承継
この追悼サイトは、 長谷川 町子(日本初の女性プロ漫画家「サザエさん」で有名)さまのために作成されました。

享年72歳 、誕生日 1920年1月30日、命日 1992年5月27日
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長谷川 町子(はせがわ まちこ、1920年大正9年)1月30日 - 1992年平成4年)5月27日)は、日本の女性漫画家。日本初の女性プロ漫画家[1]。代表作に『サザエさん』・『いじわるばあさん』・『エプロンおばさん』など。

小学校卒業後は旧制福岡県立福岡高等女学校(現在の福岡県立福岡中央高等学校)に2年生の1933年昭和8年)まで在籍。同年3月父・勇吉が肺炎から膿胸を併発し、5年間の闘病生活の末亡くなる[7]。町子の父への思い入れは深く「ハンサムで、素敵な紳士」だったと語っている[8]。一方で「短気な性格を娘達が受け継いだ」と振り返る[2]。父の死から一年後の1934年(昭和9年)、娘たちを東京で教育を受けさせたい、という母の貞子の意向で14歳の時に一家揃って上京[9]。私立山脇高等女学校の3年生に編入[1]。同校は「お嬢様学校」のため、方言やお行儀の違いを周囲から奇異の目で見られ[4][10]、腕白な性格から内向的な性格になった。娘の変化に貞子は心痛めていたという[10]

初期の活動[編集]200px-Machiko_Hasegawa_Girlhood.jpg15歳でデビューを果たした「天才少女」長谷川町子(『少女倶楽部』1935年10月号』)当時漫画『のらくろ』が一世を風靡しており[1]、「(原作者の)田河水泡の弟子になりたい」という町子の独り言に姉と母は奔走、山脇高女在学中に田河水泡に師事する[11][12]。その後、田河の引き立てにより『少女倶楽部1935年10月号に掲載された見開き2ページの『狸の面』で漫画家デビューする。「天才少女」と題したグラビアも同時に掲載された[13][14][15]。田河夫妻に子供がなかったことから[1]、内弟子として田河家で生活するが、ホームシックになり11カ月で出戻る[16]

1939年に初連載作品となった『ヒィフゥみよチャン』で漫画家としての地位を確立。1940年からは、3人の女学生を描いた『仲よし手帖』という人気連載を持っていた(1942年まで少女倶楽部に連載、戦後は少女にて1949年から1951年まで連載[17])。

1946年12月に家族4人で出版社「姉妹社」を設立[1]。翌年の1947年1月1日、『サザエさん』第1巻を出版する(定価12円)[26][27]1947年1月3日、夕刊フクニチへの連載を再開している[28]。連載を再開する際、打ち切り直前に登場させたマスオの顔を作者本人が忘れていて、西日本新聞社東京支局まで行き確認している。さらに地方紙にも掲載されるようになる[29]

第1巻は初版2万部を日本出版配給(日配)に持ち込むと全て引き取ってくれたため、毬子は重版をかけさらに2万部を刷った[30]。しかしB5判の横綴じという第1巻の形状が書店に並べにくいと不評で、長谷川家は返品に占拠される事態となった。しかし、母の貞子が「次はB6判で出せば良い」と励まし、知り合いの出版関係者から借り入れた資金で『サザエさん』第2巻を出版。これが1か月に17万部も売れるベストセラーになる[31]。B5判の第1巻も書店からの注文がくるようになり、返品は全て引き取られた[32][33][34]。以降、『サザエさん』の第1巻はB6判に改訂されて再出版され、姉妹社で全68巻が刊行された。

1948年11月21日より『サザエさん』の連載先を新夕刊に移す[28]と、磯野家も東京を舞台として描くようになる[35]

1949年朝日新聞社が創刊した夕刊朝日新聞に『サザエさん』の連載の場を移し、週刊朝日に連載していた『似たもの一家』を打ち切る[36]1951年から『ブロンディ』の後を承けて朝日新聞の朝刊を飾り[37]新聞4コマ漫画の第一人者となる。この頃になるとファンレターも来るようになったという[38]。同漫画は後に何度か中断期間を挟みつつ1974年(昭和49年)まで連載された。

「ヒューマニズムに飽きていた」[40]町子は、1966年からブラックユーモア路線の『いじわるばあさん』の連載を開始する。善良なキャラクターの作品と違い、『いじわるばあさん』は自分の地のままでいいから気楽に描けるという[42]。主人公のおばあさんは、町子自身の性格をモデルにしたとの説もある[1]

1967年、47歳の時に胃潰瘍になり、胃の5分の4を摘出した。実際は胃潰瘍でなく胃癌であったが、妹・洋子が癌で夭折していることを知っていた町子は「癌になったら自殺する」と周囲に述べていたため、家族は胃潰瘍で貫き通した[43]。胃癌だった事実は町子に生涯知らされることはなかった。これを機に家族は漫画執筆をやめさせようとするが、主治医の中山恒明に説諭され、渋々執筆協力を再開する

