この追悼サイトは、 松本 清張(社会推理・小説家)さまのために作成されました。
享年82歳 、誕生日 1909年12月21日、命日 1992年8月4日
※ 松本さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
松本 清張(まつもと せいちょう、1909年12月21日 [注釈 1]- 1992年8月4日)は、日本の小説家。
1953年に『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞。以降しばらく、歴史小説・現代小説の短編を中心に執筆した。1958年には『点と線』『眼の壁』を発表。これらの作品がベストセラーになり松本清張ブーム、社会派推理小説ブームを起こす[2]。以後、『ゼロの焦点』『砂の器』などの作品もベストセラーになり、第二次世界大戦後の日本を代表する作家となる。その他、『かげろう絵図』などの時代小説を手がけているが、『古代史疑』などで日本古代史にも強い関心を示し、『火の路』などの小説作品に結実した。
緻密で深い研究に基づく自説の発表は小説家の水準を超えると評される[注釈 4]。また、『日本の黒い霧』『昭和史発掘』などのノンフィクションをはじめ、近現代史に取り組んだ諸作品を著し、森鷗外や菊池寛に関する評伝を残すなど、広い領域にまたがる創作活動を続けた。
光文社で清張の初代担当編集者だった櫻井秀勲は、「作家というものは、自伝を書く際もあるので、資料は取っておいた方がいい」と清張にアドバイスしたこともあって、清張は「櫻井君には話しておくか」という気分になったようで、時折、櫻井に自身の生い立ちを話したと証言しており[16][17][18]、清張は「広島で生まれたが、父親のだらしなさから、村役場に出生届を提出していなかった」と話したという[16][17]。また、清張から「父は米の仲買人だった。儲かったときもあったらしく、その話はよく聞かされたが、実際は大損するほうが多かった。私が生まれたときは、その大損をして逃げ出したときで、真冬の寒さの中を、私は母に引かれて小倉にやってきた。ここでやっと出生届を出してもらった」と聞いたと証言している
1920年、家族で福岡県小倉市に移ったため、天神島尋常小学校に転校。小倉に定住したのは小学校5年生の時(10歳〜11歳)と推定される[注釈 7]。
古船場町の銭湯の持で暮らし、後にバラック家を借り、そこに住んだ。家の前には白い灰汁の流れる小川があり、近くの製紙会社から出る廃液の臭気が漂っていた。1922年、板櫃尋常高等小学校に入学。両親は大八車を転がす露天商を経て翌年、飲食店を開業した。
1922年に小倉で発行された同人誌『とりいれ』に「風と稲」と題する松本清張名義の詩が掲載されており、これが従来は知られていない少年期の清張作品である可能性が指摘されている[37]。
文学への関心と挫折[編集]小倉・川北電気会社の給仕時代(1925年)生家が貧しかったために、1924年、板櫃尋常高等小学校を卒業したのち、職業紹介所を通じ、株式会社川北電気企業社(現在のパナソニック エコシステムズ株式会社の源流)小倉出張所の給仕に就職した。掃除、お茶くみ、社員の使い走り、商品の配達などに携わり、初任給は11円、3年後に昇給して15円であった。この時期、新刊書を買う余裕はなく、本は貸本屋で借りるか、勤め帰りに書店で立ち読みしていた。当初清張が興味を持って読んだのは、旅の本であった。特に田山花袋の紀行文を好み、当初清張は花袋を紀行作家と思っていたほどであった(エッセイ『雑草の実』による)。しばらくして、家業の飲食店の経営がやや楽になり、家が手狭になったので、祖母とともに近所の雑貨屋の二階に間借住まいをする。
