この追悼サイトは、 市川 崑(映画監督)さまのために作成されました。
享年92歳 、誕生日 1915年11月20日、命日 2008年2月13日
※ 市川さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
市川 崑(いちかわ こん、幼名:市川 儀一[1]、1915年(大正4年)11月20日[1] - 2008年(平成20年)2月13日)は、日本の映画監督。
娯楽映画からドキュメンタリー、更にはテレビ時代劇ドラマまでを幅広く手がけ、長期間映画制作に取り組んだ。主な監督映画に『ビルマの竪琴』『炎上』『おとうと』『鍵』『東京オリンピック』『股旅』の他、『犬神家の一族』を始めとする金田一耕助シリーズなどがあり、主なテレビドラマの演出作品に『木枯し紋次郎』がある。
広島にいた母を含む家族8人全員が1945年8月6日、原爆に被爆したが全員無事であった。東京にいた市川は、仕事先である砧撮影所の所長だった森岩雄から原爆投下を聞かされ、直ぐに帰郷を決断するが、森から「今行くと、ガレキの下から強烈な煙(放射能)が出ていて、それを吸うと死ぬぞ」と止められた。数日後、家族からの手紙で全員の無事を確認し、無理を承知で広島に向かい、自分の家の跡さえ分からない被爆直後の広島の荒涼ぶりを目の当たりにしている。
当時の新東宝は、助監督が監督に昇進するには映画を三本撮ってそれが及第点なら会社として契約するという規約があり、撮影所の所長から「そろそろ、一本撮る心づもりをしておいてくれ」と声をかけられ、やがて新東宝から高峰秀子を主演に新しい女性映画を作って欲しいというオーダーが入った。この時、デビュー作の原作となった野上弥生子作の小説『眞知子』を選出したのは、同じく組合離脱派で、後に二度目の結婚をする和田夏十だった[12]。こうして1948年(昭和23年)に製作された『-「眞知子」より- 花ひらく』は、新東宝がプロデューサーに恩師の1人である阿部豊を、脚本に八住利雄、撮影に小原譲治、そして主演の高峰の相手役に上原謙を起用する等、失敗が無いよう御膳立てを行った[13]。その後、同年に発表した『三百六十五夜 東京篇・大阪篇』の2部作の大ヒットで監督に昇進し、新東宝で11本、東横映画で1本映画を撮った後、1951年(昭和26年)に藤本真澄に誘われ東宝に復帰した[1][14]。この時期は『プーサン』や『億万長者』などの異色風刺喜劇や早口演出の『結婚行進曲』、大胆な映像処理の『盗まれた恋』などの実験的な作品で話題を呼んだが、『三百六十五夜』のような、オーソドックスなメロドラマを大ヒットさせて、『メロドラマの名手』と評されたこともある[15]。
1956年(昭和31年)に日活を辞めて大映に移籍する。日活在籍時に大映の常務だった松山英夫から声をかけられており、既に名カメラマンとして名を馳せていた宮川一夫と仕事がしたい気持ちもあったという[18]。しかし、移籍後の第1作目として企画、映画化された『処刑の部屋』は、当時の太陽族を扱った作品としてヒットしたものの、青少年の性犯罪を誘発させる有害な映画だとして、朝日新聞の井沢淳ら批評家から猛批判され、一部の映画館が年齢制限を設けるなど問題作となった。市川は後に、上映禁止を主張する批判記事を書いた井沢と映画誌上で論戦を交わすなど、図らずも映画作り以外の場で脚光を浴びる事となった[19]。その後、次回作について大映の重役でもあった作家の川口松太郎に相談した所、泉鏡花の『日本橋』と永井荷風の『おかめ笹』の二者択一を提案され、前者を選んで映画化した。映画『日本橋』は明治時代の日本橋周辺を描き、市川にとって初のカラー作品でもあったが、泉鏡花の世界観を表現するために小道具や背景などの色調をグレーで統一する実験的な試みも行い、昭和31年度の芸術祭に参加するという高評価を得た
