承継
この想いでサイトは、私たちの愛する人 坂本 九(歌手)さんを記念して作成されました。

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本名:坂本 九(さかもと きゅう)
墓地永平寺別院 長谷寺(麻布大観音)(東京都港区)、日本

少年時代[編集]川崎市の荷役請負業「丸木組」の社長・坂本寛(ゆたか)と妻・いく(旧姓:大島)の第9子(後妻であった実母にとっては3番目)として誕生[1]。9番目に生まれて、そろそろ名前のネタが尽きてきたことから、「九」と命名されたという説がある。また、「九」の読みが「久」に通じるからとも言われている。

第二次世界大戦中に幼少期を送り、戦争中は母の実家のある茨城県笠間市疎開した。また川崎在住時代、一時松あきら一家が坂本家の近所に転居・在住してきた時期があり、坂本は松とよく遊んであげたりしていたとのこと。

戦争中の1943年10月26日火曜日)に発生した常磐線土浦駅列車衝突事故で川に転落し、多数の犠牲者を出した車両に、疎開のために笠間に向かっていた坂本は母と乗り合わせていた。ただ、事故の直前に他の車両に移っていたために遭難死を逃れる。成長して周囲の人々にこの一件を聞かされて知り、「笠間稲荷神社の神様が自分を救ってくれた」として、終生信仰していたという。後には、この笠間稲荷神社で結婚式を挙げる[1]。そして、日航機事故で命を落とした時にも、笠間稲荷のペンダントが遺体の身元を特定する決め手となった[注 2]
1958年5月日本大学高等学校[注 3]在学中にバンド・ボーイを経て、当時ロカビリーバンドとして活動していた井上ひろしとザ・ドリフターズ(後の桜井輝夫とザ・ドリフターズ、現在のザ・ドリフターズ)に加入[3]し、ボーカルギターを担当。8月26日にはロカビリー歌手として第3回日劇ウエスタンカーニバルに初出演し、新人賞を受賞する[1]。 
無名時代、平尾昌章ミッキー・カーチス山下敬二郎などが出演した、日劇ウエスタンカーニバルに事務所の意向を無視して無理やり出演。バックでギターを弾いていたが、当初は知られることがなかったがのちに上記の新人賞を受賞している。

ダニー飯田とパラダイス・キング加入でヒットしてテレビに出る以前のライブ時代の九は、新品のギターを叩き壊すなどのパフォーマンスもする、パワフルでワイルドなロックン・ロールスタイルだった。
ソロ転向、世界的スターに[編集]1960年7月に、東芝音楽工業(後の東芝EMI。東芝レコードレーベル)に移籍。同年8月に、移籍後第1弾シングルとして発売した「悲しき六十才」[1]が10万枚[5]を売り上げ、初ヒットとなった。

1961年10月15日リリースの「上を向いて歩こう[1]は日本国外でも大ヒットし、作詞の永六輔、作曲の中村八大と合わせて六八九トリオと呼ばれた。中でも1963年には、SUKIYAKIと題してアメリカでもっとも権威のあるヒットチャート誌『ビルボード』の "Billboard Hot 100" で、3週連続1位を獲得、キャッシュボックス(Cash Box)誌でも4週連続1位を獲得。 Billboard Hot 100で1位を獲得した日本出身者は2020年9月現在、坂本だけである。この曲は後に英語歌詞が付いたが、1位を獲得したのは坂本の歌う日本語版であり、その点でもこれまで唯一の例である。
また、この「
上を向いて歩こう」は1964年に米国内でのレコード累計販売枚数が100万枚を超えたため坂本は日本人初の「ゴールドディスク」を受賞した[1][7]

スウェーデンのトーク番組でインタビューをする坂本(1964年10月)
「上を向いて歩こう」の世界でのヒットにより世界的に名前が知られたことで、国際的な活動も多かった。1964年第18回オリンピック東京大会のウェルカムパーティーにゲスト出演し、「サヨナラ東京」「君が好き」を歌った。

