承継
この追悼サイトは、 円山 応挙(江戸中後期の絵師・円山派の祖)さまのために作成されました。

享年62歳 、誕生日 1733年6月12日、命日 1795年8月31日
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円山 応挙(まるやま おうきょ、旧字表記では圓山應擧享保18年5月1日1733年6月12日)- 寛政7年7月17日1795年8月31日))は、江戸時代中期~後期の絵師

近現代の京都画壇にまでその系統が続く「円山派」の祖であり、写生を重視した画風が特色である

諸説あるが「足のない幽霊」を描き始めた画家とも言われている

明和3年(1766年)から「応挙」を名乗り始める。「応挙」の意は「銭舜挙(中国末 - 初の画家)に応ずる」ということであり、中国の大家に劣らぬ水準の絵を描こうとする意が込められていると思われる。またこの頃から三井寺円満院祐常門主の知遇を得る。祐常は公家の二条家から門跡寺院に入って僧となった人物で、『萬誌』(ばんし)という日常雑事を記録した書物を残しているが、その中に応挙の言動が詳細に書き留められており、同時代の貴重な記録となっている。

220px-Imperial_Prince_Abbot_Shinnninn.jpg円山応挙のパトロンの一人、妙法院門主の真仁法親王[2]この祐常や豪商三井家、また妙法院門跡真仁法親王が応挙の主要なパトロンであった。代表作の『七難七福図』、『孔雀牡丹図』などは第二次大戦後まで三井寺円満院に伝来したものであり、『雪松図』は三井家に伝来したものである。また、兵庫の大乗寺、郷里穴太の金剛寺の障壁画群も代表作に数えられる。応挙最晩年の作品に属する『見立江口の君図』や『四季遊戯図巻』などは、純然たる意味での肉筆浮世絵とは言えないまでも、浮世絵的雰囲気を持つ作品として、また上方風俗図として挙げることが出来る。

寛政7年、63歳にて死没[3]法名は円誉無之一居士。墓所は京都市右京区太秦悟真寺[3]。位牌型墓石の表面に「源応挙墓」と刻む[3]。悟真寺は昭和26年に四条大宮から墓ごと太秦に移転したもので、境内に円山家一族の墓が並ぶ[3]。円山派は長男の応瑞が継いだが、後述の弟子たちの方が有名である。

大本教祖の出口王仁三郎は応挙の家系から出ている[4]

宅址(四条通堺町東入ル南側)に石標が一本建てられている

画風[編集]応挙の画風上の特色として第一に挙げるべきことは、近世の日本の画家のなかでも際立って「写生」を重視したことである。前述の祐常著『萬誌』によれば、応挙は常に懐中に写生帖を忍ばせ、暇さえあればスケッチに余念がなかったようである。現存する『花鳥写生図巻』(千總蔵、重要文化財)や東京国立博物館蔵の『写生帖』などには動物、昆虫、植物などがさまざまな角度から客観的に描写されている。応挙画は、こうした写生の技術を基礎としつつも、日本絵画の伝統的な画題を扱い、装飾性豊かな画面を創造しているところが特色である。一例として根津美術館蔵の『藤花図』屏風を見ると、藤の幹や枝は輪郭線を用いず、付立て[6] の技法で大胆に描き出す一方で、藤の花房は写実的かつ繊細に描かれ、全体としては琳派を思わせるような装飾性豊かな大画面をつくり出すことに成功している。卓越した画技と平明で親しみやすい画風から、応挙画は三井家をはじめとする富裕な町人層に好まれた。

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円山応挙「郭子儀図」大乗寺(『和樂』2018年8-9月号「ニッポンを知る100の旅へ!」より 撮影:篠原宏明)
    「応挙寺」と呼ばれる 大乗寺の襖絵
         兵庫県美方郡香美町香住区森860  0796-36-0602

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       大乗寺の客殿  正面には応挙の銅像お置かれています

※注:このサイトは、円山応挙に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝

このメッセージは、 2023年8月10日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
迫力ある力強い絵は、観る者を圧倒します。 円山派の祖でもあり後世にも多大な影響を及ぼしました。    合掌

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このメッセージは、 2023年8月10日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
迫力ある力強い絵は、観る者を圧倒します。 円山派の祖でもあり後世にも多大な影響を及ぼしました。    合掌
軌跡

(生い立ち)

本姓は藤原、後に、姓は円山、名は岩次郎、後に主水。夏雲、雪汀、一嘯、仙嶺、僊斎、星聚館、鴨水漁史、攘雲、洛陽仙人と号す。石田幽汀の門人。享保18年(1733年)、丹波国南桑田郡穴太(あなお)村(現在の京都府亀岡市曽我部町穴太)に農家の次男として生まれた。穴太は、西国三十三所の札所寺院である穴太寺があることで知られる。少年時代のことはあまり詳しくわかっていないが、遅くとも10代の後半には京へ出て、狩野探幽の流れを引く鶴沢派の画家、石田幽汀の門に入っている。

(眼鏡絵に没頭)

20代の修行期の頃にはいわゆる「眼鏡絵」の制作に携わっていたことが知られる。この頃、京都四条通柳馬場の尾張屋中島勘兵衛という玩具商に勤めていた。そこでオランダ渡来の眼鏡絵を見て、宝暦9年(1759年)頃、「四条河原遊涼図」、「石山寺図」、「賀茂競馬図」、「円山座敷図」、「三十三間堂図」など京都風景の眼鏡絵を制作した。眼鏡絵とは、風景などを西洋画の遠近法を応用して描き、これを「覗き眼鏡」という凸レンズを嵌めた箱を通して見ると立体的に見えるというものである。応挙が見た眼鏡絵は、45度傾けた鏡に映した絵をレンズを通して眺める。そうすると、遠近が深く感じることが出来る。よって、この原画及び図上の文字は左右反対に描いてあった。作品は木版墨摺りで、手で着色したものであった。画面には小さな孔を開け、薄紙を張って裏から光を当てるという工夫が見られた