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この追悼サイトは、 三原 脩(通算試合最多記録のプロ野球名監督)さまのために作成されました。

享年72歳 、誕生日 1911年11月21日、命日 1984年2月6日
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三原 脩(みはら おさむ、1911年11月21日 - 1984年2月6日)は、香川県仲多度郡神野村(現:まんのう町)出身のプロ野球選手内野手、右投右打)・監督球団経営者

監督としての通算3248試合はNPB歴代最多記録。通算1687勝は歴代2位

出生時の本名および読売ジャイアンツ総監督退任までの表記は「三原 」(読み同じ)。

長女の三原敏子は中西太の妻であり、三原は中西の義父に当たる。

現役時代~契約第1号の選手[編集]            (1938年)1934年6月6日大日本東京野球倶楽部に契約選手第1号[2]として入団する。チームは半年後の同年12月26日に発足するが、その直後の1935年1月に入営のために一度退団する[3]日本初のプロ野球である日本職業野球連盟(職業野球、1939年から日本野球連盟)が発足した1936年9月に、後身である東京巨人軍の選手兼助監督として復帰すると、同年9月に行われた「茂林寺の特訓」では、監督を務める藤本定義の片腕として成果を挙げるのに大きな役割を果たした
1937年春季では「3番・二塁手」のレギュラーとしてチーム2位の24打点を記録したが、同年に再び応召され、中国戦線へ出征した。その際に南翔大腿部を貫通する銃創を受ける[4]

新聞記者から巨人の監督へ[編集]
現役引退、東京巨人軍を退団した三原は報知新聞社記者として活動するも、三度目の応召を受けビルマ戦線に従軍した。終戦後は読売新聞社運動部[注釈 4]の記者として勤務し、野球評を中心に記述していた。

そんな中、東京巨人軍が「読売ジャイアンツ」へ改称された1947年のシーズン途中である6月3日に、成績不振に悩まされていた球団から三原へ監督就任を要請された。三原はこれを受諾し、3日後の6月6日に大学の後輩にあたる監督の中島治康に配慮する形で助監督兼技術顧問として復帰した。同年9月には総監督に就任するが、この年の読売ジャイアンツは5位に終わる。

別所事件とポカリ事件と排斥運動[編集]
1948年は中島に代わって全試合で三原が指揮を執って2位の好成績を残すが、同年オフに別所毅彦の移籍を巡る「別所引き抜き事件」が発生する[7]。なお、当時の球団は監督の大半が背番号「30」を背負っていたが、三原自身は戦前の助監督兼任時代に「21」を着用していたほか、前年に復帰した際には退団まで「31」を付け、のちに西鉄ライオンズの監督就任時には「50」、大洋ホエールズで「60」、近鉄バファローズで「70」、晩年のヤクルトアトムズでは「80」と徐々に番号が大きくなったが、西鉄時代に背番号を変更したのはライバル・水原茂への対抗意識として倍の背番号を選んだとの文献もあるものの、三原本人にこだわりは無かったようである。

西鉄監督就任~打倒巨人[編集]
220px-Inao_Mihara_Toyoda_Scan10009.JPG1956年の日本シリーズを制覇し、豊田泰光(左)、稲尾和久(中)と祝杯を挙げる三原1950年のシーズン終了後、前年の1949年まで読売ジャイアンツから移籍していたパシフィック・リーグ西鉄クリッパース川崎徳次と球団社長である西亦次郎の説得により、1951年1月30日西日本パイレーツを吸収合併した新生「西鉄クリッパース」(同年2月28日より「西鉄ライオンズ」)監督に就任した。当初は1月18日に西日本パイレーツの監督へ就任することが発表されていたが[8]、西鉄への吸収合併により宮崎要の後任として三原に白羽の矢が立った。そのために1952年までは引き続き宮崎が監督を名乗り、三原は総監督として指揮を執っていた。

三原は、巨人時代の悶々とした気持ちを晴らすために西鉄ライオンズを強大なチームに育て上げ、日本シリーズでの「打倒巨人」を誓った。1952年に球界屈指のスター選手である「青バット」大下弘の獲得に成功すると、中西太豊田泰光稲尾和久ら若手有望株の選手を相次いで獲得し、大下を軸にするチーム作りを始めた。その甲斐あって1954年に初優勝を遂げたが、セントラル・リーグは当時「魔球」と呼ばれたフォークボールを武器に大活躍を見せた杉下茂を擁する中日ドラゴンズが優勝したため、この年では巨人との対戦は叶わなかった。

巨人との日本シリーズが実現したのは1956年で、両者の戦いは「巌流島の決闘」と評されるほどの注目を集め、4勝2敗で三原にとって念願の「巨人を破っての日本一」を達成した。後年、三原は日本経済新聞の「私の履歴書」において当時について回想し、祝勝会で選手らと飲酒している最中に色紙が回ってきて、それに「我勝てり」と書き込んだという。巨人で監督失格の烙印を押されて都落ちした三原の会心の勝利で、西鉄黄金時代の始まりだった。1957年には4勝1分で巨人を無敗で一蹴するなど、選手の間からは「パ・リーグ南海大毎に勝つ方が難しい」といった声も聞かれるほどだった。

