この追悼サイトは、 志賀 直哉(白樺派を代表する小説家・小説の神様と云われた)さまのために作成されました。
享年88歳 、誕生日 1883年2月20日、命日 1971年10月21日
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志賀 直哉(しが なおや、1883年〈明治16年〉2月20日 - 1971年〈昭和46年〉10月21日)は、日本の小説家。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。
宮城県石巻生まれ、東京府育ち。明治から昭和にかけて活躍した白樺派を代表する小説家のひとり。「小説の神様」と称せられ多くの日本人作家に影響を与えた。代表作に「暗夜行路」「和解」「城の崎にて」「小僧の神様」など。
2歳のときに第一銀行を辞めた父とともに東京に移る。住居は東京府麹町区内幸町1丁目6番地の相馬家旧藩邸内にあったが、これは当時、祖父・直道が相馬家の家令を務めていたからである[4]。3歳になり芝麻布有志共立幼稚園に入園。この幼稚園は東京で開設された2番目の幼稚園であった[5]。次いで1889年(明治22年)9月、学習院に入学し予備科6級(現・初等科1年)に編入される[6]。
幼少期の直哉は祖父・直道と祖母・留女(るめ)に育てられた。直哉の兄・直行早世の責任は母・銀にあると考えた祖父母が志賀家の家系を絶やさないように、今度は孫を自分の手元で育てることに決めたからであった。毎晩祖母に抱かれて寝る[3]など、幼少期の直哉は祖父母に溺愛されて育った。祖父・直道(三左衛門)は相馬事件の当事者の一人であり、祖父らを主君軟禁・毒殺と横領で告発した錦織剛清を幼い直哉は「嘘つきの軽蔑すべき贋作画家」などと呼んでいる[7]。
初等科を卒業した1895年(明治28年)8月[8]に実母・銀が死去。同年秋[9]、父・直温が漢学者・高橋元次の娘・浩と再婚する。直哉の「母の死と新しい母」という作品では、この実母の死と父の再婚の様子が描かれている。その中で直哉は実母の死を「初めて起った『取りかえしのつかぬ事』だった」と振り返っている[10]。
1907年(明治40年)[29]、東京帝大に在学していた直哉は志賀家の女中と深い仲になり、結婚を希望するが父から強い反対に遭う。足尾銅山問題によりもともと良好ではなかった直哉と父の関係はこの一件で悪化する。1912年(大正元年)9月[29]、直哉は「大津順吉」を『中央公論』に発表する。この「大津順吉」は、女中との結婚問題を題材にした作品であった。この作品で直哉は初めて原稿料100円を得る[31]。その頃、『白樺』の版元である洛陽堂から直哉初の短編集を出版する話が進み、その出版費用を父が負担することが約束された。そこで直哉がその費用を父に求めにいったところ、父は「小説なぞ書いてゐて将来どうするつもりだ」「小説家なんて、どんな者になるんだ」と、直哉の小説家としての将来を否定するような発言をした。言い争いになった結果、直哉は10月25日に家出して東京の銀座木挽町の旅館に2週間ほど滞在した後に広島県尾道へ転居する[32]。
尾道市の志賀直哉旧居と暗夜行路石碑尾道転居後の1913年(大正2年)1月[33]、初の短編集となる『留女』を刊行。題名は祖母の名にちなむ。後にこの短編集は夏目漱石によって賞賛された[34]。『留女』刊行の同月、読売新聞紙上に「清兵衛と瓢箪」を発表する。これは瓢箪を愛する少年と、その価値観を理解しようとしない大人たちの話であるが、後年、直哉は「自分が小説を書く事に甚だ不満であった父への私の不服」がこの作品を書く動機であったと語っている[35]。そして尾道において直哉は、自身初となる長編「時任謙作」の執筆に着手する。直哉自身がモデルである時任謙作を主人公とし、父との不和を題材とした作品だった。しかし思うように筆が進まず執筆を中断する。長編執筆が進まなかったことも相まって直哉は1913年(大正2年)4月[33]、尾道滞在を半年程度で切り上げ帰京する。
