承継
この追悼サイトは、 渥美 清(コメディアン・俳優)さまのために作成されました。

享年68歳 、誕生日 1928年3月10日、命日 1996年8月4日
※ 渥美さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。

渥美 清(あつみ きよし、1928年昭和3年〉3月10日 - 1996年平成8年〉8月4日)は、日本コメディアン俳優歌手。本名:田所 康雄(たどころ やすお)。

代表作『男はつらいよ』シリーズで、柴又育ちのテキ屋で風来坊の主人公「車 寅次郎」を演じ、「寅さん」として広く国民的人気を博した昭和の名優。

没後に国民栄誉賞を受賞している[1]


1946年には新派の軽演劇の幕引きになり、大宮市日活館の下働きを経て[3]、『阿部定一代記』[注釈 3]でのチョイ役で舞台初出演[14]1951年、東京浅草六区ストリップ劇場「百万弗劇場」(建物疎開した観音劇場の跡)の専属コメディアンとなる[11]。2年後の1953年には、フランス座へ移籍[15]。この頃のフランス座は、長門勇東八郎関敬六など後に第一線で活躍するコメディアンたちが在籍し、コント作家として井上ひさしが出入りしていた。またこの頃、浅草銭湯で、のちにシナリオライターとなる早坂暁(当時は大学生)と知り合い、親しくなる。(後述参照)。1954年肺結核右肺を切除し埼玉のサナトリウムで約2年間の療養生活を送る[16][17]。このサナトリウムでの療養体験が後の人生観に多大な影響を与えたと言われ、右肺を無くしたことでそれまでのドタバタ喜劇ができなくなった[18]。退院後の1956年の秋、今度は胃腸を患い中野の立正佼成会病院に三か月入院する[19]。再復帰後は煙草コーヒーさえも一切やらなくなり過剰な程の摂生に努めた[20][21]

1956年に日本テレビ連続ドラマ「すいれん夫人とバラ娘」で主役の朝丘雪路のダメ助手役でテレビ初出演[3][22][23]1958年に『おトラさん大繁盛』で映画にデビュー。1959年にはストリップ小屋時代からの盟友である谷幹一・関敬六とスリーポケッツを結成[3]。しかし、数ヵ月後には脱退している

1961年から1966年までNHKで放映された『夢であいましょう』、『若い季節』に出演。コメディアン・渥美清の名を全国区にした。1962年公開の映画『あいつばかりが何故もてる』にて映画初主演を務める。7年後に寅さん一家を組むことになる倍賞千恵子森川信との共演である。同年、フジテレビ連続ドラマ『大番』でのギューちゃん役がうける。同年、ヤクザ(フーテン)役で出演した『おったまげ人魚物語』のロケの際、海に飛び込むシーンでは右肺切除の影響から飛び込むことができず、唯一代役を立てたシーンとも言われている。当時、複数の映画が同じ地域で撮影を行っており、この時の撮影現場では、映画『切腹』(仲代達矢岩下志麻丹波哲郎三國連太郎)の撮影現場の宿に泊まり、同宿した多くの俳優や監督と接することとなる。1963年野村芳太郎監督の映画『拝啓天皇陛下様』で「片仮名しか書けず、軍隊天国と信じてやまない純朴な男」を演じ、俳優としての名声を確立する。この作品がフジテレビの関係者の評判を得て「男はつらいよ」の構想が練られた

1969年3月17日(月曜日)、正子夫人と島根県出雲大社で結婚式を内々だけで挙げる[25][26][27]。披露宴はホテルニューオータニで仲の良かったスター、友人、映画記者番や雑誌記者を招いて行った[26][28]。41歳の時だった。

