在籍時は『桃太郎侍』で知られる時代小説家・山手樹一郎に師事し[4]、小説家を目指すが断念。その後弁護士を目指すが、司法試験に三度失敗。雀荘の店員・経営または雀ゴロ[6]、農林省[4]、外国航路の船員、ゴルフ場勤務等の職業を経験。
1968年春、たまたま目にした『少年マガジン』に、さいとうプロダクションが原作者募集をしているのを見て、「枯れ葉の紳士録」という原稿を書き、応募[7]。締切りを大幅に過ぎていたにも拘らず、採用される[8]。以後、さいとうプロに所属し、『無用之介』『ゴルゴ13』などの原作に携わった後[9]、1970年に独立、7月に『ノスパイプ戦線』(ヤングコミック)で原作者デビュー(ただし原稿依頼は『白地に黒く死の丸染めて』の方が先行しており、一時期はこれがデビュー作とされていた)[10]。1972年には、叶精作、神江里見、小山ゆう、やまさき拓味、伊賀和洋、神田たけ志らとともにスタジオ・シップ(現・小池書院)を立ち上げ、所属メンバーのほかにも多くの実力派漫画家を作画に迎え、多数の漫画作品を発表する。遅咲きデビューからわずか数年で劇画界に一勢力を築く形となった[11]。
1970年代は、『子連れ狼』、『御用牙』、『修羅雪姫』、『忘八武士道』など、セックスとバイオレンスに満ちたアナーキーな時代劇作品を多数発表。仕事も多忙を極め1970年代前半には、月に15本程度連載を抱えていた[12]。また、その多くが映画化またはドラマ化され、1970年代の映画界に大きな影響を与えた。クエンティン・タランティーノ、ジョン・ウーなど、日本国外にも多くのファンを生んだ。なお、一部の映像化作品では、小池自身が脚本を担当している。漫画原作者としては先輩の梶原一騎も小池の活躍に脅威を覚え、『斬殺者』『ボディガード牙』など、セックスとバイオレンスを主題とした青年漫画誌向けの作品を書くようになった。
『子連れ狼』は1987年と、最も早い時期にアメリカで出版され、成功を収めた数少ない日本漫画の一つであり、今日の日本漫画ブームの草分けとなった。アメリカン・コミックの巨匠であるフランク・ミラーは『子連れ狼』の大ファンであり、ダークホース社から出版された『子連れ狼』アメリカ版の表紙絵を描いている。小池劇画はアメリカン・コミックスにも影響を与えたとされ、2001年のアイズナー賞受賞以降、アメリカに於ける多くの受賞がそのことを裏付けている。興行収入が1億ドルを超える大ヒットを記録した2002年のハリウッド映画『ロード・トゥ・パーディション』は、『子連れ狼』をモチーフにしている。
1980年代以降は、時代の変化もあり、刺激を弱め、週刊少年サンデーでキャリア唯一の少年誌ラブコメ『ラブZ』(1982年)を発表するなど[13]、娯楽性を主にした作品に作風を切り替えた。1984年には、雑誌『週刊サンケイ』に初の小説『乾いて候』を連載開始し、小説家としてもデビュー。
後進の育成にも力を入れ、1977年に「小池一夫劇画村塾」を開設。出身者に高橋留美子、原哲夫、板垣恵介、山口貴由、山本貴嗣、堀井雄二、さくまあきら、西村しのぶ、山本直樹らがいる。
2000年に大阪芸術大学芸術学部映像学科の教授に招聘され、『小池一夫のキャラクター原論』を上梓。2001年、同大学にて漫画家養成を目的とした「小池一夫ゼミ」第一期をスタート。主な小池ゼミ出身者としては椎橋寛、森橋ビンゴ、田雑芳一、宮本和也、険持ちよ、矢寺圭太、篠丸のどからがいる。2002年、同学部文芸学科長。2005年、同大学でキャラクター造形学科の開設に尽力し、同学科長に就任。佐藤健太郎、金田陽介、鳴海アミヤらを輩出している。2009年、同大学を退任。
2003年、「小池一夫劇画村塾」の後継となるプロ養成漫画塾「小池一夫塾」を新宿にある映像テクノアカデミア内に開講。この頃から過去の劇画村塾と違い、既にプロとして活動していた作家が入塾する傾向が生じ、「小池一夫塾」には山崎紗也夏、ナカタニD.、安藤満、ゆずはらとしゆき、おおひなたごうらが在籍していた。同時期、『子連れ狼』の続編となる『新・子連れ狼』も連載開始した。2006年、「小池一夫塾」と入れ替わる形で劇画村塾を再開(東京第9期、大阪第1期)。2007年、同塾、東京第10期、大阪第2期をスタート。同年9月、劇画村塾を株式会社化(その後同社は社名を株式会社MANGARAK / マンガラク / 漫画楽;社長 金田直己(金徳吉)に変更)するも、2009年に同社と訣別。2011年4月、独自の講座「キャラクターマンWEB講座」を開講し、同年11月には創作ブランド「小池工房」を設立していた。
2005年、生まれ故郷である秋田県大仙市に百歳寓という別荘を設けたが、晩年、事業の失敗に伴い、売却された[14]。
日本文藝家協会・日本映像学会・日本アカデミー賞協会の会員。星野仙一新仙組総長、阪神タイガース金本知憲後援会会長。
2019年4月17日、肺炎のため死去[15][16]。82歳だった。
完結作品[編集]
小島剛夕の作画による作品- 子連れ狼(週刊漫画アクション 1970年9月10日号〈No.38〉〜1976年4月1日号〈No.15〉)
- 道中師
- ケイの凄春(週刊漫画アクション)
- 半蔵の門 (週刊現代 1978年9月14日号〜1984年8月11日・18日合併号)
- 首斬り朝(週刊現代)
- 春が来た
- 孔雀王伝奇
- 乾いて候
- 激突
- 孫悟空 その他、多数あり

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