三島由紀夫の『金閣寺』の映画化を大映京都で取り組むが、事実と相反する描写を映像化されることを危惧した金閣寺側が映画化に猛反対し、製作が半年間中断したので、穴埋め映画として、米国小説『すばらしき罠』を脚色映画化した『穴』を発表する。結局、原作名に「金閣寺」を記載し、映画の題名と作中の寺院名を、妻で脚本も担当した和田夏十が発案した『炎上』・「驟閣寺」に変更する事で金閣寺側の了承を貰うと映画作りに取り掛かった。本作では念願だった名カメラマンの宮川一夫とコンビを組み、原作の美を追求する方向性から、主人公の悩みの変遷を軸に物語を進める内容に変更し、人間の内面を鋭く描くために会社側が推したカラー撮影でなく、モノクロ撮影を採用した。映画『炎上』は国内の映画賞を幾つも受賞しただけでなく、ロンドン映画祭やヴェネチア国際映画祭に出品される等、国内外で高い評価を得た。そして市川が日本映画界の巨匠の1人と評されるきっかけの作品となった[21]。その後も、当時の流行歌に便乗して企画された『あなたと私の合言葉・さようなら、今日は』を自身初のカラー・スコープで映画化すると、映画解説者の淀川長治の仲介で谷崎潤一郎原作の『鍵』を、和田夏十の企画で大岡昇平原作の『野火』を、立て続けに発表して国内外で高い評価を得た[22]。また1959年からは、日本テレビの芸能局長をしていた作家の阿木翁助の頼みで、演出顧問という名目でテレビの単発ドラマの演出も手掛けるようになった
このように大映時代(当初は東京撮影所で、『炎上』から京都撮影所にも進出)は、文芸映画を中心に、前述のような話題作を毎年のように発表した。とりわけ1960年(昭和35年)製作の『おとうと』は、大正時代を舞台にした姉弟の愛を宮川一夫のカメラで表現し、自身初のキネマ旬報ベスト・テンで1位に選出された。そして1964年(昭和36年)に大映東京で製作され、大映時代最後の作品となった『ど根性物語 銭の踊り』は、看板スターの1人だった勝新太郎の初の現代劇でもあったが、この作品を製作中に、監督人生を大きく変える『東京オリンピック』の依頼が舞い込むことになる[24]。
テレビ放送の開始で、映画が全盛期から斜陽期へと向かう時代が忍び寄る中、映画関係者の中にはテレビに敵対意識を持ったり、蔑視する者が少なくなかった。そんな中、市川はテレビの新メディアとしての可能性に注目し、映画監督としてはいち早く1959年(昭和34年)よりこの分野に積極的に進出した。市川はテレビ創成期の生放送ドラマ、ビデオ撮りのドラマから実験期のハイビジョンカメラを使ったドラマまでを手掛けた。1965年(昭和40年)から1966年(昭和41年)にかけて放送された『源氏物語』(毎日放送)では、美術や衣装を白と黒に統一するなど独特の演出を手がけ、演出指導を務めた「夕顔の巻」では国際エミー賞にノミネートされた。テレビコマーシャルでは、大原麗子を起用したサントリーレッド(ウイスキー)がシリーズ化され、長年に渡って放映された。
1972年(昭和47年)に監督・監修を手がけた、中村敦夫主演の連続テレビ時代劇『市川崑劇場・木枯し紋次郎シリーズ』(フジテレビ)はフィルム撮り作品だが、斬新な演出と迫真性の高い映像から、歴史的な名作となった。
1973年には、米国のプロデューサーから、ミュンヘンオリンピックの各競技種目を8人の映画監督で撮るという『時よとまれ、君は美しい/ミュンヘンの17日』に参加し、男子百メートル決勝を担当した。また同年にはATGに企画を持ち込んだ『股旅』が高評価を得、同作の製作資金捻出のために企画したテレビドラマ『木枯らし紋次郎』も大ヒットしたりと、何かしらの話題作を継続的に発表していった。70年代は、嘗てのホームグラウンドであった大映が1971年に倒産し、東宝も1972年に分社化方針を打ち出すなど、映画業界全体が大きく変わりつつあった。その中に於いて、市川は東宝の子会社の1つであった芸苑社と関わり合いを持ち、夏目漱石原作の『吾輩は猫である』や、瀬戸内晴美原作の『妻と女の間(映画監督豊田四郎と共同監督)を発表していく[33]。
1970年代後半に入り、メディアミックスによる収益システムを確立した角川春樹が横溝正史の「金田一耕助シリーズ」の映画化を企画し、紆余曲折を経て市川が『犬神家の一族』の監督を担当することになった。映画は作品の完成度に加え、角川による連日の大量CMや関連会社にチケットの購入を押し付ける戦略も相まって大ヒットし、同年のキネマ旬報ベストテン5位、同読者選出1位、第1回報知映画賞作品賞など久々に好評価も獲得し、これを機に横溝正史ブームが始まり、市川は70年代の後半を、東宝での金田一シリーズ5作品の監督に費やすが、その合間にも、手塚治虫原作の『火の鳥』を、実写とアニメーションの合成で映画化する等、意欲作を発表して行った[34]。
