承継
この追悼サイトは、 中内 功(ダイエー創業者・流通革命の旗手)さまのために作成されました。

享年83歳 、誕生日 1922年8月2日、命日 2005年9月19日
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中内 㓛(なかうち いさお、1922年大正11年〉8月2日 - 2005年平成17年〉9月19日)は、日本実業家ダイエー創業者。

戦後の日本におけるスーパーマーケット (GMS) の黎明期から立ち上げに関わり、近年の消費者主体型の流通システムの構築を確立させ、日本の流通革命の旗手として大きく貢献した。

ダイエー会長・社長・グループCEOを歴任したほか、日本チェーンストア協会会長(初代、10代、14代)・名誉会長(初代)、日本経済団体連合会副会長を務めたほか、自身が設立した学校法人中内学園(流通科学大学)学園長・理事長、財団法人中内育英会の理事長も務め、教育者としての一面もあった。

1944年7月フィリピンの混成五八旅団(盟兵団)の所属となり、ルソン島リンガエン湾の守備に就いた。七年式三十糎榴弾砲を運用するも、1945年1月7日に榴弾砲が破壊される。部隊は1月23日未明に玉砕命令が下された直後、一四方面司令官・山下奉文によるゲリラ戦の命令が下されたことで辛うじて生き延びた。

フィリピン戦線では虫を食べて生き延びる絶望的な食料状況の中[5]、ゲリラ戦で米軍基地を襲撃した時、米軍が石油発動機アイスクリームを作っていたことに衝撃を受けた[6]。敵から手榴弾の攻撃を受け、瀕死の重傷を負い死を覚悟したとき、神戸の実家で家族揃ってすき焼きを食べている光景が頭に浮かび、「もう一回腹いっぱいすき焼きを食べたい」と思ったという。第二次世界大戦での戦争体験は、人生観やダイエーの企業理念にも影響を与えた[5]

人の幸せとは、まず、物質的な豊かさを満たすことです」との言葉は、この時に痛感した日本軍と米軍との物量の差と飢餓体験から出ている。また、中内は毛沢東矛盾論の影響も受けていた

1945年11月にフィリピンから復員。神戸市兵庫区にあった実家のサカエ薬局が1948年、元町高架通に新たに開店した「友愛薬局」で、業者を相手に闇商売を行った。旧制神戸経済大学(現・神戸大学)に戦後設置された第二学部(夜間)に進学するも、学費未納のため除籍[9]。6年後の1951年8月には、次弟の設立した「サカエ薬品株式会社」が大阪市平野町に開店した医薬品の現金問屋「サカエ薬局」で勤務[注 2]

ダイエー設立・昇龍の頃[編集]サカエ薬品を離れ、1957年4月10日に神戸市長田区を本店とする「大栄薬品工業株式会社」を末弟と設立し、製薬事業に参入したが、すぐに撤退。同年7月、九州のスーパー「丸和フードセンター」社長・吉田日出男の要請を受けて、小倉に向かい開店の援助をしたことから、吉田の提唱する「主婦の店」の名称を加盟費抜きで貰う。[10]9月23日、大阪市旭区京阪本線千林駅前(千林商店街内)に、医薬品や食品を安価で薄利多売する小売店「主婦の店ダイエー薬局」(ダイエー1号店。のちに千林駅前店に改称し1974年まで営業)を開店した。当初は現代のドラッグストアに相当する薬局で、後に食料品へと進出した。

1964年、松下電器産業(現・パナソニック)とテレビの値引き販売をめぐって「ダイエー・松下戦争」が勃発した。ダイエーが松下電器の製品を希望小売価格からの値下げ許容範囲だった15%を上回る20%の値引きで販売を行ったことがきっかけとなり、松下電器側は仕入れ先の締め付けを行い、ダイエーへの商品供給ルートを停止させて対抗した。あくまで松下独自の考えである「儲けるには高く売ることだ。今後、高い水準に定価(希望小売価格)を設定するので、これを守りなさい。安売り店への出荷は停止する」に対し、契約社会と法律を重視したダイエー側は、松下電器を相手取り、私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独占禁止法)違反の疑いで裁判所に告訴した。

1965年3月、花王石鹸がダイエーへの出荷を停止したため、7月に花王を公正取引委員会に提訴。ダイエーは第一工業製薬と提携し、ナショナルブランドより2~4割安い洗剤「スパット」を販売した。最終的に「ダイエー・花王戦争」は住友銀行の斡旋で1975年に和解し、取引を再開した。

1988年にはパシフィック・リーグの南海ホークスを南海電気鉄道から買収してプロ野球業界へも参入し、福岡ダイエーホークスを発足。さらに東京ドームを凌ぐ大きさである福岡ドームの建設に着手するなど、バブル景気に乗ってグループを急拡大させた。中内は、タッチアップなど野球の基本的なルールすら知らなかったが、ホークスについてよく知るためホークスを扱った漫画『あぶさん』の作者・水島新司と対談した。