やがて文学に夢を託すようになる。この頃から春陽堂文庫や新潮社の文芸書を読み、15~16歳の頃、特に愛読したのは芥川龍之介であった。他に菊池寛の『啓吉物語』や岸田國士の戯曲も愛読した。休日には小倉市立記念図書館に通い始め、ここで森鷗外や夏目漱石、田山花袋、泉鏡花などの作品を読み、新潮社版の世界文学全集を手当たり次第に読み漁った。しかし、当時世評の高かった志賀直哉『暗夜行路』などは、どこがいいのかさっぱりわからなかったという。また、雑誌『新青年』で翻訳探偵小説の面白さに開眼、国内では江戸川乱歩の出現に瞠目、作品を愛読した。
1928年になっても、働き口は見つからなかった。手に職をつける仕事をしたいと考えた清張は[20]、小倉市の高崎印刷所に石版印刷の見習い工となる。月給は10円であった。しかし、本当の画工になれないと思った清張は、さらに別の印刷所に見習いとして入る。ここで基礎から版下の描き方を学び、同時に広告図案の面白さを知った。この頃、飲食店の経営はさらに悪化、一家は紺屋町の店を債権者に明け渡して、工場廃液の悪臭が漂う中島町に再び戻り、小さな食堂を開いた。しかし全く商売にならず、父は相変わらず借金取りに追われていた。印刷所の主人が麻雀に凝って仕事をしなくなったため、清張は毎晩遅くまで版下書きの仕事に追われた。
1929年3月、仲間がプロレタリア文芸雑誌を購読していたため、「アカの容疑」で小倉刑務所に約2週間留置された。釈放時には、父によって蔵書が燃やされ、読書を禁じられた。
高崎印刷所の主人が死去し経営状態が悪化、勤めを続けながら自宅で版下書きのアルバイトをした。将来に不安を感じ、1937年2月に印刷所を退職、自営の版下職人となった。この頃、朝日新聞西部支社(現・西部本社)が門司から小倉に社屋を移転し、最新設備による印刷を開始する旨の社告が載った。版下の需要が増えると見込んだ清張は、支社長の原田棟一郎に版下画工として使ってほしいと手紙を書き、下請け契約を得ることに成功した。1939年に広告部の嘱託、1940年には常勤の嘱託となった。なお1938年に長女、1940年に長男、1942年に次男が誕生している。
1950年代[編集]
1953年に「或る『小倉日記』伝」は直木賞候補となったが、のちに芥川賞選考委員会に回され、選考委員の一人であった坂口安吾から激賞され[注釈 10]、第28回芥川賞を受賞。
同年、『オール讀物』に投稿した「啾啾吟」が第1回オール新人杯佳作を得た。
1955年から『張込み』で推理小説を書き始め、1957年に短編集『顔』が第10回日本探偵作家クラブ賞(現・日本推理作家協会賞)を受賞。同年から雑誌『旅』に『点と線』を連載する。翌年刊行され、『眼の壁』とともにベストセラーとなった。「清張以前」「清張以後」という言葉も出て、「清張ブーム」が起こった[2]。『放送朝日』1957年8月号特集「テレビジョン・エイジの開幕に当たってテレビに望む」に寄せた評論で、テレビ番組に対する大宅壮一の発言「一億白痴化運動」に“総”の一字を挿入、「かくて将来、日本人一億が総白痴となりかねない」(一億総白痴化)と述べ、これは流行語となった。
その後も執筆量は衰えず、『ゼロの焦点』『かげろう絵図』『黒い画集』『歪んだ複写』などを上梓。執筆量の限界に挑んだ。清張の多作は同時代の作家にとっても驚きであり、種々の憶測も呼んだ。作家の平林たい子は韓国の雑誌『思想界』1962年8月号に「朝から晩まで書いているんですけど、何人かの秘書を使って資料を集めてこさせて、その資料で書くだけですからね。松本と言えば人間ではなく『タイプライター』です」と発言した。これに対し清張は「事務処理をする手伝いの人が一人いるのみで、事実に反する」と反論している[46]。しかしのち、書痙となり、以後は口述筆記をさせ、それに加筆するという形になった。