資金難だった東京パラリンピックチャリティコンサートで寄付金支援した。

1970年日本万国博覧会で若手芸能人の万国博委員に起用される[1]。さらに、読売テレビクイズEXPO'70』の司会にも起用された。
また、「あゆみの箱」運動[1]手話を広げる運動、障碍者福祉関係の慈善活動に積極的に参加していた。

1971年12月8日水曜日)に女優の柏木由紀子と結婚[1]

「上を向いて歩こう」がヒットする最中、夕張市を中心に当時流行していた小児麻痺の為の「チャリティーショー」が1962年から札幌テレビ放送主催の下、札幌市で開かれ、坂本は無報酬で出演した。以来、毎年10年間北海道でチャリティーショーを続け、それをきっかけに1976年札幌テレビ放送制作の福祉番組「ふれあい広場・サンデー九」に取り組む[1]。月に2回北海道の施設を取材し番組は作られた。この番組は急逝まで9年間、日曜朝9時から30分間放送された。番組の中、コンサートでも披露されたが、日本初の手話の歌「そして想い出」を1979年発表。全国ろうあ者大会で披露した。
大阪府在住で自身の元マネージャーの1985年9月9日実施予定の羽曳野市議会議員選挙に応援として翌13日に行われる事務所開きに駆けつける途中[10]日本航空123便墜落事故に巻き込まれ死去。43歳没。坂本は本来、国内移動には日本航空 (JAL) ではなく必ず全日空 (ANA) を使っており、所属プロダクションや妻の由紀子も「手配は必ず全日空で」と指定していたほどだった[注 7]

しかし、当日は全日空便が満席で、飛行機やホテルなどを手配した招待側の側近はチケットを確保できず、仕方なく確保したのが日本航空123便であった[注 8][10]。坂本と親交があったプロボウラーの矢島純一は事故の1週間前に坂本の家でこの件を知らされ、全日空に変える事を勧めたが、坂本は「せっかく送ってもらったから」と言って変えなかったという[13]。 事故の数日前、「全日空が満席で日航しか取れませんでした」という立候補者の側近からの謝りの電話が入っていたが、当時電話を受け取った由紀子は忙しく、また勘違いをしていたこともあり、事故が起こるまで特に気に留めていなかった[14][要出典]。そのため、家族も乗客名簿が発表されるまで日航機に乗っているはずがないと信じていた。しかし、乗客名簿の中に「オオシマ・ヒサシ」と「コミヤ・カツヒロ」(小宮勝廣、坂本が所属するマナセプロダクションのマネージャー)の名が記載されており、事故に遭遇したことは否定できない事実となった。この事故で運命を共にした小宮は早めに羽田空港へ行き、全日空便への振替を何度も交渉したが、盆という時節柄叶わず、やむを得ずこの事故機に乗ったという。

坂本、そして小宮の両名は、政治家や著名人が利用することの多いボーイング747SR-100の2階席、右列の前方から4番目(64列)に搭乗していた[15]。坂本は、ハンティングワールドのボストンバッグを機内に持ち込んでおり、墜落現場で発見・回収された。その中に録音機能付きのウォークマンSONY製WM-F85)が入っていたため、家族は遺言が残っていないかと期待したが、当時頻繁に聞いていた楽曲「We are the world」が入っていただけで、遺言らしきものは何も録音されていなかった[14][要出典]。
坂本九の代表曲
  上を向いて歩こう涙がこぼれないように 泣きながら歩く 一人ぼっちの夜                                見上げてごらん夜の星を小さな星の 小さな光が ささやかな幸せを うたってる                  明日があるさ明日があるさ 明日がある 若い僕には 夢がある                                                 レットキス(ジェンカ)フィンランド発のダンス音楽を坂本九がカバー                                     幸せなら手をたたこう東京オリンピックの1964年に坂本九の歌でヒット                                  心の瞳今日では中学生の合唱曲として親しまれる坂本九の代表曲

         記念館
      坂本九 思い出記念館  北海道夕張郡栗山町大井分256番地の21

  • ※注:このサイトは、坂本九に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝
 






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