この想いでサイトは、 北里 柴三郎(近代日本医学の父)さまを承継するために作成されました。
享年78歳 、誕生日 1853年1月29日、命日 1931年6月13日.
※メッセージの投稿や、想いでの共有はサインイン(記帳)で可能になります。
※このサイトで故人への弔意・思い出を自由に投稿することができます。
本名:北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう)
戒名:-
墓地:北里柴三郎の墓所、東京
北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう〈名字の読みは後述〉、嘉永5年12月20日〈1853年1月29日〉- 昭和6年〈1931年〉6月13日)は、「近代日本医学の父」として知られる微生物学者・教育者。1889年(明治22年)に破傷風菌の純粋培養に成功、翌1890年(明治23年)に血清療法を開発、さらに、1894年(明治27年)にペスト菌を発見し、「感染症学の巨星」と呼ばれる。
貴族院議員を務め、位階勲等は従二位・勲一等・男爵。医学博士、第1回ノーベル生理学・医学賞最終候補者(15名のうちの1人)[1]、私立伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)創立者兼初代所長、土筆ヶ岡養生園(現・東京大学医科学研究所附属病院)創立者兼運営者、私立北里研究所、北里研究所病院(現・学校法人北里研究所)創立者兼初代所長ならびに北里大学学祖、慶應義塾大学部医学科(現・慶應義塾大学医学部)初代医学科学長、慶應医学会初代会長、慶應義塾大学病院初代病院長、日本医師会創立者兼初代会長。
1871年(明治4年)、藩立の西洋医学所に入学[4]。そこで柴三郎は教師のマンスフェルトに出会い、医学の世界を教えられ、これをきっかけに医学の道に目覚めることになった。マンスフェルトから特別に語学を教わった柴三郎は短期間で語学を習得し、2年目からはマンスフェルトの通訳を務めるようになった。マンスフェルト、職員、生徒の集合写真にはマンスフェルトの横に柴三郎が写っている[5]。
1875年(明治8年)、柴三郎は23歳で上京し、東京医学校(現・東京大学医学部)へ進学したが、在学中よく教授の論文に口を出していた為、大学側と仲が悪く、何度も留年した。
1883年(明治16年)、柴三郎は医学士となった。在学中に「医者の使命は病気を予防することにある」と確信するに至り、予防医学を生涯の仕事とする決意をし、「医道論」を書いた。演説原稿が残っている[6]。卒業時の成績(この時、31歳)は26名中8位であった[7]。その後、長與專齋が局長であった内務省衛生局へ就職した。
柴三郎は同郷で熊本医学校の同期生であり、東大教授兼衛生局試験所所長を務めていた緒方正規の計らいにより、1885年(明治18年)、ドイツのベルリン大学へ留学した。緒方正規と北里柴三郎は同郷で、熊本医学校では同期であったが、緒方は北里より3年早く東京医学校に入ったので、北里が東京医学校を卒業した時には、緒方は内務省衛生局では上司の立場になっていた。
1890年(明治23年)には血清療法をジフテリアに応用し、同僚であったベーリングと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表した。第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に「北里柴三郎」の名前が挙がったが、結果は抗毒素という研究内容を主導していた柴三郎でなく、共同研究者のベーリングのみが受賞した。柴三郎が受賞できなかったのは、ベーリングが単独名でジフテリアについての論文を別に発表していたこと、ノーベル委員会や(選考にあたった)カロリンスカ研究所が柴三郎は実験事実を提供しただけで免疫血清療法のアイディアはベーリング単独で創出したとみなしたこと[注 2]、賞創設直後の選考でのちのような共同授賞の考え方がまだなかったことなどが要因として挙げられている[11]。柴三郎に対する人種差別を理由とする明確な証拠は見つかっていない[注 3][11]。
論文がきっかけで北里柴三郎は欧米各国の研究所、大学から招聘の依頼を数多く受けるが、国費留学の目的は日本の脆弱な医療体制の改善と伝染病の脅威から国家国民を救うことであるとして、柴三郎はこれらを固辞し、1892年(明治25年)に日本に帰国した。
福澤諭吉は、北里が海外で大きな快挙を成し遂げたのにそれに相応しい研究環境が用意されないことを深く憂いて、全面協力と多大な資金援助を行い、1892年(明治25年)10月に「私立伝染病研究所」を現在の芝公園内に設立、北里をその初代所長とした。この時、福澤諭吉57歳、北里柴三郎40歳である。同年11月には、伝染病研究所は大日本私立衛生会(副会頭は長与専斎、この長与と福沢は適塾では同じ塾生の間柄)の所属となり、年間3600円の財政支援を受けた。