1913年(大正2年)8月15日[36]、東京に滞在していた直哉は「出来事」という小説を書き上げた晩に、里見弴と一緒に素人相撲を見に行くが、その帰り道に[35]山手線の電車にはねられ重傷を負い、東京病院(現・東京慈恵会医科大学附属病院)[37]に入院する。同年10月[33]、その養生のために兵庫県の城崎温泉に滞在。城崎滞在中、直哉は蜂・鼠・いもりという3つの小動物の死を目撃する。この体験が後の短編「城の崎にて」の形で結実することとなる。
城崎での養生後、11月8日、直哉は一度は尾道に戻ったものの中耳炎を患い、その治療のため11月17日に帰京する[38]。その後、東京の下大井町(大森駅の近く)に家を借りて一旦はそこに居住する。しかしその頃、武者小路実篤を介して夏目漱石から東京朝日新聞に小説を連載するよう依頼される。直哉は同紙に「時任謙作」を連載する心積もりで[20]、腰を据えてその執筆に取り組むために[39]1914年(大正3年)5月、東京を離れて里見弴とともに島根県松江市へ転居する[40]。1925年(大正14年)に発表された「濠端の住まひ」は松江での生活を描いたものである。そして松江居住時、大山に赴いた直哉はその眺望に感銘を受ける。この大山からの眺望は「暗夜行路」の結末の場面に採用されている。松江において後の創作につながるこうした体験をしていた直哉であったが、肝心の小説の執筆は進まなかったため、上京して漱石宅を訪れ、その場で漱石に新聞小説連載辞退を申し出た[41]。漱石に不義理を働いたとの自責の念に悩んだ[20]直哉は、結果的にこの年から3年間休筆をする。
1914年(大正3年)9月に直哉は京都へ転居する[40]。同年12月[33]、武者小路実篤の従妹である勘解由小路康子と結婚。康子は華族女学校中退である上に再婚だったことなどから[42]、この結婚は父の望むものではなく、結果として直哉と父との対立は深まった。結婚の翌年[43]、直哉は父の家から自ら離籍している。結婚式は東京麹町元園町[44]の武者小路宅で行われたが、列席者は武者小路・勘解由小路の両夫妻のみで、京都の料亭「左阿彌」で行われた結婚披露宴は友人数人のみの出席にとどまった[45]。結婚後、神経衰弱になった康子のために翌1915年(大正4年)5月に鎌倉雪ノ下へ転居する。しかしこの転居は康子の神経衰弱に良い影響を与えず、1週間程度で群馬県の赤城山に転居。猪谷六合雄の建築した山小屋に住む[46]。この家に住んでから康子は神経衰弱から回復。直哉もこの家を気に入る[47]。赤城山での生活は1920年(大正9年)に発表された「焚火」に描き出されている。
城崎温泉滞在中に宿泊した三木屋
「写実の名手」であり、鋭く正確に捉えた対象を簡潔な言葉で表現しているとの定評がある(高橋英夫[86])。無駄を省いた文章は、文体の理想のひとつと見なされ高い評価を得ている[43]。このことから直哉の作品は文章練達のための模写の題材にされることもある。当時の文学青年から崇拝され、代表作『小僧の神様』にかけて「小説の神様」に擬せられていた。
享年88歳 、誕生日 1883年2月20日、命日 1971年10月21日
※ 志賀さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
志賀 直哉(しが なおや、1883年〈明治16年〉2月20日 - 1971年〈昭和46年〉10月21日)は、日本の小説家。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。
宮城県石巻生まれ、東京府育ち。明治から昭和にかけて活躍した白樺派を代表する小説家のひとり。「小説の神様」と称せられ多くの日本人作家に影響を与えた。代表作に「暗夜行路」「和解」「城の崎にて」「小僧の神様」など。
経歴[編集]
若き日の志賀直哉生い立ち[編集]
志賀直哉は1883年(明治16年)2月20日、宮城県牡鹿郡石巻町に、父・志賀直温と母・銀の次男として[1]生まれた。父・直温は当時第一銀行石巻支店に勤務していた。明治期の財界で重きをなした人物である。母・銀は、伊勢亀山藩の家臣・佐本源吾の娘であった[2]。なお、直哉には兄・直行がいたが直哉誕生の前年に早世していた[3]。2歳のときに第一銀行を辞めた父とともに東京に移る。住居は東京府麹町区内幸町1丁目6番地の相馬家旧藩邸内にあったが、これは当時、祖父・直道が相馬家の家令を務めていたからである[4]。3歳になり芝麻布有志共立幼稚園に入園。この幼稚園は東京で開設された2番目の幼稚園であった[5]。次いで1889年(明治22年)9月、学習院に入学し予備科6級(現・初等科1年)に編入される[6]。
