この追悼サイトは、 志賀 潔(赤痢菌を発見した細菌学者・医学者)さまのために作成されました。
享年85歳 、誕生日 1871年2月7日、命日 1957年1月25日
※ 志賀さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
志賀 潔(しが きよし、1871年2月7日(明治3年12月18日) - 1957年(昭和32年)1月25日)は、日本の医学者・細菌学者。位階は正三位。赤痢菌の発見者として知られる。朝鮮総督府医院長・京城医学専門学校校長・京城帝国大学総長などを歴任。
人物[編集]赤痢菌の発見とともに化学療法を研究し、明治時代の日本の近代化の中で世界に通用する科学研究の成果を成し遂げた先駆者と評される。赤痢菌の学名(属名)は志賀に因む Shigella であるが、これは主要な病原細菌の学名に日本人の名前が冠されている殆ど唯一の例となった[1]。私生活では清貧を貫き、数々の名誉を得ながらも晩年は質素な暮らしに徹した[注釈 1]。
生い立ち[編集]1871年(明治3年)、仙台藩領・陸前国宮城郡仙台(現在の仙台市)に、仙台藩士の子として生まれた。姓は佐藤、幼名は直吉。1878年(明治11年)、 母親の実家である志賀家の養子となり、名も潔と改めた。志賀家は、仙台藩の藩医を務める家柄であった。
学歴は、育才小学校(現在の仙台市立片平丁小学校)、 宮城中学(現在の宮城県仙台第一高等学校)、第一高等中学校を経て、1892年(明治25年)に帝国大学医科大学(現:東京大学医学部)に入学した。
医学研究[編集]
1945年(昭和20年)の東京大空襲で被災、家財を失い、仙台に疎開した。終戦後の1949年(昭和24年)からは、宮城県亘理郡坂元村磯浜の別荘(貴洋翠荘)に居住した。1957年(昭和32年)、同地で老衰により死去。仙台市により市葬が行われた。志賀の墓所は、同市青葉区北山の輪王寺にある。
磯浜の別荘
文化勲章を授与された1944(昭和19)年、妻の市子を病気で亡くし、その翌月には船の事故で長男を亡くしました。74歳となった1945(昭和20)年に、戦火を逃れて仙台に疎開。同年、東京大空襲で東京の住居の家財一切を失い、磯浜の別荘に居を移します。さらに不運は続き、医学の道を進んでいた三男を1949(昭和24)年に結核で亡くしました
※注:このサイトは、志賀潔に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
享年85歳 、誕生日 1871年2月7日、命日 1957年1月25日
※ 志賀さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
志賀 潔(しが きよし、1871年2月7日(明治3年12月18日) - 1957年(昭和32年)1月25日)は、日本の医学者・細菌学者。位階は正三位。赤痢菌の発見者として知られる。朝鮮総督府医院長・京城医学専門学校校長・京城帝国大学総長などを歴任。
人物[編集]赤痢菌の発見とともに化学療法を研究し、明治時代の日本の近代化の中で世界に通用する科学研究の成果を成し遂げた先駆者と評される。赤痢菌の学名(属名)は志賀に因む Shigella であるが、これは主要な病原細菌の学名に日本人の名前が冠されている殆ど唯一の例となった[1]。私生活では清貧を貫き、数々の名誉を得ながらも晩年は質素な暮らしに徹した[注釈 1]。
生い立ち[編集]1871年(明治3年)、仙台藩領・陸前国宮城郡仙台(現在の仙台市)に、仙台藩士の子として生まれた。姓は佐藤、幼名は直吉。1878年(明治11年)、 母親の実家である志賀家の養子となり、名も潔と改めた。志賀家は、仙台藩の藩医を務める家柄であった。
学歴は、育才小学校(現在の仙台市立片平丁小学校)、 宮城中学(現在の宮城県仙台第一高等学校)、第一高等中学校を経て、1892年(明治25年)に帝国大学医科大学(現:東京大学医学部)に入学した。
医学研究[編集]
- 1896年(明治29年) - 大学を卒業し、大日本私立衛生会伝染病研究所に入所、北里柴三郎に師事。
- 1897年(明治30年) - 赤痢菌を発見し、「細菌学雑誌」に『赤痢病原研究報告第一』を日本語で発表。
- 1898年(明治31年) - 要約論文をドイツ語で発表。これにより、赤痢菌の属名は志賀に因んでShigellaとされた。
- 1899年(明治32年) - 内務省技師・伝染病研究所第一部長となる。
- 1901年(明治34年) - ドイツ・フランクフルトに留学しパウル・エールリヒに師事。ベンチジン系赤色色素の治療効果を明らかにし、トリパンロートと命名した。
- 1905年(明治38年) - 帰国、医学博士の学位を取得。脚気に対して追実験を行い、脚気細菌起源説を否定。
- 1912年(明治45年) - 再びドイツに渡り、パウル・エールリヒに師事する[2]。
- 1914年(大正3年) - 北里らと共に伝染病研究所退職。
- 1915年(大正4年) - 創設された北里研究所(現在の北里大学の母体)に入所。
1945年(昭和20年)の東京大空襲で被災、家財を失い、仙台に疎開した。終戦後の1949年(昭和24年)からは、宮城県亘理郡坂元村磯浜の別荘(貴洋翠荘)に居住した。1957年(昭和32年)、同地で老衰により死去。仙台市により市葬が行われた。志賀の墓所は、同市青葉区北山の輪王寺にある。
磯浜の別荘
文化勲章を授与された1944(昭和19)年、妻の市子を病気で亡くし、その翌月には船の事故で長男を亡くしました。74歳となった1945(昭和20)年に、戦火を逃れて仙台に疎開。同年、東京大空襲で東京の住居の家財一切を失い、磯浜の別荘に居を移します。さらに不運は続き、医学の道を進んでいた三男を1949(昭和24)年に結核で亡くしました
※注:このサイトは、志賀潔に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