(生い立ち)
大阪府西成郡伝法町(現 大阪市此花区伝法)に父・秀雄、母・リエの長男として生まれる。父は大阪薬学専門学校(現・大阪大学薬学部)を卒業後、鈴木商店に入社し、退社後大阪で小さな薬屋をはじめた。母は神社の宮司の娘。祖父・栄は高知県矢井賀村(現・中土佐町)の士族の家[注 1]に生まれ、大阪医学校(現・大阪大学医学部)卒業後、神戸で眼科医を務めた。ダイエーの(エイ)とは、祖父の名前の栄からとられたものである。
中内は神戸三中(現・兵庫県立長田高等学校)を経て、1941年に兵庫県立神戸高等商業学校(新制神戸商科大学の前身。現・兵庫県立大学)を卒業。戦時中のため繰り上げ卒業であった。ゲーテ『ファウスト』のファウスト博士の嘆きを一部改変し、「神戸高商で努力して学んだ様々な哲学も、芸術も経済学も文学も、まったく役に立たなかった」という意味のドイツ語の文句を卒業アルバムに記す[2]。勉強は苦手で、推薦状を得ながらも試験の出来が悪く、神戸商業大学(現・神戸大学)などの大学受験に失敗。
中内は神戸三中(現・兵庫県立長田高等学校)を経て、1941年に兵庫県立神戸高等商業学校(新制神戸商科大学の前身。現・兵庫県立大学)を卒業。戦時中のため繰り上げ卒業であった。ゲーテ『ファウスト』のファウスト博士の嘆きを一部改変し、「神戸高商で努力して学んだ様々な哲学も、芸術も経済学も文学も、まったく役に立たなかった」という意味のドイツ語の文句を卒業アルバムに記す[2]。勉強は苦手で、推薦状を得ながらも試験の出来が悪く、神戸商業大学(現・神戸大学)などの大学受験に失敗。