神様、仏様、稲尾様[編集]
1958年、西鉄は3年連続で巨人との日本シリーズを戦うこととなり、長嶋茂雄立教大学)が加入した巨人が3連勝し、王手をかける。第3戦の翌日未明に三原が徹夜の麻雀の途中で降雨に気付き、球団社長の西へ電話を掛けて第4戦の中止を取り決めた。「フル回転だった稲尾を休ませたい」「ツキを変えたい」思惑があったが逆転優勝の勝算があってのことではなかった。雨は翌朝には上がって快晴となったため、巨人は西鉄側の中止決定に対して猛抗議したが、三原の回想には「水原自身が電話を掛けて激しく詰め寄って来たので『どうせ君が勝つんだから良いじゃないか』といって一方的に受話器を下ろした」とあり、水原の慢心を誘う揺さぶりではなく三原の本心だった。選手側もいまさら挽回は無理だろうという雰囲気だったが、「このまま平和台で優勝を決められれば、荒っぽい九州のファンに殺される。せめて2勝して東京まで行って決めよう」という消極的な積極論に同調し、西鉄は雨天中止による中1日登板の稲尾が完投して第4戦に勝利すると、第5戦も延長戦の末に勝利を挙げて連勝、シリーズは舞台を後楽園球場に移した。第5戦での稲尾は3点を追う時点での連投(ロングリリーフ)だったが、これは三原が敗戦を前提として、試合後に「エース(稲尾)を起用して負けたんだから仕方ない」という言い訳をするための起用だった。しかし三原の本心を知らない選手は、稲尾のリリーフを「監督はまだ勝負を諦めていない」と解釈して奮い立ち、同点に追いついたのち逆転に成功し、シリーズの流れは完全に西鉄へ傾いた。結局、稲尾は東京での第6戦、第7戦でも完投し、巨人は本拠地でも、長嶋をもってしても、西鉄の流れを止められなかった。

こうして西鉄は、日本シリーズ史上初の「3連敗からの4連勝」で頂点に立った。稲尾は第2戦を除く6試合に登板して4完投、さらに第4戦から全ての試合に登板して4勝を挙げた。「神様、仏様、稲尾様」はこの時に三原の口から出たものである

大洋監督~適材適所で日本一
三原は投手、野手問わず選手が最も得意とする技術を徹底的に磨くよう指示を出した。権藤にはカーブ、島田には制球力、浜中には走塁といった具合で、三原の手書きメモには「タイプの違った2人の選手の長所を上手く組み合わせて起用すれば、1人のスタープレーヤーに匹敵する戦力が生まれる…」と書かれており、これらの選手を「超二流選手」と呼んで選手を上手く組み合わせる采配を見せ、僅差に強いチーム作りを進めた。実際にこの年は1点差試合が33勝17敗と、約2:1の割合で勝利を掴んでおり、粘る巨人を下して球団史上初のリーグ優勝を成し遂げた。

同年の日本シリーズは「ミサイル打線」との異名を持つ強力打線で優勝した大毎オリオンズだった。「三原をもってしても…」というように下馬評では圧倒的な大毎有利だったが、初戦から全て1点差での試合を制して日本一に輝いた。前年度が最下位だった球団によるリーグ優勝・日本一は日本プロ野球史上初の快挙で、監督として3球団での優勝も史上初[注釈 6]だった。この功績が評価され、1961年にはスポーツ界で初となる菊池寛賞を受賞した

近鉄監督~内部の黒い霧[編集]                     大洋を退団したばかりの三原の元へ、11月6日近鉄バファローズから監督就任の要請があり、三原は承諾した。球団との契約金は無く、1年間の単年契約だった
ヤクルト監督~若松との出会い[編集]                1970年11月7日にヤクルトアトムズの監督に就任した。これまでとは一転して優勝どころかAクラス(2位・3位)入りすら叶わなかったが、三原の就任前年までが勝率.264と、ドラフト制度導入以後の最低勝率を記録した崩壊状態のチームを、1年目は最下位ながらも勝率.419、2年目の1972年には勝率.472の4位、3年目の1973年には同じ4位ながら勝率.488と、徐々に勝率は上がっていく一方で、首位・巨人には4.5ゲーム差まで詰め寄るなど、短期間でチームを立て直すことには成功した。
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          野球殿堂博物館  東京都文京区後楽1-3-61

※注:このサイトは、三原脩に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝

このメッセージは、 2025年2月28日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
「人づかいの魔術師」「三原マジック」と称された三原脩は、選手の特徴を活かし組む合わせることによって、最大限の能力を引き出した。 企業経営者からも注目された。    合掌

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メッセージ
このメッセージは、 2025年2月28日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
「人づかいの魔術師」「三原マジック」と称された三原脩は、選手の特徴を活かし組む合わせることによって、最大限の能力を引き出した。 企業経営者からも注目された。    合掌
軌跡

(生い立ち~青年期)

1911年11月21日香川県仲多度郡神野村(現:まんのう町)で生まれる。生家は地元でも有名な大地主で、修は末っ子として何ひとつ不自由なく育った。香川県立丸亀中学校入学後から野球にのめり込み、将来は修が官吏になることを望んだ父親の意向で香川県立高松中学校に転校させられたが、校長は文武両道を推進しており、野球部入部を条件に転入を承認した。高松中学校では遊撃手として投手の梶原英夫(のち東京帝国大学)らと共に第14回全国中等学校優勝野球大会へ出場し、準決勝まで進出したが雨天コールドで敗退となった。また、当時の野球部マネージャーを務めていたのは、のちに日本社会党委員長に就任する成田知巳だった。