80年代になっても、山口百恵の引退作となった川端康成原作『古都』の映画化を皮切りに、海外ミステリーを翻案した『幸福』を製作会社との要望を踏まえて銀残しで発表するなど、作品作りを続けていく。そして谷崎潤一郎原作の『細雪』でまたもやヒットを飛ばす[35]。
デビューから一貫して市川と公私に亙るパートナーだった和田夏十は、1964年の『東京オリンピック』を最後に脚本家を休筆し、長らく乳癌との闘病生活を送っていたが、その間も、間接的に市川に助言やアイディアを提供し、市川も、和田のテイストを意識した脚本を盛り込むなど、関係は続いていた。しかし、1982年の元日の朝に和田の容体が急変し、三が日後に入院する事態となる。和田の急変時、市川は上記の映画『細雪』の撮影のクランクアップ直前で、流石に心労が堪えて、撮影中も無口でいることが多かったが、和田が劇中のラストを部分執筆したことも相俟って、「夏十さんの気迫が、逆に僕の心の支えになっていた」と後年に述懐するほど、『細雪』は市川曰く、どうしても忘れられない特別な作品となった。、和田は映画の完成を見ることなく、翌年の1983年2月28日に62歳で死去し、和田を欠いた中で市川は映画作りを続けることになる。[36]
受賞・栄典[編集]映画賞[編集]
市川崑記念室 東京都渋谷区南平台町18-4
永らく暮らした住まいを建て替え、その1室にオープンした。 私設記念室
※注:このサイトは、市川崑に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
享年92歳 、誕生日 1915年11月20日、命日 2008年2月13日
※ 市川さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
市川 崑(いちかわ こん、幼名:市川 儀一[1]、1915年(大正4年)11月20日[1] - 2008年(平成20年)2月13日)は、日本の映画監督。
娯楽映画からドキュメンタリー、更にはテレビ時代劇ドラマまでを幅広く手がけ、長期間映画制作に取り組んだ。主な監督映画に『ビルマの竪琴』『炎上』『おとうと』『鍵』『東京オリンピック』『股旅』の他、『犬神家の一族』を始めとする金田一耕助シリーズなどがあり、主なテレビドラマの演出作品に『木枯し紋次郎』がある。
広島にいた母を含む家族8人全員が1945年8月6日、原爆に被爆したが全員無事であった。東京にいた市川は、仕事先である砧撮影所の所長だった森岩雄から原爆投下を聞かされ、直ぐに帰郷を決断するが、森から「今行くと、ガレキの下から強烈な煙(放射能)が出ていて、それを吸うと死ぬぞ」と止められた。数日後、家族からの手紙で全員の無事を確認し、無理を承知で広島に向かい、自分の家の跡さえ分からない被爆直後の広島の荒涼ぶりを目の当たりにしている。
当時の新東宝は、助監督が監督に昇進するには映画を三本撮ってそれが及第点なら会社として契約するという規約があり、撮影所の所長から「そろそろ、一本撮る心づもりをしておいてくれ」と声をかけられ、やがて新東宝から高峰秀子を主演に新しい女性映画を作って欲しいというオーダーが入った。この時、デビュー作の原作となった野上弥生子作の小説『眞知子』を選出したのは、同じく組合離脱派で、後に二度目の結婚をする和田夏十だった[12]。こうして1948年(昭和23年)に製作された『-「眞知子」より- 花ひらく』は、新東宝がプロデューサーに恩師の1人である阿部豊を、脚本に八住利雄、撮影に小原譲治、そして主演の高峰の相手役に上原謙を起用する等、失敗が無いよう御膳立てを行った[13]。その後、同年に発表した『三百六十五夜 東京篇・大阪篇』の2部作の大ヒットで監督に昇進し、新東宝で11本、東横映画で1本映画を撮った後、1951年(昭和26年)に藤本真澄に誘われ東宝に復帰した[1][14]。この時期は『プーサン』や『億万長者』などの異色風刺喜劇や早口演出の『結婚行進曲』、大胆な映像処理の『盗まれた恋』などの実験的な作品で話題を呼んだが、『三百六十五夜』のような、オーソドックスなメロドラマを大ヒットさせて、『メロドラマの名手』と評されたこともある[15]。
