承継
この追悼サイトは、 松本 零士(漫画家)さまのために作成されました。

享年85歳 、誕生日 1938年1月25日、命日 2023年2月13日
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松本 零士(まつもと れいじ、Leiji Matsumoto男性1938年昭和13年〉1月25日 - 2023年令和5年〉2月13日[1])は、日本漫画家。本名:松本 晟(まつもと あきら)[2]。代表作に『男おいどん』『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』など。

福岡県久留米市生まれ[3]東京都練馬区在住。血液型B型宝塚大学特任教授京都産業大学客員教授デジタルハリウッド大学特任教授を歴任。正六位旭日小綬章紫綬褒章フランス芸術文化勲章シュバリエ受章。称号練馬区名誉区民

妻は同じく漫画家の牧美也子早稲田大学大学院名誉教授で元三菱重工業長崎研究所主管の松本將は実弟。

一般的にSF漫画作家として知られるが、少女漫画、戦争もの、動物ものなど様々なジャンルの漫画を描いている。アニメ製作にも積極的に関わり、1970年代半ばから1980年代にかけては『宇宙戦艦ヤマト』や『銀河鉄道999』が映画化されて大ヒットするなど、松本アニメブームを巻き起こした[3]

高校卒業後の1957年(昭和32年)、毎日新聞西部本社版で連載をするはずだったが急に担当者が代わりその話は反故にされる[注釈 4]。しかし月刊少女雑誌『少女』での連載が決定して上京[注釈 5]本郷三丁目の四畳半の下宿で仕事を始め、しばらくは貧乏暮らしが続いたが、この飢餓感が漫画を描く上でのエネルギーになったという[3]。『少女』と『少女クラブ』に不定期で描く少女漫画家で出発、少女漫画においてスランプに至った頃にはライターとしてタレントの取材などを手がけ、その後1960年前後から少年誌、青年誌にも進出。デビュー時は「松本あきら」名義を使用しており、「松本零士」を使うようになったのは1965年以降である(後述)。

上京後に漫画家の牧美也子と出会い、1962年(昭和37年)に結婚して翌年夫婦で練馬区に移り住んだ[14][3]

少年時代から海野十三H・G・ウェルズSF小説を愛読して育ったため、SF漫画などを好んで描いていたが、不人気で打ち切りも多く、出世作となったのは1971年(昭和46年)から『週刊少年マガジン』に連載した『男おいどん』である。同作は人気となり、1972年講談社出版文化賞受賞。松本ならではの「四畳半もの」という独自のジャンルを開拓した。

1974年(昭和49年)秋から放送されたテレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』には企画途中から参加(詳細は宇宙戦艦ヤマト#制作の経緯を参照)。メカニックデザイナーとしての招聘だったが、かねてからアニメ作りを願望していた松本は全面的に携わった。本放送時には低視聴率に終わったものの、再放送によって人気を得、1977年(昭和52年)の劇場版アニメ公開時には社会現象を巻き起こした。

これがアニメブームのきっかけとなり、松本はアニメ制作会社の東映動画にイメージクリエイターとして起用され、テレビアニメ『惑星ロボ ダンガードA』『SF西遊記スタージンガー』にデザインを提供。また、自らも企画として温めていた『銀河鉄道999』『宇宙海賊キャプテンハーロック』がヤマト人気によりアニメ化が決定され、特に『銀河鉄道999』は大ヒットし、松本零士ブームが到来。以降数々の松本アニメが作られた。