死去[編集]富士見台霊園の墓1992年4月20日、脳出血のため東京女子医科大学病院に入院、手術は成功したが、7月に病状が悪化、肝臓癌であることが判明し、8月4日に死去した(82歳没)[1]。
遺書には「自分は努力だけはしてきた」などと記されていた[78]。 遺書の日付は1989年6月10日夜、ヨーロッパ取材旅行の前日となっていた。『神々の乱心』『江戸綺談 甲州霊嶽党』(後者は未単行本化)が絶筆。
法名は清閑院釋文張。
没後の動き[編集]
享年82歳 、誕生日 1909年12月21日、命日 1992年8月4日
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松本 清張(まつもと せいちょう、1909年12月21日 [注釈 1]- 1992年8月4日)は、日本の小説家。
1953年に『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞。以降しばらく、歴史小説・現代小説の短編を中心に執筆した。1958年には『点と線』『眼の壁』を発表。これらの作品がベストセラーになり松本清張ブーム、社会派推理小説ブームを起こす[2]。以後、『ゼロの焦点』『砂の器』などの作品もベストセラーになり、第二次世界大戦後の日本を代表する作家となる。その他、『かげろう絵図』などの時代小説を手がけているが、『古代史疑』などで日本古代史にも強い関心を示し、『火の路』などの小説作品に結実した。
緻密で深い研究に基づく自説の発表は小説家の水準を超えると評される[注釈 4]。また、『日本の黒い霧』『昭和史発掘』などのノンフィクションをはじめ、近現代史に取り組んだ諸作品を著し、森鷗外や菊池寛に関する評伝を残すなど、広い領域にまたがる創作活動を続けた。
光文社で清張の初代担当編集者だった櫻井秀勲は、「作家というものは、自伝を書く際もあるので、資料は取っておいた方がいい」と清張にアドバイスしたこともあって、清張は「櫻井君には話しておくか」という気分になったようで、時折、櫻井に自身の生い立ちを話したと証言しており[16][17][18]、清張は「広島で生まれたが、父親のだらしなさから、村役場に出生届を提出していなかった」と話したという[16][17]。また、清張から「父は米の仲買人だった。儲かったときもあったらしく、その話はよく聞かされたが、実際は大損するほうが多かった。私が生まれたときは、その大損をして逃げ出したときで、真冬の寒さの中を、私は母に引かれて小倉にやってきた。ここでやっと出生届を出してもらった」と聞いたと証言している
1920年、家族で福岡県小倉市に移ったため、天神島尋常小学校に転校。小倉に定住したのは小学校5年生の時(10歳〜11歳)と推定される[注釈 7]。
古船場町の銭湯の持で暮らし、後にバラック家を借り、そこに住んだ。家の前には白い灰汁の流れる小川があり、近くの製紙会社から出る廃液の臭気が漂っていた。1922年、板櫃尋常高等小学校に入学。両親は大八車を転がす露天商を経て翌年、飲食店を開業した。
1922年に小倉で発行された同人誌『とりいれ』に「風と稲」と題する松本清張名義の詩が掲載されており、これが従来は知られていない少年期の清張作品である可能性が指摘されている[37]。
文学への関心と挫折[編集]小倉・川北電気会社の給仕時代(1925年)生家が貧しかったために、1924年、板櫃尋常高等小学校を卒業したのち、職業紹介所を通じ、株式会社川北電気企業社(現在のパナソニック エコシステムズ株式会社の源流)小倉出張所の給仕に就職した。掃除、お茶くみ、社員の使い走り、商品の配達などに携わり、初任給は11円、3年後に昇給して15円であった。この時期、新刊書を買う余裕はなく、本は貸本屋で借りるか、勤め帰りに書店で立ち読みしていた。当初清張が興味を持って読んだのは、旅の本であった。特に田山花袋の紀行文を好み、当初清張は花袋を紀行作家と思っていたほどであった(エッセイ『雑草の実』による)。しばらくして、家業の飲食店の経営がやや楽になり、家が手狭になったので、祖母とともに近所の雑貨屋の二階に間借住まいをする。
