この想いでサイトは、私たちの愛する人 遠藤 実(歌謡曲界の大作曲家)さんを記念して作成されました。
※このサイトで故人への弔意・思い出を自由に投稿することができます。
本名:遠藤 実(えんどう みのる)
墓地:総持寺(神奈川県横浜市)、日本
人物[編集]作曲家として世に送り出した楽曲は5000曲以上(その大部分は演歌)と言われ、舟木一夫、千昌夫、森昌子など多くの歌手を育てた。また、遠藤本人が作詞も併せて行った作品も一部存在する(橋幸夫、千昌夫、山本リンダ、こまどり姉妹、渥美二郎等の楽曲)。
高等小学校卒業後、14歳で日東紡績内野工場の工員となる[5]。
1948年、山乃家菊丸とコンビを組み、門付け(越後獅子等の芸を民家の軒先で披露し、金品を貰う習慣である新潟特有の演芸スタイル)芸人になる[6]。これが、後の作曲家人生に大きな影響を与えた。
1949年7月、17歳の時に上京[7]。様々な職を経て[8]、ギターを携えて流しの演歌師になる[9]。
星幸男のペンネームで作曲した「酒場の女」が[10]、1952年、日本マーキュリーより「破れソフトのギター流し」(作詞:松村又一、歌:藤島桓夫)のタイトルで発売され作曲家としてデビュー[11]。発売当初、作曲者名は「清水網雄」とされていたが、遠藤が友人に自作曲を「自分が書いたことにして出せよ」と渡したらその曲が採用され、そのまま友人の作曲として世に出てしまったという[11]。後に作曲者名は「星幸男」に訂正されている。
その後日本マーキュリーの専属作曲家となる[12]。1957年、日本マーキュリーより発売された「お月さん今晩わ」(作詞:松村又一、歌:藤島桓夫)がヒット[13]。1958年、日本コロムビアから「からたち日記」(作詞:西沢爽、歌:島倉千代子)を発表し大ヒット[14]。その後日本コロムビア専属になる[15]。
1965年3月、日本コロムビアとの契約を解く[16]。同年、島倉千代子らのパトロンだった中山幸市(太平住宅創業者)の出資による太平音響株式会社の設立に加わり専務取締役となり[17]、1966年には自叙伝『太陽も笑っている』が映画化、『太陽に突っ走れ』 (主演:千葉真一) のタイトルで東映から製作配給された。
1968年に中山幸市が死去すると、太平音響の2代目社長に就任し[18]、社名をレーベル名と同名のミノルフォンに改名する。先に創業した日本クラウンに続き、自前のプレス工場を持たず制作とプロモーションに特化して、アーティスト主導の運営を打ち出した新業態レコード会社の嚆矢の一社だった。1970年5月に社長を辞任[19]。その後、1972年に徳間康快(徳間書店)に買収され徳間音楽工業と改称、さらに系列レーベルの別会社ジャパンレコードと合併して徳間ジャパン(現:徳間ジャパンコミュニケーションズ)に改組した。
1988年4月、ハワイで心臓のバイパス手術を受ける[20]。当初発案していた「日本音楽作家協会」設立に関する諸々を、発案仲間で業界の重鎮である作詞家松井由利夫・石本美由紀、猪俣公章、弟子である冬樹かずみ等に前もって依頼した経緯がある。この時の呼びかけにより、三木たかし等も賛同した。翌1989年、テレビ朝日で『玉置宏の歌謡日本』が日本音楽作家教会の協賛で放送開始。病中ながら関連資料の監修等積極的な音楽活動に貢献。
1994年、新潟県西蒲原郡巻町(現在の新潟市西蒲区)に遠藤実記念館「実唱館」がオープンした[21]。
2002年、勲三等旭日中綬章受章[22]。2003年、歌謡界から初めて文化功労者に選出された。
2008年12月6日10時54分、急性心筋梗塞のため東京都内の病院で死去。76歳没。
2008年12月19日、日本国政府は遠藤に対し、数々の楽曲で大衆音楽発展に尽くした遠藤の功績を讃え、死去した12月6日付で正四位に叙し、旭日重光章を授与することを決めた。更に2008年12月26日の閣議に於いて、2009年1月23日に国民栄誉賞を授与することを正式決定した[23]。国民栄誉賞の受賞は陸上選手の高橋尚子以来8年ぶり16人目の受賞で、作曲家では古賀政男、服部良一、吉田正に次いで4人目の受賞者でもあった。