1956年(昭和31年)に日活を辞めて大映に移籍する。日活在籍時に大映の常務だった松山英夫から声をかけられており、既に名カメラマンとして名を馳せていた宮川一夫と仕事がしたい気持ちもあったという[18]。しかし、移籍後の第1作目として企画、映画化された『処刑の部屋』は、当時の太陽族を扱った作品としてヒットしたものの、青少年の性犯罪を誘発させる有害な映画だとして、朝日新聞の井沢淳ら批評家から猛批判され、一部の映画館が年齢制限を設けるなど問題作となった。市川は後に、上映禁止を主張する批判記事を書いた井沢と映画誌上で論戦を交わすなど、図らずも映画作り以外の場で脚光を浴びる事となった[19]。その後、次回作について大映の重役でもあった作家の川口松太郎に相談した所、泉鏡花の『日本橋』と永井荷風の『おかめ笹』の二者択一を提案され、前者を選んで映画化した。映画『日本橋』は明治時代の日本橋周辺を描き、市川にとって初のカラー作品でもあったが、泉鏡花の世界観を表現するために小道具や背景などの色調をグレーで統一する実験的な試みも行い、昭和31年度の芸術祭に参加するという高評価を得た
三島由紀夫の『金閣寺』の映画化を大映京都で取り組むが、事実と相反する描写を映像化されることを危惧した金閣寺側が映画化に猛反対し、製作が半年間中断したので、穴埋め映画として、米国小説『すばらしき罠』を脚色映画化した『穴』を発表する。結局、原作名に「金閣寺」を記載し、映画の題名と作中の寺院名を、妻で脚本も担当した和田夏十が発案した『炎上』・「驟閣寺」に変更する事で金閣寺側の了承を貰うと映画作りに取り掛かった。本作では念願だった名カメラマンの宮川一夫とコンビを組み、原作の美を追求する方向性から、主人公の悩みの変遷を軸に物語を進める内容に変更し、人間の内面を鋭く描くために会社側が推したカラー撮影でなく、モノクロ撮影を採用した。映画『炎上』は国内の映画賞を幾つも受賞しただけでなく、ロンドン映画祭やヴェネチア国際映画祭に出品される等、国内外で高い評価を得た。そして市川が日本映画界の巨匠の1人と評されるきっかけの作品となった[21]。その後も、当時の流行歌に便乗して企画された『あなたと私の合言葉・さようなら、今日は』を自身初のカラー・スコープで映画化すると、映画解説者の淀川長治の仲介で谷崎潤一郎原作の『鍵』を、和田夏十の企画で大岡昇平原作の『野火』を、立て続けに発表して国内外で高い評価を得た[22]。また1959年からは、日本テレビの芸能局長をしていた作家の阿木翁助の頼みで、演出顧問という名目でテレビの単発ドラマの演出も手掛けるようになった
このように大映時代(当初は東京撮影所で、『炎上』から京都撮影所にも進出)は、文芸映画を中心に、前述のような話題作を毎年のように発表した。とりわけ1960年(昭和35年)製作の『おとうと』は、大正時代を舞台にした姉弟の愛を宮川一夫のカメラで表現し、自身初のキネマ旬報ベスト・テンで1位に選出された。そして1964年(昭和36年)に大映東京で製作され、大映時代最後の作品となった『ど根性物語 銭の踊り』は、看板スターの1人だった勝新太郎の初の現代劇でもあったが、この作品を製作中に、監督人生を大きく変える『東京オリンピック』の依頼が舞い込むことになる[24]。
テレビ放送の開始で、映画が全盛期から斜陽期へと向かう時代が忍び寄る中、映画関係者の中にはテレビに敵対意識を持ったり、蔑視する者が少なくなかった。そんな中、市川はテレビの新メディアとしての可能性に注目し、映画監督としてはいち早く1959年(昭和34年)よりこの分野に積極的に進出した。市川はテレビ創成期の生放送ドラマ、ビデオ撮りのドラマから実験期のハイビジョンカメラを使ったドラマまでを手掛けた。1965年(昭和40年)から1966年(昭和41年)にかけて放送された『源氏物語』(毎日放送)では、美術や衣装を白と黒に統一するなど独特の演出を手がけ、演出指導を務めた「夕顔の巻」では国際エミー賞にノミネートされた。テレビコマーシャルでは、大原麗子を起用したサントリーレッド(ウイスキー)がシリーズ化され、長年に渡って放映された。
1972年(昭和47年)に監督・監修を手がけた、中村敦夫主演の連続テレビ時代劇『市川崑劇場・木枯し紋次郎シリーズ』(フジテレビ)はフィルム撮り作品だが、斬新な演出と迫真性の高い映像から、歴史的な名作となった。
