承継
この追悼サイトは、 緒方 拳(日本の俳優)さまのために作成されました。

享年71歳 、誕生日 1937年7月20日、命日 2008年10月5日
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緒形 拳(おがた けん、1937年昭和12年〉7月20日 - 2008年平成20年〉10月5日[1])は、日本俳優。旧芸名および本名は緒形 明伸(おがた あきのぶ)。血液型はB型趣味は絵手紙水墨画

東京府東京市牛込区(現・東京都新宿区)出身、千葉県千葉市育ち。長男は緒形幹太、次男は緒形直人で共に俳優[2]。義理の娘(直人の妻)に女優の仙道敦子、孫に緒形敦(直人の息子)がいる。

来歴[編集]
200px-Ogata_Ken01.jpg集英社『週刊明星』1月17日号(1965)より1937年7月20日(火曜日)、東京府東京市牛込区で生まれる。太平洋戦争中、空襲で牛込の家が焼かれたため、小学校2年生の時に千葉県千葉市登戸町(現・中央区登戸)に一家で疎開したという[3]。中学まで千葉で過ごし、その後東京へ戻った。

1957年に東京都立竹早高等学校を卒業。憧れていた新国劇の二大看板俳優の1人、辰巳柳太郎の弟子になるべく、翌1958年に新国劇に入団し、辰巳の付き人となる1960年、新国劇のもう1人の看板俳優、島田正吾に見出され、『遠い一つの道』で主人公のボクサー役に抜擢された。作品は映画化され、映画デビューも果たす。

1965年、NHKのディレクター吉田直哉により[4]大河ドラマ太閤記』の主役に抜擢され、新国劇の活動も兼務して1年活動した。引き続き1966年の大河ドラマ『源義経』に武蔵坊弁慶役で出演し、2年続けて大河に出演する稀有な活動をし、その後も数々の大河ドラマに出演し、常連俳優の1人として活躍した同年、新国劇所属の女優・高倉典江と結婚。1968年、新国劇を退団。映画・テレビドラマに活躍の場を移した。テレビ時代劇必殺仕掛人』の藤枝梅安を演じて多くのファンを得て[4]映画化もされ、『必殺必中仕事屋稼業』『必殺からくり人』にも出演した。

1978年に公開された映画『鬼畜』に主演し、数々の男優賞を受賞する。その後も1979年に『復讐するは我にあり』、1983年に『楢山節考』に主演した。合間に出演した1981年の映画魔界転生』では、宮本武蔵に扮して柳生十兵衛千葉真一)と激闘を演じ、新国劇で培った殺陣を披露している。1999年、池端俊策監督の『あつもの』で「フランス・ベノデ映画祭グランプリ」を受ける。

2000年、紫綬褒章を受章[5]。同年に山﨑努も受章している

2008年10月4日、自宅で体調が急変。栃木県下都賀郡壬生町獨協医科大学病院に運ばれて肝臓破裂緊急手術を受けるが、翌10月5日の午後11時53分、肝癌により死去した[1]緒形の最期は家族と長年の友人であった津川雅彦が看取った。緒形は津川に「お前、身体大事にしろよ!良い映画沢山創ってくれよな!治ったら、鰻食いに行こうな!白焼きをな!」と冗談を交えつつ医者に危篤を宣言されている患者とは思えないような明るい口調で語ったという。しかしそれが緒形が残した最期の言葉となり、4時間後に帰らぬ人となった。津川はブログで「最期は歌舞伎役者のように虚空を睨み付けるように静かに静かに息を引き取った!苦しむ様子も無く名優らしくカッコいい!立派な最後だった!俺もあんな死に方したいと本気で思えた!」と綴っている[6]。71歳没。葬儀・告別式は10月7日に新宿区の大日本獅子吼会本堂で営まれた。戒名は天照院普遍日拳居士[1]

出演[編集]
映画[編集]
このメッセージは、 2025年1月10日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
存在感 抜群の演技力で数々の映画・テレビドラマに出演しました。
ファンも幅広く、いつまでも愛され続ける名優です!     合掌

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このメッセージは、 2025年1月10日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
存在感 抜群の演技力で数々の映画・テレビドラマに出演しました。
ファンも幅広く、いつまでも愛され続ける名優です!     合掌
軌跡

(生い立ち)

1937年に男ばかりの5人兄弟の四男として生まれる。終戦後緒形の父は定職につかずブラブラしていたため、母が一家を支えていたが兄弟が多いこともあり緒形家の生活は貧しかった[4]。その後三男が俳優を志して俳優座養成所の研究生として演技を学んでいたが、緒形が15歳の頃にプールで心臓麻痺を起こして急逝。緒形はこの三男の死をきっかけに役者の道を意識するようになったとのこと[注釈 1]

高校時代に新国劇の舞台に惚れ込むと仲間内で戯曲『王将』(新国劇の当時の人気演目の1つ)を行い、緒形は大阪の名棋士坂田三吉を演じた。新国劇で同役を演じた辰巳柳太郎への弟子入りを目指したところ、三男と『王将』を書いた劇作家・北条秀司の娘がたまたま同級生だったことが分かり、そのつてで新国劇に入団することができたという[4]