主な作品[編集]
遠藤実記念館実唱館 新潟県新潟市西蒲区越前浜6913-1
※このサイトで故人への弔意・思い出を自由に投稿することができます。
本名:遠藤 実(えんどう みのる)
墓地:総持寺(神奈川県横浜市)、日本
人物[編集]作曲家として世に送り出した楽曲は5000曲以上(その大部分は演歌)と言われ、舟木一夫、千昌夫、森昌子など多くの歌手を育てた。また、遠藤本人が作詞も併せて行った作品も一部存在する(橋幸夫、千昌夫、山本リンダ、こまどり姉妹、渥美二郎等の楽曲)。
高等小学校卒業後、14歳で日東紡績内野工場の工員となる[5]。
1948年、山乃家菊丸とコンビを組み、門付け(越後獅子等の芸を民家の軒先で披露し、金品を貰う習慣である新潟特有の演芸スタイル)芸人になる[6]。これが、後の作曲家人生に大きな影響を与えた。
1949年7月、17歳の時に上京[7]。様々な職を経て[8]、ギターを携えて流しの演歌師になる[9]。
星幸男のペンネームで作曲した「酒場の女」が[10]、1952年、日本マーキュリーより「破れソフトのギター流し」(作詞:松村又一、歌:藤島桓夫)のタイトルで発売され作曲家としてデビュー[11]。発売当初、作曲者名は「清水網雄」とされていたが、遠藤が友人に自作曲を「自分が書いたことにして出せよ」と渡したらその曲が採用され、そのまま友人の作曲として世に出てしまったという[11]。後に作曲者名は「星幸男」に訂正されている。
その後日本マーキュリーの専属作曲家となる[12]。1957年、日本マーキュリーより発売された「お月さん今晩わ」(作詞:松村又一、歌:藤島桓夫)がヒット[13]。1958年、日本コロムビアから「からたち日記」(作詞:西沢爽、歌:島倉千代子)を発表し大ヒット[14]。その後日本コロムビア専属になる[15]。
1965年3月、日本コロムビアとの契約を解く[16]。同年、島倉千代子らのパトロンだった中山幸市(太平住宅創業者)の出資による太平音響株式会社の設立に加わり専務取締役となり[17]、1966年には自叙伝『太陽も笑っている』が映画化、『太陽に突っ走れ』 (主演:千葉真一) のタイトルで東映から製作配給された。
1968年に中山幸市が死去すると、太平音響の2代目社長に就任し[18]、社名をレーベル名と同名のミノルフォンに改名する。先に創業した日本クラウンに続き、自前のプレス工場を持たず制作とプロモーションに特化して、アーティスト主導の運営を打ち出した新業態レコード会社の嚆矢の一社だった。1970年5月に社長を辞任[19]。その後、1972年に徳間康快(徳間書店)に買収され徳間音楽工業と改称、さらに系列レーベルの別会社ジャパンレコードと合併して徳間ジャパン(現:徳間ジャパンコミュニケーションズ)に改組した。
1988年4月、ハワイで心臓のバイパス手術を受ける[20]。当初発案していた「日本音楽作家協会」設立に関する諸々を、発案仲間で業界の重鎮である作詞家松井由利夫・石本美由紀、猪俣公章、弟子である冬樹かずみ等に前もって依頼した経緯がある。この時の呼びかけにより、三木たかし等も賛同した。翌1989年、テレビ朝日で『玉置宏の歌謡日本』が日本音楽作家教会の協賛で放送開始。病中ながら関連資料の監修等積極的な音楽活動に貢献。
1994年、新潟県西蒲原郡巻町(現在の新潟市西蒲区)に遠藤実記念館「実唱館」がオープンした[21]。
2002年、勲三等旭日中綬章受章[22]。2003年、歌謡界から初めて文化功労者に選出された。
2008年12月6日10時54分、急性心筋梗塞のため東京都内の病院で死去。76歳没。
2008年12月19日、日本国政府は遠藤に対し、数々の楽曲で大衆音楽発展に尽くした遠藤の功績を讃え、死去した12月6日付で正四位に叙し、旭日重光章を授与することを決めた。更に2008年12月26日の閣議に於いて、2009年1月23日に国民栄誉賞を授与することを正式決定した[23]。国民栄誉賞の受賞は陸上選手の高橋尚子以来8年ぶり16人目の受賞で、作曲家では古賀政男、服部良一、吉田正に次いで4人目の受賞者でもあった。
主な作品[編集]
