承継
この想いでサイトは、私たちの愛する人 緒方 洪庵(近代医学の祖・医師、適塾を開く)さんを記念して作成されました。

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本名:緒方 洪庵(おがた こうあん)
戒名:華陰殿法眼文粛居士
墓地高林寺(東京都文京区)、日本

江戸時代後期の武士足守藩士)・医師蘭学者惟章(これあき)または(あきら)、公裁を洪庵の他に適々斎華陰と称する。

大阪に適塾大阪大学の前身)を開き、人材を育てた。天然痘治療に大きく貢献し、日本の近代医学の祖といわれる

略歴[編集]文化7年(1810年)7月14日、豊後国豪族豊後佐伯氏の流れをくむ備中佐伯氏の一族である備中国足守藩(現・岡山市北部)士・佐伯惟因(瀬左衛門)の三男として生まれる[2]。母は、石原光詮の娘・キャウ。幼名は騂之助(せいのすけ)。備中佐伯氏は佐伯惟寛(惟定の弟)の末裔と称した。8歳のとき天然痘にかかった。

文政8年(1825年)2月5日、元服して田上惟章と名乗る。10月、大坂堂島新地4丁目(現・大阪市北区堂島3丁目)にあった足守藩大坂蔵屋敷留守居役となった父と共に大坂へ出た。

文政9年(1826年)7月に中天游私塾「思々斎塾」に入門。この時に緒方三平と名乗り(のちに判平と改める)、以後は緒方を名字とする。4年間、蘭学、特に医学を学ぶ。

天保2年(1831年)、江戸へ出て坪井信道に学び、さらに宇田川玄真にも学んだ。同7年(1836年)には長崎へ遊学し、出島オランダ人医師ニーマンの下で医学を学ぶ。この頃から洪庵と号した。

天保9年(1838年)春、大坂に帰り、津村東之町(現・大阪市中央区瓦町3丁目)で医業を開業する。同時に蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開く。同年、天游門下の先輩・億川百記の娘・八重と結婚。のち6男7女をもうける
嘉永2年11月1日1849年12月15日)に京都に赴き、滞在7日にして出島の医師オットー・モーニッケが輸入して京都に伝わっていた痘苗を得、古手町(現・大阪市中央区道修町4丁目)に「除痘館」を開き、牛痘種痘法による切痘を始める。同3年(1850年)、郷里の足守藩より要請があり「足守除痘館」を開き切痘を施した。牛痘種痘法は牛になる等の迷信が障害となり、治療費を取らず患者に実験台になってもらい、かつワクチンを関東から九州までの186箇所の分苗所で維持しながら治療を続ける。その一方で、もぐりの牛痘種痘法者が現れ、除痘館のみを国家公認の唯一の牛痘種痘法治療所として認められるよう奔走した。

安政5年4月24日1858年6月5日)には洪庵の天然痘予防の活動を江戸幕府が公認し、牛痘種痘を免許制とした。
人物
  • 洪庵の功績として最も有名なのが、適塾から福澤諭吉大鳥圭介橋本左内大村益次郎長与専斎佐野常民高松凌雲など幕末から明治維新にかけて活躍した多くの人材を輩出したことである
  • 日本最初の病理学書『病学通論』を著した(1847年刊行開始、1857年刊行完)。種痘を広め、天然痘の予防に尽力。なお、自身も文化14年(1817年)、8歳のときに天然痘にかかっている。安政5年(1858年)のコレラ流行に際しては、西洋の医書を参考に『虎狼痢治準』と題した治療手引き書を5、6日で書き上げて出版し、医師らに100冊を無料配布[5]するなど、日本医学の近代化に努めた
  • 人柄は温厚でおよそ人を怒ったことがなかったという。福澤諭吉は「先生の平生、温厚篤実、客に接するにも門生を率いるにも諄々として応対倦まず、誠に類い稀れなる高徳の君子なり」と評している[6]。学習態度には厳格な姿勢で臨み、しばしば塾生を叱責した。ただし決して声を荒らげるのでなく笑顔で教え諭すやり方で、これはかえって塾生を緊張させ「先生の微笑んだ時のほうが怖い」と塾生に言わしめるほど効き目があった。
  • 語学力も抜群で弟子から「メース」(オランダ語の「meester」=先生の意味から)と呼ばれ敬愛された。諭吉は洪庵のオランダ語原書講読を聞いて「その緻密なること、その放胆なること実に蘭学界の一大家、名実共に違わぬ大人物であると感心したことは毎度の事で、講義終り、塾に帰て朋友相互(あいたがい)に、「今日の先生の彼(あ)の卓説は如何(どう)だい。何だか吾々は頓(とん)に無学無識になったようだなどゝ話した」と評している[7]。原語をわかりやすく的確に翻訳したり、新しい造語を考案したりする能力に長けていたのである。洪庵はそのためには漢学の習得が不可欠と考え、息子たちにはまず漢学を学ばせた。
  • 洪庵は西洋医学を極めようとする医師としては珍しく漢方にも力を注いだ。これは患者一人一人にとって最良の処方を常に考えていたためである
  • 晩年の万延元年(1860年)には門人の箕作秋坪から高価な英蘭辞書二冊を購入し、英語学習も開始した。これは洪庵自身にとどまらず、門人や息子に英語を学ばせるのが目的であった。このように柔軟な思考は最後まで衰えなかった。
  • 洪庵の人柄や適塾での教育は優れていたものの、洪庵を敬慕する福沢の『福翁自伝』で伝えられ、さらに司馬遼太郎歴史小説で知られるようになったことで、理想化されている面があるとの指摘もある(住友史料館主席研究員海原亮の見解)[5]
  • 適塾を前身とする大阪大学では、学務情報システムに"KOAN(コーアン=洪庵)"の名が用いられている。また、卒業証書には洪庵直筆の書が用いられている。
小説漫画テレビドラマ映画
  • 洪庵と1000人の若ものたち(1963年・制作/MOMプロダクション 配給/共同映画 演 : 南原宏治)※緒方洪庵没後百年記念作品
舞台            200px-Tekijuku_01.JPG
      大阪大学 適塾記念センター  大阪市中央区北浜3丁目3-8

  • ※注:このサイトは、緒方洪庵に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝
    

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