1983年(昭和58年)の春の園遊会に招待され、その席で昭和天皇と会話している[1]

1985年(昭和60年)東京都世田谷区桜新町に「長谷川美術館」を建て、初代館長を務めた[1]。本館は町子の没後、現名称である「長谷川町子美術館」に変更された。

1990年平成2年)4月、勲四等宝冠章を受章。1991年(平成3年)には日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞。
1992年7月28日 長谷川町子さん、国民栄誉賞を受賞

1992年(平成4年)5月27日、死去。享年73(満72歳没)。当時の報道では「自宅の高窓を閉めようとして机から落ち全身を打撲、打撲の痛みで体調を崩し、通院治療を受けていた。徐々にろれつが回らなくなり、食欲がなくなるなど衰弱した末、死去の前日にはほとんど食事をとらず、翌朝までに息を引き取っていた」という

仕事のやり方[編集]町子はアシスタントなしで1人で作品を書き続けた。上京後は毎日自宅2階の書斎で『サザエさん』の原稿を4案ほど執筆した後、その中から一番気に入ったものを1つを選んだ。夕方4時にやってくる朝日新聞のバイク便に、選んだ原稿を渡すという日々を送った[1]

長谷川町子美術館の学芸員によると「長谷川は漫画のアイディアを日常の中から得ていました。彼女は家の中での家族とのやり取りや、時々外出した時に目にするもの全てがアイディアのヒントとなっていました。長谷川は日常の中のちょっとした笑いに対する鋭い観察眼と、それを漫画に昇華する表現力を持ち合わせていたのです」と評している[1]

アニメ化作品[編集]映画化作品[編集]
  • 「サザエさん 七転八起の巻」(1948年) - 1948年から1950年にかけて、マキノ映画及び大映により全3作製作される。
  • サザエさん」(1956年) - 1956年から1961年にかけて、東宝及び宝塚映像に全10作製作される。
詳しくはサザエさん#映画を参照。

テレビドラマ化作品[編集]長谷川町子記念館

画像
      東京都世田谷区桜新町1-30-6  電話 03-3701-8766

       <長谷川町子記念館は、美術館の向かい側に有る>

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このメッセージは、 2024年3月22日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
15歳でデビューを果たした天才少女は、日本初の女性プロ漫画家として国民的作家となりました。 その作品からヒユーマ二ズムを学んだ人も数え切れないでしょう!  いつまでも忘れません。     合掌

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メッセージ
このメッセージは、 2024年3月22日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
15歳でデビューを果たした天才少女は、日本初の女性プロ漫画家として国民的作家となりました。 その作品からヒユーマ二ズムを学んだ人も数え切れないでしょう!  いつまでも忘れません。     合掌
軌跡

(生い立ち)

佐賀県小城郡東多久村(現・多久市)で父・勇吉と母・貞子との間の3人姉妹の次女として生まれる。実際は姉との間に夭折した2番目の姉がおり、戸籍上は4姉妹の三女になる。当時、多久で操業していた三菱炭坑の技師であった勇吉が独立、ワイヤーロープの事業開業[2]に伴い福岡県福岡市春吉(現在の同市中央区)に転居春吉尋常小学校に小学1年生から通った。
報告

(エピソード)

イーライフ宇崎勝さんが2024年3月22日に投稿
上京後の住まいは世田谷区用賀2丁目にあった(現在もそこに長谷川家がある)。毬子の夫が戦死した後、1961年に洋子が夫を亡くしたことをきっかけに、洋子家族が暮らす離れを母屋まで移動して連結した[68]。それ以降は町子・母・毬子・洋子・洋子の娘2人(隆子と彩子〈さいこ〉)・家政婦という計7人の女性が一つ屋根で生活した[1]

東京の男性と結婚したいと考えていた時期、好みをいくつか挙げており[69]、容姿にはこだわらなかったが[70]、生涯独身だった。洋子が2008年に出版した回想録『サザエさんの東京物語』によれば、何度かお見合いをしており、一度は婚約までいったが後日破棄した[1]。その理由について、夫や子供の世話で一生を送るなんて我慢できない、と妹に述べている[42]。一時期は子供が欲しかったが、姪ができて母性本能が満たされたという

(エピソード)

イーライフ宇崎勝さんが2024年3月22日に投稿
当初は聖公会クリスチャン。父の病気を機に家族で入信した。母のような熱心な信徒ではなかった町子が、日曜日に里帰りする口実として「礼拝したい」と言い出したところ、田河水泡夫妻に付き添われて隣のメソジスト教会に通う羽目となった。のちに、付き添った夫妻の方が熱心なクリスチャンになった[64]

戦後は母の影響から妹や母とともに無教会主義の集会に参加するようになり[65]、集会で講義をしていた矢内原忠雄と母が交友関係を持つようになった[注 7]。矢内原から海外探訪の誘いがあった時には畏敬のあまり反射的に断ってしまい、啓発の機会を逸したことを後に悔やんだ[66]。矢内原没後の1970年の対談では自らの宗派を「無教会派」と答えている[67]