- 破れソフトのギター流し(藤島桓夫、1952年) ※作曲者名義は「星幸男」
- お月さん今晩わ (藤島桓夫、1957年4月)
- からたち日記 (島倉千代子、1958年11月)
- おもいで日記 (島倉千代子、1959年7月)
- 浅草姉妹 (こまどり姉妹、1959年11月)
- アキラのズンドコ節 (小林旭、1960年)
- 初恋マドロス(美空ひばり、1960年)
- ソーラン渡り鳥 (こまどり姉妹、1961年5月)
- おひまなら来てね (五月みどり、1961年5月)
- 襟裳岬 (島倉千代子、1961年6月)
- 若いふたり (北原謙二、1962年8月)
- 一週間に十日来い (五月みどり、1962年11月)
- 高校三年生 (舟木一夫、1963年7月)
- ギター仁義 (北島三郎、1963年8月)
- 修学旅行 (舟木一夫、1963年9月)
- 学園広場 (舟木一夫、1963年10月)
- 哀愁出船 (美空ひばり、1963年)
- 仲間たち (舟木一夫、1963年12月)
- 君たちがいて僕がいた (舟木一夫、1964年5月)
- 青春の城下町 (梶光夫、1964年)
- 他人船 (三船和子、1965年) ※作詞も遠藤
- 星影のワルツ (千昌夫、1966年3月)
- 太陽も笑っている (千葉真一、1966年9月)
- 妻に捧げる歌 (千葉真一、1966年9月)
- こまっちゃうナ (山本リンダ、1966年11月) ※作詞も遠藤
- 新宿そだち (大木英夫・津山洋子、1967年10月)
- ついてくるかい (小林旭、1971年4月)
- 純子 (小林旭、1971年10月)
- 長崎恋ものがたり/雪国の女(春日八郎、1972年)
- せんせい (森昌子、1972年7月)
- 旅鴉 (五木ひろし、1972年11月)
- 中学三年生 (森昌子、1973年2月)
- くちなしの花 (渡哲也、1973年8月)
- 白樺日記 (森昌子、1973年8月)
- おかあさん (森昌子、1974年8月)
- みちづれ (渡哲也、1975年/牧村三枝子、1978年10月)
- ひとりぼっち(美空ひばり、1975年)
- 雑草の歌(美空ひばり、1975年)
- 悲恋草/たそがれたずねびと(三橋美智也、1976年)
- すきま風 (杉良太郎、1976年10月)
- 浅草人情 (橋幸夫、1977年2月)※作詞も遠藤
- 北国の春 (千昌夫、1977年4月)
- ひとり (渡哲也、1977年4月)
- 江戸の黒豹 (杉良太郎、1977年)
- 夢追い酒 (渥美二郎、1978年)
- 哀愁列島 (小林旭、1979年2月)
- 秋田旅愁 (順弘子 1979年8月)
- 大東京音頭 (橋幸夫・金沢明子/三波春夫/三橋美智也・藤野とし恵 ほかによる競作、1979年)
- 街のコスモス(橋幸夫、1979年9月)
- 合唱交響曲「般若心経の響き」(ロイヤルナイツミンツ・東京荒川少年少女合唱団、1979年)
- 君は人のために死ねるか (杉良太郎、『大捜査線』主題歌、1980年)
- ふたりの坂道(春日八郎、1981年)
- 南風 (小柳ルミ子、1981年)
- 冬支度 (牧村三枝子、1984年)
- 昭和流れうた (森進一、1985年4月)
- 愛しても今は他人 (八代亜紀、1985年4月)
- ときめきワルツ (山川豊、1986年2月)
- 昭和川 (順弘子、1987年2月)
- 雪椿 (小林幸子、1987年6月)
- 再会物語 (里見浩太朗、1988年12月)
- 荒野をひとり(橋幸夫、1990年3月)※c/wの「母」は橋夫人の詩に遠藤が作曲
- 火の酒 (島倉千代子、1996年1月)
- 歌 (橋幸夫、1999年4月)※作詞も遠藤
- 季節の中で (三ツ木清隆、2010年11月) etc.
遠藤実記念館実唱館 新潟県新潟市西蒲区越前浜6913-1
- ※注:このサイトは、遠藤実に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
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