1973年には、米国のプロデューサーから、ミュンヘンオリンピックの各競技種目を8人の映画監督で撮るという『時よとまれ、君は美しい/ミュンヘンの17日』に参加し、男子百メートル決勝を担当した。また同年にはATGに企画を持ち込んだ『股旅』が高評価を得、同作の製作資金捻出のために企画したテレビドラマ『木枯らし紋次郎』も大ヒットしたりと、何かしらの話題作を継続的に発表していった。70年代は、嘗てのホームグラウンドであった大映が1971年に倒産し、東宝も1972年に分社化方針を打ち出すなど、映画業界全体が大きく変わりつつあった。その中に於いて、市川は東宝の子会社の1つであった芸苑社と関わり合いを持ち、夏目漱石原作の『吾輩は猫である』や、瀬戸内晴美原作の『妻と女の間(映画監督豊田四郎と共同監督)を発表していく[33]。
1970年代後半に入り、メディアミックスによる収益システムを確立した角川春樹が横溝正史の「金田一耕助シリーズ」の映画化を企画し、紆余曲折を経て市川が『犬神家の一族』の監督を担当することになった。映画は作品の完成度に加え、角川による連日の大量CMや関連会社にチケットの購入を押し付ける戦略も相まって大ヒットし、同年のキネマ旬報ベストテン5位、同読者選出1位、第1回報知映画賞作品賞など久々に好評価も獲得し、これを機に横溝正史ブームが始まり、市川は70年代の後半を、東宝での金田一シリーズ5作品の監督に費やすが、その合間にも、手塚治虫原作の『火の鳥』を、実写とアニメーションの合成で映画化する等、意欲作を発表して行った[34]。
80年代になっても、山口百恵の引退作となった川端康成原作『古都』の映画化を皮切りに、海外ミステリーを翻案した『幸福』を製作会社との要望を踏まえて銀残しで発表するなど、作品作りを続けていく。そして谷崎潤一郎原作の『細雪』でまたもやヒットを飛ばす[35]。
デビューから一貫して市川と公私に亙るパートナーだった和田夏十は、1964年の『東京オリンピック』を最後に脚本家を休筆し、長らく乳癌との闘病生活を送っていたが、その間も、間接的に市川に助言やアイディアを提供し、市川も、和田のテイストを意識した脚本を盛り込むなど、関係は続いていた。しかし、1982年の元日の朝に和田の容体が急変し、三が日後に入院する事態となる。和田の急変時、市川は上記の映画『細雪』の撮影のクランクアップ直前で、流石に心労が堪えて、撮影中も無口でいることが多かったが、和田が劇中のラストを部分執筆したことも相俟って、「夏十さんの気迫が、逆に僕の心の支えになっていた」と後年に述懐するほど、『細雪』は市川曰く、どうしても忘れられない特別な作品となった。、和田は映画の完成を見ることなく、翌年の1983年2月28日に62歳で死去し、和田を欠いた中で市川は映画作りを続けることになる。[36]
受賞・栄典[編集]映画賞[編集]
- 1956年(昭和31年) 『ビルマの竪琴』で以下の賞を受賞。
- エディンバラ国際映画祭グランプリ
- ヴェネツィア国際映画祭サン・ジョルジョ賞
- アカデミー賞外国語映画賞ノミネート
- リスボン国際映画祭審査員特別賞
- 1959年(昭和34年) 『野火』で以下の賞を受賞。
- ロカルノ国際映画祭グランプリ
- バンクーバー国際映画祭カナダ映画協会賞
- 1960年(昭和35年) 『鍵』でカンヌ国際映画祭審査員賞
- 1961年(昭和36年) 『おとうと』でカンヌ国際映画祭フランス映画高等技術委員会賞スペシャルメンション
- 1962年(昭和37年) 『私は二歳』でアジア映画祭監督賞
- 1965年(昭和40年) 『東京オリンピック』で以下の賞を受賞。
- 1983年(昭和58年) 『細雪』で以下の賞を受賞。
- アジア太平洋映画祭グランプリ
- 同・監督賞
- 1984年(昭和59年) 『おはん』でアジア太平洋映画祭審査員特別賞
- 1994年(平成6年) 『四十七人の刺客』で東京国際映画祭審査員特別賞
- 2000年(平成12年) ベルリン国際映画祭特別功労賞
- 2001年(平成13年) モントリオール世界映画祭功労賞、第19回川喜多賞[65]
- 2007年(平成19年) 東京国際映画祭黒澤明賞
市川崑記念室 東京都渋谷区南平台町18-4
永らく暮らした住まいを建て替え、その1室にオープンした。 私設記念室
※注:このサイトは、市川崑に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
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