幼少期の直哉は祖父・直道と祖母・留女(るめ)に育てられた。直哉の兄・直行早世の責任は母・銀にあると考えた祖父母が志賀家の家系を絶やさないように、今度は孫を自分の手元で育てることに決めたからであった。毎晩祖母に抱かれて寝る[3]など、幼少期の直哉は祖父母に溺愛されて育った。祖父・直道(三左衛門)は相馬事件の当事者の一人であり、祖父らを主君軟禁・毒殺と横領で告発した錦織剛清を幼い直哉は「嘘つきの軽蔑すべき贋作画家」などと呼んでいる[7]。
初等科を卒業した1895年(明治28年)8月[8]に実母・銀が死去。同年秋[9]、父・直温が漢学者・高橋元次の娘・浩と再婚する。直哉の「母の死と新しい母」という作品では、この実母の死と父の再婚の様子が描かれている。その中で直哉は実母の死を「初めて起った『取りかえしのつかぬ事』だった」と振り返っている[10]。
1907年(明治40年)[29]、東京帝大に在学していた直哉は志賀家の女中と深い仲になり、結婚を希望するが父から強い反対に遭う。足尾銅山問題によりもともと良好ではなかった直哉と父の関係はこの一件で悪化する。1912年(大正元年)9月[29]、直哉は「大津順吉」を『中央公論』に発表する。この「大津順吉」は、女中との結婚問題を題材にした作品であった。この作品で直哉は初めて原稿料100円を得る[31]。その頃、『白樺』の版元である洛陽堂から直哉初の短編集を出版する話が進み、その出版費用を父が負担することが約束された。そこで直哉がその費用を父に求めにいったところ、父は「小説なぞ書いてゐて将来どうするつもりだ」「小説家なんて、どんな者になるんだ」と、直哉の小説家としての将来を否定するような発言をした。言い争いになった結果、直哉は10月25日に家出して東京の銀座木挽町の旅館に2週間ほど滞在した後に広島県尾道へ転居する[32]。
尾道市の志賀直哉旧居と暗夜行路石碑尾道転居後の1913年(大正2年)1月[33]、初の短編集となる『留女』を刊行。題名は祖母の名にちなむ。後にこの短編集は夏目漱石によって賞賛された[34]。『留女』刊行の同月、読売新聞紙上に「清兵衛と瓢箪」を発表する。これは瓢箪を愛する少年と、その価値観を理解しようとしない大人たちの話であるが、後年、直哉は「自分が小説を書く事に甚だ不満であった父への私の不服」がこの作品を書く動機であったと語っている[35]。そして尾道において直哉は、自身初となる長編「時任謙作」の執筆に着手する。直哉自身がモデルである時任謙作を主人公とし、父との不和を題材とした作品だった。しかし思うように筆が進まず執筆を中断する。長編執筆が進まなかったことも相まって直哉は1913年(大正2年)4月[33]、尾道滞在を半年程度で切り上げ帰京する。
1913年(大正2年)8月15日[36]、東京に滞在していた直哉は「出来事」という小説を書き上げた晩に、里見弴と一緒に素人相撲を見に行くが、その帰り道に[35]山手線の電車にはねられ重傷を負い、東京病院(現・東京慈恵会医科大学附属病院)[37]に入院する。同年10月[33]、その養生のために兵庫県の城崎温泉に滞在。城崎滞在中、直哉は蜂・鼠・いもりという3つの小動物の死を目撃する。この体験が後の短編「城の崎にて」の形で結実することとなる。
城崎での養生後、11月8日、直哉は一度は尾道に戻ったものの中耳炎を患い、その治療のため11月17日に帰京する[38]。その後、東京の下大井町(大森駅の近く)に家を借りて一旦はそこに居住する。しかしその頃、武者小路実篤を介して夏目漱石から東京朝日新聞に小説を連載するよう依頼される。直哉は同紙に「時任謙作」を連載する心積もりで[20]、腰を据えてその執筆に取り組むために[39]1914年(大正3年)5月、東京を離れて里見弴とともに島根県松江市へ転居する[40]。1925年(大正14年)に発表された「濠端の住まひ」は松江での生活を描いたものである。そして松江居住時、大山に赴いた直哉はその眺望に感銘を受ける。この大山からの眺望は「暗夜行路」の結末の場面に採用されている。松江において後の創作につながるこうした体験をしていた直哉であったが、肝心の小説の執筆は進まなかったため、上京して漱石宅を訪れ、その場で漱石に新聞小説連載辞退を申し出た[41]。漱石に不義理を働いたとの自責の念に悩んだ[20]直哉は、結果的にこの年から3年間休筆をする。