やがて文学に夢を託すようになる。この頃から春陽堂文庫や新潮社の文芸書を読み、15~16歳の頃、特に愛読したのは芥川龍之介であった。他に菊池寛の『啓吉物語』や岸田國士の戯曲も愛読した。休日には小倉市立記念図書館に通い始め、ここで森鷗外や夏目漱石、田山花袋、泉鏡花などの作品を読み、新潮社版の世界文学全集を手当たり次第に読み漁った。しかし、当時世評の高かった志賀直哉『暗夜行路』などは、どこがいいのかさっぱりわからなかったという。また、雑誌『新青年』で翻訳探偵小説の面白さに開眼、国内では江戸川乱歩の出現に瞠目、作品を愛読した。
1928年になっても、働き口は見つからなかった。手に職をつける仕事をしたいと考えた清張は[20]、小倉市の高崎印刷所に石版印刷の見習い工となる。月給は10円であった。しかし、本当の画工になれないと思った清張は、さらに別の印刷所に見習いとして入る。ここで基礎から版下の描き方を学び、同時に広告図案の面白さを知った。この頃、飲食店の経営はさらに悪化、一家は紺屋町の店を債権者に明け渡して、工場廃液の悪臭が漂う中島町に再び戻り、小さな食堂を開いた。しかし全く商売にならず、父は相変わらず借金取りに追われていた。印刷所の主人が麻雀に凝って仕事をしなくなったため、清張は毎晩遅くまで版下書きの仕事に追われた。
1929年3月、仲間がプロレタリア文芸雑誌を購読していたため、「アカの容疑」で小倉刑務所に約2週間留置された。釈放時には、父によって蔵書が燃やされ、読書を禁じられた。
高崎印刷所の主人が死去し経営状態が悪化、勤めを続けながら自宅で版下書きのアルバイトをした。将来に不安を感じ、1937年2月に印刷所を退職、自営の版下職人となった。この頃、朝日新聞西部支社(現・西部本社)が門司から小倉に社屋を移転し、最新設備による印刷を開始する旨の社告が載った。版下の需要が増えると見込んだ清張は、支社長の原田棟一郎に版下画工として使ってほしいと手紙を書き、下請け契約を得ることに成功した。1939年に広告部の嘱託、1940年には常勤の嘱託となった。なお1938年に長女、1940年に長男、1942年に次男が誕生している。
1950年代[編集]
処女作[編集]
木村毅の『小説研究十六講』を座右の書としていたが、元々は作家志望ではなかった。生活のためにアルバイトなどをしていたところ、『週刊朝日』の懸賞小説の応募を見つけ、賞金目当てに暇を見つけてはシャープペンで小説を書き続けた[41]。1951年に書いた処女作『西郷札』が『週刊朝日』の「百万人の小説」の三等に入選[注釈 9]。この作品は第25回直木賞候補となった。この年初めて上京。全国観光ポスター公募でも『天草へ』が推選賞を取った。芥川賞受賞[編集]
1952年、木々高太郎の勧めで『三田文学』に「記憶」「或る『小倉日記』伝」を発表。同年、日本宣伝美術協会九州地区委員となり、自宅を小倉事務所とした。1953年に「或る『小倉日記』伝」は直木賞候補となったが、のちに芥川賞選考委員会に回され、選考委員の一人であった坂口安吾から激賞され[注釈 10]、第28回芥川賞を受賞。
同年、『オール讀物』に投稿した「啾啾吟」が第1回オール新人杯佳作を得た。
1955年から『張込み』で推理小説を書き始め、1957年に短編集『顔』が第10回日本探偵作家クラブ賞(現・日本推理作家協会賞)を受賞。同年から雑誌『旅』に『点と線』を連載する。翌年刊行され、『眼の壁』とともにベストセラーとなった。「清張以前」「清張以後」という言葉も出て、「清張ブーム」が起こった[2]。『放送朝日』1957年8月号特集「テレビジョン・エイジの開幕に当たってテレビに望む」に寄せた評論で、テレビ番組に対する大宅壮一の発言「一億白痴化運動」に“総”の一字を挿入、「かくて将来、日本人一億が総白痴となりかねない」(一億総白痴化)と述べ、これは流行語となった。
