この追悼サイトは、 福井 謙一(アジア初のノーベル化学賞受賞者)さまのために作成されました。
享年79歳 、誕生日 1918年10月4日、命日 1998年1月9日
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福井 謙一(ふくい けんいち、1918年(大正7年)10月4日 - 1998年(平成10年)1月9日)は、日本の化学者。工学博士。アジア初のノーベル化学賞受賞者。奈良県生まれ、大阪府出身。
京都大学・京都工芸繊維大学名誉教授。日本学士院会員、ローマ教皇庁科学アカデミー会員、全米科学アカデミー外国人客員会員。勲等は勲一等旭日大綬章、文化勲章受章。最終階級は陸軍大尉。
若年期[編集]工場経営、外国貿易を営む父・亮吉の下、三人兄弟の長男として奈良県生駒郡平城村大字押熊(現在の奈良市押熊町)生まれ。大和郡山市出生の説もある[2]。大阪府西成郡玉出町(現在の大阪市西成区岸里)で育つ。少年時代にはファーブル昆虫記をこよなく愛読していた[3]。
1930年3月、大阪市玉出第二尋常小学校卒業。1935年3月、旧制今宮中学校卒業。1938年3月、旧制大阪高等学校高等科理科乙類卒業。
数学が好きであったが、父の叔父に当たる喜多源逸(京大教授)の「数学が好きなら化学をやれ」という一言に触発され、京都大学工学部工業化学科に進学[3]。理学部物理学科に潜って量子力学を会得し、後にフロンティア軌道理論を完成させることとなる[3]。
化学者として[編集]1941年3月、京都帝国大学工学部工業化学科卒業、同大学院入学。同時に短期将校として府中の陸軍燃料廠へ入所。
1943年8月、京都帝国大学工学部燃料化学科講師。燃料化学科は1966年に石油化学科に改組し、現在は工学研究科物質エネルギー専攻となっている。
24歳で京都大学の講師となるが、同時に国から陸軍技術大尉にも任命されていたため、別格官幣大社と呼ばれていた[3]。戦時下にありながら、東京・京都間の往復など、自由な生活が許されていた。陸軍燃料研究所のアルコール蒸気に満ちた実験室で実験を繰り返していたため、酒にめっぽう強くなった[3]。
1945年9月、京都帝国大学工学部燃料化学科助教授。1947年、京都帝国大学が京都大学に改称。1948年6月、京都大学工学博士(「化学工業装置の温度分布に関する理論的研究」)。
1951年4月、京都大学工学部燃料化学科高温化学講座教授。1965年1月 、京都大学工学部燃料化学科高圧化学講座 教授。高圧化学講座は1966年より炭化水素物理化学講座に改称した。1960年代初頭には既に黎明期の核磁気共鳴分光法を研究に取り入れていた[4]。
1970年11月から翌年4月まで、京都大学評議員[5]。1971年4月、京都大学工学部長(1973年3月まで)[6]。
1981年、「化学反応過程の理論的研究」によりノーベル化学賞受賞。馬場錬成はイリヤ・プリゴジンによる推薦が影響したとしている[7]。
1982年4月、京都大学退官、京都大学名誉教授[8]。
1982年6月、京都工芸繊維大学学長。1988年5月、学長退任。翌6月、京都工芸繊維大学名誉教授、財団法人基礎化学研究所所長。
1990年2月、学術審議会会長。1995年9月、日本学術振興会会長。
1998年1月、死去。満79歳没。
フロンティア軌道理論[編集]
主要著書[編集]
福井博士は、数ある軌道の中に、多くの電子が回っていて最も大きなエネルギーを持つ軌道(最高被占軌道さいこうひせんきどう)と、電子が少なくエネルギーも最も小さな軌道(最低空軌道)があること、さらに、これらの軌道上にある電子が化学反応の起こり方を決めていることを発見して、それぞれ「フロンティア軌道」、「フロンティア電子」と名付け、先に紹介したフロンティア軌道理論を発表しました。
化学反応は、化学製品の製造過程はもちろんのこと、生物の体内で食物からエネルギーを得る反応などにも関わっています。福井博士が提唱したフロンティア軌道理論は化学反応のしくみを明らかにしただけでなく、新しい化学物質を合成するのにも役立っており、ノーベル化学賞を受賞するにふさわしい研究成果といえるでしょう。
京都大学福井謙一記念研究センター 京都市左京区高野西開町34-4
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享年79歳 、誕生日 1918年10月4日、命日 1998年1月9日
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福井 謙一(ふくい けんいち、1918年(大正7年)10月4日 - 1998年(平成10年)1月9日)は、日本の化学者。工学博士。アジア初のノーベル化学賞受賞者。奈良県生まれ、大阪府出身。
京都大学・京都工芸繊維大学名誉教授。日本学士院会員、ローマ教皇庁科学アカデミー会員、全米科学アカデミー外国人客員会員。勲等は勲一等旭日大綬章、文化勲章受章。最終階級は陸軍大尉。
若年期[編集]工場経営、外国貿易を営む父・亮吉の下、三人兄弟の長男として奈良県生駒郡平城村大字押熊(現在の奈良市押熊町)生まれ。大和郡山市出生の説もある[2]。大阪府西成郡玉出町(現在の大阪市西成区岸里)で育つ。少年時代にはファーブル昆虫記をこよなく愛読していた[3]。
1930年3月、大阪市玉出第二尋常小学校卒業。1935年3月、旧制今宮中学校卒業。1938年3月、旧制大阪高等学校高等科理科乙類卒業。
