承継
この追悼サイトは、 太宰 治(世界で最も売れた日本の小説「人間失格」の作家)さまのために作成されました。

享年38歳 、誕生日 1909年6月19日、命日 1948年6月13日
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太宰 治(だざい おさむ、本名:津島 修治〈つしま しゅうじ〉、1909年明治42年〉6月19日 - 1948年昭和23年〉6月13日)は、日本小説家

左翼活動での挫折後は、自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながらも、第二次世界大戦前から戦後にかけて作品を次々に発表。主な作品に走れメロス』『津軽』『人間失格』がある。没落した華族の女を主人公にした『斜陽』はベストセラーとなる。戦後はその作風から、坂口安吾織田作之助石川淳檀一雄らとともに新戯作派無頼派と称された。

1928年昭和3年)、5月に同人誌『細胞文芸』[13]を発行すると辻島衆二名義[注釈 1]で当時流行のプロレタリア文学の影響を受けた『無間奈落』を発表するが、連載は1回で終了。津島家の反対を受けたと推測されている[16][17]。この時期、学校からは、「正直ヲ缺ク(外面甚ダ正直)」という評価を受けている[18]。またこの頃、芸者小山初代(1912-1944年)と知り合う。

大学時代[編集]
1930年(昭和5年)、弘前高等学校文科甲類を76名中46番の成績で卒業。フランス語を知らぬままフランス文学に憧れて東京帝国大学文学部仏文学科に入学、上京。当時、東大英文科や国文科などには入試があったが、仏文科は不人気で無試験であった[22]。太宰はそれを当て込んで仏文科に出願したが、たまたま1930年には仏文科でもフランス語の入試があった[22]。目算が外れた太宰は他の志願者とともに試験場で手を挙げ、試験官の辰野隆に事情を話し、格別の配慮で入学を認められた[22]。しかし友人の大高勝次郎などには、仏文科への志望を「肩書のカッコ良さ」や「高名な研究者の辰野隆がいるから」など、もっともらしい理由をつけて虚勢を張っていたという[23]

講義についていけず、美学科、美術史科への転科を検討している[24]小説家になるために井伏鱒二に弟子入りする。10月、小山初代が太宰の手引きで置屋を出て上京。津島家は芸者との結婚に強く反対。11月に長兄の文治が上京して説得するが、太宰は初代と結婚すると主張。文治は津島家との分家除籍を条件に結婚を認める。大学を卒業するまで毎月120円の仕送りも約束するが、財産分与を期待していた太宰は落胆する[25]

除籍になった10日後の11月28日、銀座バー「ホリウッド」の女給で18歳の田部シメ子鎌倉腰越の海にてカルモチン自殺を図る。だがシメ子だけ死亡し、太宰は生き残る。この事件について太宰は『東京八景』『人間失格』などで入水自殺と書いているが、当時の新聞記事では催眠剤を飲み海岸で倒れているところを発見されたと報道されている[26]自殺幇助罪に問われるが、文治らの働きかけで起訴猶予処分となる[27][注釈 3]

南津軽郡の碇ヶ関温泉郷の柴田旅館で、初代と仮祝言をあげる[29]が、入籍はしなかった[30]。年明け、太宰は文治と覚書を交わし、問題行動を起こさず、大学卒業を約束する代わりに毎月120円の仕送りを受けることになった。2月、初代が上京し、新婚生活が始まる[31]

創作、乱れた私生活[編集]
『サンデー東奥』(2月19日発行)に『列車』を太宰治の筆名で発表。同人誌『海豹』に参加、創刊号に『魚服記』を掲載。檀一雄と知り合う。同人誌『青い花』を創刊、『ロマネスク』を発表するが、中原中也らと争い1号で休刊となった[33]

1935年(昭和10年)、『逆行』を『文藝』2月号に発表。大学5年目になっていた太宰は、卒業できず仕送りを打ち切られることを考え、都新聞社(現・東京新聞)の入社試験を受けるが不合格。3月18日、鎌倉で首吊り自殺を図る[34]。4月、腹膜炎の手術を受ける。入院中に鎮痛剤パビナールの注射を受け、以後依存症となる[35]。学費未納のため9月30日付で大学を除籍となった[注釈 4]

同人雑誌『日本浪曼派』(1935年5月号) に発表した『道化の華』が佐藤春夫の目に留まり、「及第点をつけ申し候」とのハガキをもらう[36][37]。 第1回芥川賞が開催され、『逆行』が候補となるが落選(このとき受賞したのは石川達三蒼氓』)。芥川賞選考委員であった佐藤は選評で「『逆行』は太宰君の今までの諸作のうちではむしろ失敗作」と厳しく、同じく選考委員である川端康成からは「作者、目下の生活に厭な雲あり」と私生活を評される。太宰は川端に「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」と文芸雑誌『文藝通信』10月号で反撃した[38]。太宰は精神的に落ち込み、知人の作家である今官一へ向けて、不安を掻き立てる内容の手紙を送り、慌てて返信した今の反応を楽しむような内容の手紙を送り返すという奇行に走っている[39]