1988年4月には神戸・学園都市に流通科学大学を開学。大学職員は全員当時のダイエーから出向させ、同時に理事長に就任した。同年9月には自らの故郷・神戸の玄関口である新神戸駅前に、ホテル・劇場・専門店街が一体となった商業施設新神戸オリエンタルシティを誕生させた。また、1991年には経団連副会長に抜擢。それまで財界においては重工業銀行などに比べて格下と見られていた流通業から初めて抜擢されるなど、名実共に業界をリードする存在となった。

1995年1月17日5時46分に阪神・淡路大震災が発生。起床後に東京・田園調布の自宅で知った中内は、ただちに同じ敷地で寝ていた中内潤をたたき起こして浜松町のオフィスセンターに災害対策本部を設置。物資を被災地に送るよう陣頭指揮をとり、首都圏九州などからフェリーやヘリを投入して食料品や生活用品を調達したり、比較的被害の少ない兵庫県内の24店舗に店を開けるよう厳命したことで、一部で見られた便乗値上げに対し、物価の安定に貢献した[16]。これらの決定は地震発生から約2時間後かつ政府が対策本部設置を決定する約2時間前の8時までに全て決定しており、11時には専務取締役の川一男を始めとする現地対策メンバーと救援物資が新木場のヘリポートから神戸のポートアイランドに急行している[16]。通常、大災害が起きた際には暴動や略奪が起こる例も世界中には少なくないが、ダイエーの根拠地であった神戸ではそうした騒ぎが起きなかった。一方で、神戸にあったダイエー7店舗のうち、半数以上の4店舗が全壊、コンビニのローソンを始めとするダイエー系列店約100店舗が被災するなど、ダイエーグループの金銭的被害は甚大で、ダイエーの凋落に拍車をかけることとなった。ダイエーの正社員も、この震災により判明しただけで30名以上が犠牲になった。

「スーパーはライフラインである」という哲学により、地震発生3日後には自らも被災地に乗り込み、自前のネットワークを駆使して必要な物資の輸送を行い、営業時間の延長や被災した店舗前での物販販売などを特例的に行政当局に認めさせ、被災地への迅速な物資の供給・販売を実施した。

功績[編集]欧米型のスーパーマーケットを中心とする大型商業施設・外食産業を戦後日本に普及させ、消費者主体の流通経営、神戸・福岡など日本各地の都市計画への尽力、災害時の迅速な支援体制(阪神・淡路大震災、東日本大震災)などで、多大な貢献をした点は現在でも高く評価されている。また家業であった町中の小さな薬局店から身を興し、一代でダイエーを創業し、一時はダイエーを連結売上高3兆円超、関連企業を含んで6万人以上の従業員を抱えた、小売業として売上日本一の巨大企業に育て上げたことについて、ライフコーポレーション創業者の清水信次や、衣料品に価格革命を起こしたユニクロ社長の柳井正等を筆頭に、現在でも中内の考えに影響を受け、中内を尊敬する経営者や実業家は多い。

流通科学大学

中内功記念館
   中内功記念館  兵庫県神戸市西区学園西町3丁目1 流通科学大学
             「こべかつ」取材班より

※注:このサイトは、中内功に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝

このメッセージは、 2023年9月28日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
医薬品や食品を安価で薄利多売する小売店「主婦の店ダイエー薬局」からスタートし、日本の流通革命の旗手となって数々の貢献を果たした中内功は、今も多くの経営者に慕われています。     合掌

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このメッセージは、 2023年9月28日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
医薬品や食品を安価で薄利多売する小売店「主婦の店ダイエー薬局」からスタートし、日本の流通革命の旗手となって数々の貢献を果たした中内功は、今も多くの経営者に慕われています。     合掌
軌跡

(生い立ち)

大阪府西成郡伝法町(現 大阪市此花区伝法)に父・秀雄、母・リエの長男として生まれる。父は大阪薬学専門学校(現・大阪大学薬学部)を卒業後、鈴木商店に入社し、退社後大阪で小さな薬屋をはじめた。母は神社の宮司の娘。祖父・栄は高知県矢井賀村(現・中土佐町)の士族の家[注 1]に生まれ、大阪医学校(現・大阪大学医学部)卒業後、神戸で眼科医を務めた。ダイエーの(エイ)とは、祖父の名前の栄からとられたものである。

中内は神戸三中(現・兵庫県立長田高等学校)を経て、1941年兵庫県立神戸高等商業学校(新制神戸商科大学の前身。現・兵庫県立大学)を卒業。戦時中のため繰り上げ卒業であった。ゲーテファウスト』のファウスト博士の嘆きを一部改変し、「神戸高商で努力して学んだ様々な哲学も、芸術も経済学も文学も、まったく役に立たなかった」という意味のドイツ語の文句を卒業アルバムに記す[2]。勉強は苦手で、推薦状を得ながらも試験の出来が悪く、神戸商業大学(現・神戸大学)などの大学受験に失敗。