承継
この追悼サイトは、 さくら ももこ(漫画家・エッセイスト・作詞家)さまのために作成されました。

享年53歳 、誕生日 1965年5月8日、命日 2018年8月15日
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さくら ももこ1965年昭和40年〉5月8日 - 2018年平成30年〉8月15日[1])は、日本漫画家エッセイスト作詞家脚本家。また、自身の少女時代をモデルとした代表作のコミック『ちびまる子ちゃん』の主人公の名前でもある(詳細は「ちびまる子ちゃんの登場人物#さくら ももこ(まる子)」を参照)。

静岡県清水市(現・静岡市清水区)の旧入江町地域出身。身長159 cm。血液型A型。二男の母。

代表作のコミック『ちびまる子ちゃん』の単行本の売上は累計3000万部を超える。また、エッセイストとしても独特の視点と語り口で人気が高く、初期エッセイ集三部作『もものかんづめ』『さるのこしかけ』『たいのおかしら』はいずれもミリオンセラーを記録。

生い立ち[編集]
  • 1965年5月8日、静岡県清水市(現・静岡県静岡市清水区)に八百屋の二女(第2子)として生まれる。
  • 1978年 - 清水市立(当時)入江小学校卒業。1年生のときに、生涯の親友となる穂波珠絵[2](愛称たまちゃん、『ちびまる子ちゃん』の穂波たまえのモデル)と出会い、親睦を深めていく[3]
  • 1981年 - 清水市立(当時)第八中学校卒業。
  • 1984年 - 静岡県立清水西高等学校卒業。在学中(2年生の終わりごろから)、漫画家を目指して『りぼん』への投稿活動を開始する[4]
  • 1984年 - 静岡英和女学院短期大学(現・静岡英和学院大学短期大学部国文学科在学中に『りぼんオリジナル』冬の号(集英社)にて「教えてやるんだありがたく思え!」(「教師」をテーマとしたオムニバス作品、「ちびまる子ちゃん」第1巻に掲載)でデビュー。
  • 1986年 - 静岡英和女学院短期大学卒業、同年4月に上京しぎょうせいに入社する。しかし、勤務中に居眠りするなどして、上司から「会社を取るか、漫画を取るかどちらか選べ」と迫られ「漫画家として生活していく」と回答したため、同年5月末に入社わずか2か月で退職する[注 2]
ちびまる子ちゃんが大ヒット[編集]ちびまる子ちゃんアニメ化[編集]
  • 1990年 - 『ちびまる子ちゃん』がフジテレビ系でアニメ化され、国民的に知名度を高める1992年9月終了)。主題歌『おどるポンポコリン』の作詞で第32回日本レコード大賞を受賞1991年には西城秀樹が歌う『走れ正直者』も主題歌(第2弾)としてヒットする。1991年からは、自身もアニメ脚本を手掛ける。( - 1999年4月)。
  • 1990年 - 宮永正隆とともに、自身の創作活動のための会社「株式会社さくらプロダクション」を設立[5][6][7]。設立当初は、宮永が社長を務めた[6](1990年代後半には、さくらが社長に代わっている[8])。
  • 1991年 - 初エッセイ集『もものかんづめ』(集英社)発表。10月より宮永とともにニッポン放送オールナイトニッポン』月曜1部のパーソナリティを務める。(1992年10月まで)
  • 1992年1月2日 - ドラマ『さくら家の人びと』がNHKにて放映(脚本:東多江子[9]。事前にさくらが脚本及びキャスティング案を提出していたにも関わらず、さくら側の意向を無視して脚本の改変やキャスティングの変更が行われていたことを、2024年2月に宮永が明かしている[10]
  • 1992年9月 - 『ちびまる子ちゃん』のアニメが一旦放送終了。
  • 1992年 - 第27回新風賞受賞(『さるのこしかけ』)[11][12]
  • 1992年 - 第27回造本装填コンクール「コミックス部門」受賞(『神のちから』)[13]
  • 1994年4月 - 長男、陽一郎[16][注 3]誕生。
  • 1995年1月 - 『ちびまる子ちゃん』のアニメが放送再開(第二期)。
  • 1995年 - 第30回造本装填コンクール「日本図書館協会賞」受賞(『そういうふうにできている』)[17]
  • 1996年 - 仕事と子育ての両立が難しくなったこともあり、両親を東京に呼んで再び同居するようになる[18][注 4]
  • 1997年 - 『コジコジ』がアニメ化される( - 1999年)。自身が脚本も手掛ける( - 1999年4月)。
  • 1999年4月 - 1991年以降(『コジコジ』は1997年の放映開始時点)から継続してきた、『ちびまる子ちゃん』『コジコジ』のアニメ脚本の仕事を降板、同時に脚本監修もさくらプロダクションの多田弘子に託した。降板理由について、さくらは「毎週脚本を2本書き続けなければならない状況が窮屈になってきた」「『私の人生にはいつまでもホッとする間がないのか』と思うようになっていた」と後に自著で述べている[19]。後任の脚本家には、小学校時代の同級生である平岡秀章も名を連ねた。なお、降板後も、不定期で脚本を手掛けた[20]
  • 1999年12月 - 自ら編集長を務めた雑誌『富士山』(新潮社)の第1号が発売される。
主な作品[編集]漫画[編集]200px-Aoi_Shizuoka_Sakura-momoko_Manhole_1.jpg  200px-Shimizu_Shizuoka_Sakura-momoko_Manhole_2.jpg ちびまる子ちゃんマンホール
    2018年8月7日にさくらももこが
          静岡市に寄贈したマンホールの蓋

「さくらももこのことばと人生」  「まる子とコジコジストア」限定商品のアクリルスタンド。(c)さくらプロダクション/日本アニメーション (c)さくらプロダクション (c)さくらももこ  「まる子とコジコジストア」と「まる子とコジコジ Happy Easter Cafe」の連動企画で用意された「オリジナルホログラムステッカー」。(c)さくらプロダクション/日本アニメーション (c)さくらももこ

※注:このサイトは、さくらももこに関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝

このメッセージは、 2024年4月17日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
「ちびまる子ちゃん」はアニメ化もされて国民的に知名度を高めて大ヒットした
ほんわかとあったかい主人公に癒されたファンも多いことでしょう  合掌

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このメッセージは、 2024年4月17日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
「ちびまる子ちゃん」はアニメ化もされて国民的に知名度を高めて大ヒットした
ほんわかとあったかい主人公に癒されたファンも多いことでしょう  合掌