1914年(大正3年)9月に直哉は京都へ転居する[40]。同年12月[33]、武者小路実篤の従妹である勘解由小路康子と結婚。康子は華族女学校中退である上に再婚だったことなどから[42]、この結婚は父の望むものではなく、結果として直哉と父との対立は深まった。結婚の翌年[43]、直哉は父の家から自ら離籍している。結婚式は東京麹町元園町[44]の武者小路宅で行われたが、列席者は武者小路・勘解由小路の両夫妻のみで、京都の料亭「左阿彌」で行われた結婚披露宴は友人数人のみの出席にとどまった[45]。結婚後、神経衰弱になった康子のために翌1915年(大正4年)5月に鎌倉雪ノ下へ転居する。しかしこの転居は康子の神経衰弱に良い影響を与えず、1週間程度で群馬県の赤城山に転居。猪谷六合雄の建築した山小屋に住む[46]。この家に住んでから康子は神経衰弱から回復。直哉もこの家を気に入る[47]。赤城山での生活は1920年(大正9年)に発表された「焚火」に描き出されている。
城崎温泉滞在中に宿泊した三木屋
「写実の名手」であり、鋭く正確に捉えた対象を簡潔な言葉で表現しているとの定評がある(高橋英夫[86])。無駄を省いた文章は、文体の理想のひとつと見なされ高い評価を得ている[43]。このことから直哉の作品は文章練達のための模写の題材にされることもある。当時の文学青年から崇拝され、代表作『小僧の神様』にかけて「小説の神様」に擬せられていた。
主な作品[編集]
カッコ内は発表年。参考文献内の記述・年譜などで言及されている作品が中心。発表後に改題された作品は改題後の題名を記載。- 網走まで(1910年4月)
- 箱根山(1910年5月)
- 剃刀(1910年6月)
- 孤児(1910年7月)
- 彼と六つ上の女(1910年9月)
- 速夫の妹(1910年10月)
- 鳥尾の病気(1911年1月)
- イヅク川(1911年2月)
- 無邪気な若い法学士(1911年3月)
- 濁つた頭(1911年4月)
- ある一頁(1911年6月)
- 不幸なる恋の話(1911年9月)
- 襖(1911年10月)
- 老人(1911年11月)
- 祖母の為に(1912年1月)
- 憶ひ出した事(1912年2月)
- 母の死と新しい母(1912年2月)
- 大津順吉(1912年9月)
- 正義派(1912年9月)
- クローディアスの日記(1912年9月)
- 清兵衛と瓢箪(1913年1月)
- モデルの不服(1913年7月)
- 興津─川村弘の憶ひ出─(1913年8月)
- 出来事(1913年9月)
- 范の犯罪(1913年10月)
- 児を盗む話(1914年4月)
- 山の木と大鋸(1915年8月)
- 城の崎にて(1917年5月)
- 佐々木の場合(1917年6月)
- 小品五つ(1917年7月)
- 好人物の夫婦(1917年8月)
- 或る親子(1917年8月)
- 赤西蠣太(1917年9月)
- 和解(1917年10月)
- 鵠沼行(1917年10月)
- 荒絹(1917年11月)
- 或る朝(1918年3月)
- 十一月三日午後の事(1919年1月)
- 流行感冒(1919年4月)
- 断片(1919年11月)
- 或る男、其姉の死(1920年1月 - 3月)
- 小僧の神様(1920年1月)
- 或る一夜(1920年1月)
- 菜の花と小娘(1920年1月)
- 夢(1920年1月)
- 雪の日―我孫子日誌─(1920年2月)
- 焚火(1920年4月)
- 赤城にて或日(1920年7月)
- 真鶴(1920年9月)
- 暗夜行路(1921年1月 - 1937年4月)
- その他、多数あり
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