その後も執筆量は衰えず、『ゼロの焦点』『かげろう絵図』『黒い画集』『歪んだ複写』などを上梓。執筆量の限界に挑んだ。清張の多作は同時代の作家にとっても驚きであり、種々の憶測も呼んだ。作家の平林たい子は韓国の雑誌『思想界』1962年8月号に「朝から晩まで書いているんですけど、何人かの秘書を使って資料を集めてこさせて、その資料で書くだけですからね。松本と言えば人間ではなく『タイプライター』です」と発言した。これに対し清張は「事務処理をする手伝いの人が一人いるのみで、事実に反する」と反論している[46]。しかしのち、書痙となり、以後は口述筆記をさせ、それに加筆するという形になった。
死去[編集]富士見台霊園の墓1992年4月20日、脳出血のため東京女子医科大学病院に入院、手術は成功したが、7月に病状が悪化、肝臓癌であることが判明し、8月4日に死去した(82歳没)[1]。
遺書には「自分は努力だけはしてきた」などと記されていた[78]。 遺書の日付は1989年6月10日夜、ヨーロッパ取材旅行の前日となっていた。『神々の乱心』『江戸綺談 甲州霊嶽党』(後者は未単行本化)が絶筆。
法名は清閑院釋文張。
没後の動き[編集]
- 1994年 - 清張の業績を記念して日本文学振興会が松本清張賞制定。
- 1998年 - 北九州市立松本清張記念館が開館(書斎や書庫を再現)。同館を事務局として松本清張研究会が発足[79]。
- 2004年 - テレビ朝日が『黒革の手帖』で、清張作品の映像化を定番化。以後随時、単発大型ドラマを編成。
- 2009年 - 北九州市が生誕100年記念事業を実施。1月から12月まで幼少時の滞在地を含む清張ゆかりの全国各地で展開された。
- 2010年5月 - 北九州市が市道大門木町線に「清張通り」の通称を命名した[80]。
- 2013年8月 - 復員直後の昭和20年から8年間住んでいた北九州市小倉北区黒住町の旧居が解体される。
- 2014年12月 - 鳥取県日南町の日野上地域振興センターに、松本清張資料室がオープン[81]。
- 2016年4月6日 - 清張の旧居近くにあった小倉北区黒住町にある黒住公園が記憶継承のため「くろずみ清張公園」に名称変更された[82]。
- 2020年4月6日 - 公園の名称の由来を残すための碑が建てられた[83]。
- 2018年9月16日までに、北九州市立中央図書館の書棚から、『松本清張全集』66冊のうち62冊が無くなったことが判明した[84]。同年11月末に、この被害を知った全国6件ほどからの寄贈の申し出のうち、保存状態の良かった福岡県宗像市の80代男性からの全集を受け取って、書棚に戻した[85]。
- 2019年3月16日~5月12日 - 神奈川県立近代文学館で特別展「巨星・松本清張」が開催された[86]。
- 北九州市立松本清張記念館 北九州市小倉北区城内2番3号 社会派推理小説をはじめ、歴史小説、古代史、現代史など、様々なジャンルに渡って創作活動を続けた北九州市出身の作家・松本清張。その偉大な業績を称え,後世に継承していくために、氏の「人と作品」をさまざまな資料と映像でとらえ展示するのが「松本清張記念館」です。鉄筋コンクリート造地下1階、地上2階建ての中には、「清張文学の全貌」コーナーや企画展示室、東京都杉並区の氏の自宅及び書庫、応接間、書斎などがあります。氏の七回忌にあたる平成10年8月4日に開館しました。
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