1936年(昭和11年)パビナール依存がひどくなり、多い時には1日50本を注射。初代の着物を質に入れ、知人に借金をして歩いた。初代が井伏鱒二に泣きつき、文治に頼まれた津島家出入りの商人の中畑慶吉と北芳四郎が、10月13日に東京武蔵野病院に強制入院させる[45][46]。11月12日に退院するが、翌1937年(昭和12年)、津島家の親類の画学生小館善四郎が初代との不貞行為を告白。3月下旬、水上温泉で初代とカルモチン自殺未遂。6月には初代と離別した。

結婚、作家活動[編集]
1938年(昭和13年)、井伏鱒二の紹介で山梨県甲府市出身の地質学者石原初太郎の四女の石原美知子と見合い。このとき、太宰は媒酌人を渋る井伏に対して「結婚誓約書」という文書を提出した。その中でこれまでの乱れた生活を反省、家庭を守る決意をして「再び破婚を繰り返した時には私を完全の狂人として棄てて下さい」と書いている[47]。翌年1月8日、井伏の自宅で結婚式を挙げる。同日、甲府市街の北に位置する甲府市御崎町(現・甲府市朝日五丁目)に移り住む。9月1日、東京府北多摩郡三鷹村下連雀に転居。精神的にも安定し、『女生徒』『富嶽百景』『駆込み訴え』『走れメロス』などの優れた短編を発表した。『女生徒』は川端康成が「『女生徒』のような作品に出会えることは、時評家の偶然の幸運」と激賞、原稿の依頼が急増した[48]

1946年(昭和21年)11月14日、東京に戻る。チェーホフの『桜の園』のような没落貴族の小説を構想、1947年(昭和22年)2月、神奈川県下曾我で太田静子と再会、日記を借りる[55]。3月27日、美容師の山崎富栄と知り合う

没落華族を描いた長編小説『斜陽』を『新潮』に連載。12月15日、単行本として出版されるとベストセラーになり、「斜陽族」が流行語となるなど流行作家となる。『斜陽』の完成と前後して、登場人物のモデルとなった歌人太田静子との間に娘の太田治子が生まれ、太宰は認知した

太宰治の死[編集]
→詳細は「太宰治と自殺」を参照
220px-Osamu_dazai_19480619.jpg引き揚げられた太宰と富栄の遺体175px-TomieYamazaki.jpg山崎富栄1948年(昭和23年)6月13日玉川上水で山崎富栄と入水した。満38歳没。2人の遺体は6日後の6月19日、奇しくも太宰の39回目の誕生日に発見され、この日は彼が死の直前に書いた短編「桜桃」にちなみ、太宰と同郷で生前交流のあった今官一により「桜桃忌」と名付けられた[60]

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     太宰治記念館「斜陽館」  青森県五所川原市金木町朝日山412-1

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このメッセージは、 2025年1月4日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
無頼派作家と称された太宰治の「人間失格」は、韓国・中国・アメリカをはじめ世界で最も売れた日本の小説となった。 短命だったが優れた作品を数々残し彼の命日は「桜桃忌」と名付けられています。    合掌

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このメッセージは、 2025年1月4日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
無頼派作家と称された太宰治の「人間失格」は、韓国・中国・アメリカをはじめ世界で最も売れた日本の小説となった。 短命だったが優れた作品を数々残し彼の命日は「桜桃忌」と名付けられています。    合掌
軌跡

(幼年時代)

青森県北津軽郡金木村(後の同郡金木町、現在の五所川原市金木町)に、県下有数の大地主である父津島源右衛門と母たね(夕子)の六男として生まれた。両親にいる11人の子女のうちの10番目。

父・源右衛門は木造村の豪農松木家からの婿養子で県会議員、衆議院議員、多額納税による貴族院議員などを務めた地元の名士で、津島家は「金木の殿様」とも呼ばれていた。父は仕事で多忙な日々を送り、母は病弱だったため、生まれてすぐ乳母に育てられた。その乳母が1年足らずで辞めた後は叔母のキエ(たねの妹)が、3歳から小学校入学までは14歳の女中・近村たけが子守りを務めた。

(少年時代)

1923年(大正12年)、3月4日、父源右衛門が肺癌で死去。4月、青森県立青森中学校に入学、実家を離れて下宿生活を送る。成績優秀で1年の2学期から卒業まで級長を務め、4年修了(四修)時の成績は148名中4番目であった。

芥川龍之介志賀直哉室生犀星菊池寛などを愛読、井伏鱒二の『幽閉(山椒魚)』には読んで座っていられないほど興奮した[7]。在学中の17歳頃に『校友会誌』に習作「最後の太閤」を書き、また友人と同人誌『蜃気楼』を12号まで発行[8]。小説家を志望するようになる。しかしこの時期から怠け癖が見え始め、太宰の長兄である津島文治が、太宰の中学時代の教科書を見たところ、教師や兄弟の似顔絵がぎっしり描かれていたという[9]