数学が好きであったが、父の叔父に当たる喜多源逸(京大教授)の「数学が好きなら化学をやれ」という一言に触発され、京都大学工学部工業化学科に進学[3]。理学部物理学科に潜って量子力学を会得し、後にフロンティア軌道理論を完成させることとなる[3]。
化学者として[編集]1941年3月、京都帝国大学工学部工業化学科卒業、同大学院入学。同時に短期将校として府中の陸軍燃料廠へ入所。
1943年8月、京都帝国大学工学部燃料化学科講師。燃料化学科は1966年に石油化学科に改組し、現在は工学研究科物質エネルギー専攻となっている。
24歳で京都大学の講師となるが、同時に国から陸軍技術大尉にも任命されていたため、別格官幣大社と呼ばれていた[3]。戦時下にありながら、東京・京都間の往復など、自由な生活が許されていた。陸軍燃料研究所のアルコール蒸気に満ちた実験室で実験を繰り返していたため、酒にめっぽう強くなった[3]。
1945年9月、京都帝国大学工学部燃料化学科助教授。1947年、京都帝国大学が京都大学に改称。1948年6月、京都大学工学博士(「化学工業装置の温度分布に関する理論的研究」)。
1951年4月、京都大学工学部燃料化学科高温化学講座教授。1965年1月 、京都大学工学部燃料化学科高圧化学講座 教授。高圧化学講座は1966年より炭化水素物理化学講座に改称した。1960年代初頭には既に黎明期の核磁気共鳴分光法を研究に取り入れていた[4]。
1970年11月から翌年4月まで、京都大学評議員[5]。1971年4月、京都大学工学部長(1973年3月まで)[6]。
1981年、「化学反応過程の理論的研究」によりノーベル化学賞受賞。馬場錬成はイリヤ・プリゴジンによる推薦が影響したとしている[7]。
1982年4月、京都大学退官、京都大学名誉教授[8]。
1982年6月、京都工芸繊維大学学長。1988年5月、学長退任。翌6月、京都工芸繊維大学名誉教授、財団法人基礎化学研究所所長。
1990年2月、学術審議会会長。1995年9月、日本学術振興会会長。
1998年1月、死去。満79歳没。
フロンティア軌道理論[編集]
詳細は「フロンティア軌道理論」を参照
1952年、フロンティア軌道理論 (frontier orbital theory) を発表[9]。これはフロンティア軌道と呼ばれる軌道の密度や位相によって分子の反応性が支配されていることを初めて明らかにしたもので、世界の化学界に衝撃を与えた。この業績により、1981年にノーベル化学賞を受賞[10]。また固有反応座標(Intrinsic Reaction Coordinate[11])の概念をより厳密に提唱した(ヘンリー・アイリングの「絶対反応速度論」に同様の概念が記載されている)。主要著書[編集]
- 『量子化学』(1968年、朝倉書店)
- Theory of Orientation and Stereoselection(1975年、Springer-Verlag)、ISBN 0387074260
- 『化学反応と電子の軌道』(1976年、丸善)、ISBN 462102132X
- 『フロンティア軌道法入門』(1978年、講談社)、ISBN 4061392506
- 『科学と人間を語る』(1982年、共同通信社)、ISBN 4764101149
- 『化学と私』(1982年、化学同人)山邊時雄編、ISBN 4759800883
- 『学問の創造』(1984年、佼成出版社)、ISBN 4333011434
- 『教育への直言』(1985年、パンリサーチインスティテュート)、ISBN 4893520059
- 『学問の創造』(1987年、朝日文庫)、ISBN 4022604433
- 『21世紀日本の選択』(1994年、ダイヤモンド社)、ISBN 4478190186
- 『哲学の創造』(1996年、梅原猛との共著・PHP研究所)、ISBN 4569552056
- 『複雑系の経済学』(1997年、ダイヤモンド社)、ISBN 4478372160
- Frontier Orbitals and Reaction Paths(1997年、World Scientific Publishing Company)、ISBN 9810222416
福井博士は、数ある軌道の中に、多くの電子が回っていて最も大きなエネルギーを持つ軌道(最高被占軌道さいこうひせんきどう)と、電子が少なくエネルギーも最も小さな軌道(最低空軌道)があること、さらに、これらの軌道上にある電子が化学反応の起こり方を決めていることを発見して、それぞれ「フロンティア軌道」、「フロンティア電子」と名付け、先に紹介したフロンティア軌道理論を発表しました。
化学反応は、化学製品の製造過程はもちろんのこと、生物の体内で食物からエネルギーを得る反応などにも関わっています。福井博士が提唱したフロンティア軌道理論は化学反応のしくみを明らかにしただけでなく、新しい化学物質を合成するのにも役立っており、ノーベル化学賞を受賞するにふさわしい研究成果といえるでしょう。
京都大学福井謙一記念研究センター 京都市左京区高野西開町34-4
※注:このサイトは、福井謙一に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
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