1968年10月3日から半年間、フジテレビにて、テレビドラマ『男はつらいよ』が放送され、脚本は山田洋次森崎東が担当した。最終回の「ハブに噛まれて寅さんが死ぬ」という結末に視聴者からの抗議が殺到したことから[40]、翌1969年に「罪滅ぼしの意味も含めて」、松竹が映画を製作。これが堅調な観客動員と高い評価を受けてシリーズ化。当初は54万人程度だった観客動員は徐々に伸びて第8作では148万人と大ヒット水準まで飛躍。以降、しばしば200万人を超えるなど松竹の屋台骨を支え続けるほどの大ヒットが続く。国民的スターとなった渥美清は、主演の車寅次郎(フーテンの寅)役を27年間48作に亘って演じ続けることになる。映画のシリーズでは最多記録の作品としてギネスブックにも載るなどの記録を成し遂げた。

1972年、渥美プロを設立し、松竹と共同で映画『あゝ声なき友』を自身主演で製作する。1975年、松竹80周年記念として制作された映画『友情』に出演。1977年にはテレビ朝日製作の土曜ワイド劇場田舎刑事 時間(とき)よとまれ』にて久しぶりにテレビドラマの主演を務める。同作品はのちに長く続く人気番組『土曜ワイド劇場』の記念すべき第1回作品であると同時に、第32回文化庁芸術祭のテレビ部門ドラマ部の優秀作品にも選出されている。この成功を受けて同作品はシリーズ化され1978年に『旅路の果て』が、1979年には『まぼろしの特攻隊』がいずれも渥美主演で製作放送されている

病気については、1991年肝臓癌が見つかり、1994年には肺への転移が認められた。主治医からは、第47作への出演は不可能だと言われていたがなんとか出演し、48作に出演できたのは奇跡に近いとのことである。1996年6月27日、若しくは6月30日の代官山レストランでの食事の際に第49作制作の件で高知ロケを承諾し[41][46]、撮影を控えていた中、亡くなる一週間前に「呼吸が苦しい」と家族に訴え即手術を受けたものの[47]の転移が広がり手遅れの状態だった。1996年8月4日午後5時10分、転移性肺癌のため文京区順天堂大学医学部附属順天堂医院にて死去した。68歳没。

出演[編集]映画[編集]
  • 男はつらいよシリーズ(1969年 - 1995年、1997年、2019年 全50作)- 車寅次郎
BF6FE775-5CF1-4042-85B6-2467F4C17ACB.jpeg
        小野照崎神社  東京都台東区下谷2-13-14
    渥美清が願をかけた神社として知られる。 芸能人も多く参拝している。

※注:このサイトは、渥美清に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝



このメッセージは、 2023年7月15日に、墓マイラー趣味クラブさんが投稿
小さい頃、とても好きでした! 懐かしいい人とまためぐり逢えました。 

メッセージの投稿

 
メッセージ
このメッセージは、 2023年7月15日に、墓マイラー趣味クラブさんが投稿
小さい頃、とても好きでした! 懐かしいい人とまためぐり逢えました。 
軌跡

(幼少期)

1928年3月、東京府東京市下谷区車坂町(現・東京都台東区上野七丁目)で、地方新聞新聞記者をしていた父・友次郎と、元小学校教諭で内職の封筒貼りをする母・タツとの間に次男として生まれる[2]。兄に健一郎がいる。

1934年11月、板橋尋常小学校に入学。1936年、一家で板橋区志村清水町転居し、志村第一尋常小学校へ転入。小学生時代はいわゆる欠食児童であり、病弱で小児腎臓炎、小児関節炎[3]、膀胱カタル等の様々なを患っていた。そのため学校は欠席がちで、3年次と4年次では長期病欠であった。欠席中は、日がな一日ラジオに耳を傾け徳川夢声落語を聴いて過ごし、覚えた落語を学校で披露すると大変な評判だったという。

(戦後、焼け跡時代)

3月10日東京大空襲で自宅が被災し焼け出される。卒業後は工員として働きながら、一時期、担ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていた[6](親友の谷幹一に、かつて自分は桝屋一家[注釈 2]に身を寄せていた、と語ったことがある)。この幼少期に培った知識が後の「男はつらいよ」シリーズの寅次郎のスタイルを産むきっかけになったといえる。永六輔によれば、戦後焼け跡の金属を換金し、秋葉原で部品を買い鉱石ラジオを組み立てるグループに永も参加していたが、そのグループのリーダーが渥美清であったとのこと[8]