承継
この追悼サイトは、 秦 佐八郎(梅毒の特効薬を開発した細菌学者)さまのために作成されました。

享年65歳 、誕生日 1873年3月23日、命日 1938年11月22日
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秦 佐八郎(はた さはちろう、1873年明治6年)3月23日 - 1938年昭和13年)11月22日)は、日本の細菌学者。学位は、医学博士当時難病であった梅毒の特効薬サルバルサン砒素化合物製剤606号)をドイツのパウル・エールリヒ1908年ノーベル生理学・医学賞受賞)と共に開発し、多くの患者を救ったことで知られる1911年ノーベル化学賞1912年1913年ノーベル生理学・医学賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している[1]島根県美濃郡都茂村(現:益田市)出身。

養子になった佐八郎は1891年私立岡山薬学校(現:関西高等学校)を卒業後、第三高等中学校医学部(現:岡山大学医学部)に入学する。高等中学校では大変優秀であり、他の学生や教師からも一目置かれる存在であった。

1895年(明治28年)、医学部卒業、8月、22歳で秦徳太の長女チヨと結婚した。同年、一年志願兵として東京近衛一連隊入隊。

伝染病研究所への入所[編集]1年間の兵役を終えた後、1897年(明治30年)岡山県病院助手になり、その後1898年伝染病研究所に入所した。岡山県病院では井上善次郎から内科学、荒木寅三郎からは医化学を学んだ記録が残っている。その頃佐八郎は東京で医学の勉強をするべく上京を考えていた。そして1898年(明治31年)8月に荒木寅三郎の推薦により、単身上京して大日本私立衛生会経営の伝染病研究所に入所、そこで北里柴三郎に学ぶこととなった。翌年、研究所は官立となり、同 研究所の助手、臨時ペスト予防液製造事務取扱、および臨時検疫事務官を兼務する。

ペスト研究の開始[編集]この時から秦のペスト研究が始まり、ヨーロッパ留学に旅立つ1907年(明治40年)まで続いた。8年間にわたる研究の中、防疫の実務(1899年11月、日本最初のペストが発生)に携わると共に、ペストに関する十数篇の論文を著し、柴山五郎作と共に「ペスト予防法」を策定している。後に、エールリッヒが難題の梅毒化学療法の共同研究者として秦を選んだのも、秦が長年に渡って危険極まりないペストの研究と防疫に当たってきた実績を買ったからだった。エールリッヒは「注意深き精緻正確なる君の輝かしい実験なくしては、この好結果を挙げ得なかったであろう。君の協力に対して私は深く感謝するものである」と深甚の謝意を表している。

軍医として従軍[編集]秦は1903年明治36年)には国立血清薬院部長を兼任しつつ、同研究所には10年間在籍していた。その間、1904年4月日露戦争軍医として従軍し、南満州各地の野戦病院で伝染病患者の治療に当たる。1905年似島検疫所設置のため召還され、検疫にあたる。大阪の陸軍予備病院で伝染病室および細菌検査室に勤務。同年10月除隊。11月に伝染病研究所技師に戻る。この間の働きが認められて1907年からドイツに留学することとなる。

1907年(明治40年)国立伝染病研究所第三部長となる。

ドイツ留学、特効薬開発へ[編集]ドイツ留学、ベルリンロベルト・コッホ細菌研究所でワッセルマンの下、免疫の研究をして1年を過ごした。その後、モアビット (Moabit) 市立病院に移ってヤコビー博士の下で数ヶ月間研究する。ヤコビー博士もエールリッヒの弟子だったので、彼を通じてエールリッヒが所長を務めるフランクフルトの国立実験治療研究所へ移れるように頼んでもらった。ヤコビー博士の二度の手紙では芳しい結果が得られなかったため、秦は自ら手紙を書き、ベルリンを出発。10日間ほど南ドイツの大学を回った後、荷物を駅に預けたままでフランクフルトの研究所へ直行した。エールリッヒのもとに案内されると、彼は次のように語ったという。

「あなたの研究室もあなたを助けてくれる助手もすで用意してある。今日から研究に取りかかるのだ」

1909年6月、科学者ベルトハイムが合成した砒素製剤606号と名付けられた試料(ヒ素化合物ジオキン・ジアミド・アルゼノベンゾール)の効果と急性毒性を、秦は動物実験し、その卓れた効果が確認された。エールリッヒは6月10日にこの薬の製造特許を申請し、同日発行された。1910年4月、第27回ドイツ内科学会で、エールリッヒは新しい砒素化合物製剤606号の梅毒に対する化学療法の総論を、秦は動物実験を、シライバーおよびホッペは梅毒患者への臨床治験の成績を共同して発表した。1910年にエールリッヒ、秦共著のドイツ語書『スピロヘーターの実験化学療法』がベルリンで刊行された。

1910年にドイツの製薬会社ヘキスト (Höchst) は、この薬をサルバルサンラテン語でSalvareは「救う」の意味)と名づけ、製造販売した。同年5月27日、秦はコッホの臨終に立会い、その後日本に帰国した。当初、日本はこの薬をドイツから輸入していた。

瓦屋根と歴史を感じる木の格子玄関の秦記念館の外観の写真
     秦記念館  島根県益田市美都町都茂807番地  0856-52-2415       梅毒の特効薬サルバルサン606号を発見し、人類平和に貢献した偉人・秦佐八郎の記念館です。
館内には秦佐八郎に関する資料や写真、遺品等約200点が展示されています。

      エールリッヒ博士、北里柴三郎博士などの恩師、友人の写真が展示されている様子の写真
           郷土が誇る世紀の医学者 秦佐八郎

※注:このサイトは、秦佐八郎に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝

このメッセージは、 2024年4月15日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
ペスト菌や梅毒などの感染症撲滅に生涯を賭け、世界初の抗生物質を開発した
秦佐八郎は日本が誇る世界的医学者であった。        合掌

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このメッセージは、 2024年4月15日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
ペスト菌や梅毒などの感染症撲滅に生涯を賭け、世界初の抗生物質を開発した
秦佐八郎は日本が誇る世界的医学者であった。        合掌
軌跡

(生い立ち)

島根県美濃郡都茂村(現益田市)に豪農・山根道恭とヒデの十四人兄弟の八男として生まれる。14歳の時に姻戚である秦家より養子に迎えられた。代々医師の家系であった秦家には当時一人娘しかいなかったために、兄弟の中で成績が優秀であった佐八郎に白羽の矢が立ったのである。その際、秦家より「岡山で勉強が出来る」と言われたのも少年であった佐八郎が養子に行く決心をした理由の一つであろう。

(少年時代)

佐八郎は悪戯好きの少年であり、すぐ上の兄で2歳年上の藤七とよく遊んだが、乱暴狼藉が過ぎると、空いている大きな酒造りの樽に放り込まれた。食事時になっても2人は容易に樽の中から引き上げてもらえなかったという。母ヒデから「さあさん、ちょっと来てやんさい」と土蔵に呼ばれ、諭された逸話は地元では有名