人物[編集]
  • 石ノ森章太郎と同じ年月日に生まれる[8]。二人は同時期に練馬区に在住し、同時期に手塚治虫のアシスタントを務めたことがあり、松本は石ノ森のことを「旧友」としている。
  • 大戦後半、父親は第32教育飛行隊1944年2月編成)の隊長として、特別操縦見習士官少年飛行兵出身の新参パイロットの教育を行っていたが、課程を終え実戦部隊に転出した部下には後に特別攻撃隊の隊員として出撃していった者も少なくなかった。末期には二式複座戦闘機「屠龍」[25] に搭乗し、終戦の日まで連合軍と戦っていた。戦後、多くの元軍人パイロットが自衛隊入りしたのに対し、「敵の戦闘機には乗れない」と断固拒否。実家がある大平村での焼きや、小倉野菜の行商をしながら線路脇のバラックに住み、その境遇を自ら進んで赤貧へと落としたが、家族で父に反対する者はおらず零士少年も「俺の父親は最高だ、父親と一緒にいられれば俺は満足」と行商の大八車を押したという。この「本当のサムライとしての父のイメージ」は、後にハーロック沖田十三のモデルとして、松本の作品に生かされていった。また松本自身、進駐軍兵士がばら撒くキャンディーなどを「食べたくて仕方なかったが全部下駄で踏みつけて潰した」という。
  • 母親は元教師で、子供の宿題に適切な添削までしてくれたという。これについて、子供のころは、大人だからできるのだと思っていたが、後から考えるとなかなかできないことだったと気づいたという。恵まれた家庭に育ち、高等女学校まで出ている母が夫の意地のために、周囲の嘲笑に歯を食いしばって耐えながら働いている姿を見て育った。松本は物心ついた頃から「母を苦労から救いたい。自分が大黒柱になって一家を養う」と心に決めたという。高校時代に漫画家デビューが叶ったこともあり、自身は大学進学の夢を封印して働き、代わりに兄弟には大学進学を考えた時に躊躇わずにすむ経済環境を整えようと決意した[26]
  • 漫画執筆時は、いつも夜の8時から翌明け方6時くらいまで作業を行っていた[3]。本人は色々な作品を通じて、命の大切さや幸せとは何かを問いかけた[3]
テレビアニメ[編集]
映画[編集]
受賞・受章歴[編集]          北九州市漫画ミュージアムで松本零士さんのインタビュー動画を ...
 福岡県北九州市小倉北区浅野2-14-5  北九州市漫画ミュージアム 電話:093-512-5077
f:id:mocharina09:20191003224353j:image
銀河鉄道999

※注:このサイトは、松本零士に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝

このメッセージは、 2023年7月9日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
今日のアニメブームのキッカケを創り、少年少女に宇宙への夢を与え続けた功績は多大なものである。 沢山の作品を有難う!           合掌

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メッセージ
このメッセージは、 2023年7月9日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
今日のアニメブームのキッカケを創り、少年少女に宇宙への夢を与え続けた功績は多大なものである。 沢山の作品を有難う!           合掌
軌跡

(漫画家を志したキッカケ)

終戦後、小学校三年から福岡県小倉市(現・北九州市)に移る[9]。小倉市立米町小学校(現・北九州市立小倉中央小学校)のときから漫画少年で、高井研一郎らと同人グループ「九州漫画研究会」を結成し、同人誌「九州漫画展」を主宰。 松本が漫画家を志した理由は彼が小学二・三年の頃にあった学級文庫である。それは手塚治虫の漫画『新宝島』『キングコング』『火星博士』『月世界紳士』であった。[12] 小倉市立菊陵中学校(現・北九州市立菊陵中学校)に進学。

(生い立ち)

父親である松本強[注釈 1] は、一兵卒として大日本帝国陸軍に入営し、厳しい選抜を経て将校に抜擢された人であり(陸軍少尉候補者 第10期、最終階級は陸軍少佐)、また陸軍航空隊の古参の空中勤務者(パイロット)であった。

第二次世界大戦中、零士の父がテストパイロットをやっていた関係で、幼少期の一時期(1940年頃)、陸軍各務原飛行場がある現在の岐阜県各務原市に住み[6][7][注釈 2]、4歳から6歳まで兵庫県明石市川崎航空機の社宅に住んでいた[8][9]。その後は、母親の実家がある愛媛県喜多郡新谷村(現在の大洲市新谷町)に疎開していた[8][10](両親共に大洲市の出身である

(ペンネームの由来)

デビューから1968年までは本名のひらがな表記である松本 あきらペンネームを使用。松本零士名義は1965年から松本あきら名義と並行して使い始め、1968年に松本零士にペンネームを一本化した。ペンネームの由来は、“零歳児の感性をいつまでも忘れずに”というモットー、夜半―午前零時を過ぎないとアイデアが浮かばない事が度々あった事、“毎日夜零時まで働く士(サムライ)”から。

2008年5月に北九州で行われた『毎日フォーラム』では“零士の零は無限大の「れい」、士は「さむらい」、また本名である「あきら」とも読む”と語った。

零士をローマ字で表記する場合、Reijiとはせず、Leijiとする。RでなくLを使っているのは、少年時代に愛読していた山川惣治絵物語『少年王者』に登場する悪役ライオン「ライオンL」が強くて逞しかったことから[4]