1893年(明治26年)、伝染病研究所が手狭になったので、東京府知事より払い下げられた芝区愛宕町の内務省の用地に移転を計画した。しかし、移転先の地域に住む近隣住民たちや東大初代総長である渡辺洪基らの妨害にあった。彼らは、移転の反対運動を起こし、北里のやっている研究がひどく危険で人体に有害なものであることを声高に叫んだ。そこで、福沢は移転予定地の近くに次男の捨次郎の住居を新築して住まわせた。そして、福澤は「北里の研究は安全です。私の次男が近くに住んでいます。近隣住民の心配はご無用です」と言って、反対運動を静めた。このように、福沢は北里の研究をいつも外野から後方支援した。
1894年(明治27年)、北里柴三郎はペストの蔓延していた香港に政府・内務省から調査研究するように派遣され、病原菌であるペスト菌を発見するという大きな業績を上げた[13]。同じ頃、東大も青山胤通を派遣するが、青山は不運にもペストにかかってしまった。この時、東京大学派に属し青山と親交のあった森林太郎[注 4]は、北里の発見したペスト菌がニセモノであると「鴎外全集~北里と中浜と~」(第三十三巻)の中で批判している。
北里柴三郎記念館 熊本県阿蘇郡小国町北里3199
北里柴三郎の名言
〇 細菌学者は、国民にとっての命の杖とならねばならない
〇 研究だけをやっていたのではダメだ。それをどうやって世の中に役立てるかを考えよ
〇 君、人に熱と誠があれば何事でも達成するよ。よく世の中が行き詰ったと云う人があ
るが、是は大いなる誤解である。世の中は決して行き詰らぬ 若し行き詰ったもの
があるならば、これは熱と誠がないからである
〇 医者と坊主は、手足をそなえた一人前の為すべき業ではありません。柴三郎、この世
に生をうけてより志は天下国家にあるのです。 わたくしは、その為にこそひたす
ら武を練り、文を学んで今日にいたりました。 なんでいまさら便々と本読みの
連中に加われましょうや
〇 医者の使命は、病気を予防することにある
〇 医の真の目的は大衆に健康を保たせ、国を豊かに発展させることにある
〇 人生に摂生保険の方法を教えて、体の大切さを知らせ病を未然に防ぐこと
〇 人を導いて病気を未然に防ぐことこそ、医道である
〇 いくら志だけあっても、学力を伴わない者が世間で信用されることはありません
〇 事を処してパイオニアたれ
※注:このサイトは、北里柴三郎に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
享年78歳 、誕生日 1853年1月29日、命日 1931年6月13日.
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本名:北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう)
戒名:-
墓地:北里柴三郎の墓所、東京
関連リンク
北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう〈名字の読みは後述〉、嘉永5年12月20日〈1853年1月29日〉- 昭和6年〈1931年〉6月13日)は、「近代日本医学の父」として知られる微生物学者・教育者。1889年(明治22年)に破傷風菌の純粋培養に成功、翌1890年(明治23年)に血清療法を開発、さらに、1894年(明治27年)にペスト菌を発見し、「感染症学の巨星」と呼ばれる。
貴族院議員を務め、位階勲等は従二位・勲一等・男爵。医学博士、第1回ノーベル生理学・医学賞最終候補者(15名のうちの1人)[1]、私立伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)創立者兼初代所長、土筆ヶ岡養生園(現・東京大学医科学研究所附属病院)創立者兼運営者、私立北里研究所、北里研究所病院(現・学校法人北里研究所)創立者兼初代所長ならびに北里大学学祖、慶應義塾大学部医学科(現・慶應義塾大学医学部)初代医学科学長、慶應医学会初代会長、慶應義塾大学病院初代病院長、日本医師会創立者兼初代会長。
1871年(明治4年)、藩立の西洋医学所に入学[4]。そこで柴三郎は教師のマンスフェルトに出会い、医学の世界を教えられ、これをきっかけに医学の道に目覚めることになった。マンスフェルトから特別に語学を教わった柴三郎は短期間で語学を習得し、2年目からはマンスフェルトの通訳を務めるようになった。マンスフェルト、職員、生徒の集合写真にはマンスフェルトの横に柴三郎が写っている[5]。
1875年(明治8年)、柴三郎は23歳で上京し、東京医学校(現・東京大学医学部)へ進学したが、在学中よく教授の論文に口を出していた為、大学側と仲が悪く、何度も留年した。
1883年(明治16年)、柴三郎は医学士となった。在学中に「医者の使命は病気を予防することにある」と確信するに至り、予防医学を生涯の仕事とする決意をし、「医道論」を書いた。演説原稿が残っている[6]。卒業時の成績(この時、31歳)は26名中8位であった[7]。その後、長與專齋が局長であった内務省衛生局へ就職した。
柴三郎は同郷で熊本医学校の同期生であり、東大教授兼衛生局試験所所長を務めていた緒方正規の計らいにより、1885年(明治18年)、ドイツのベルリン大学へ留学した。緒方正規と北里柴三郎は同郷で、熊本医学校では同期であったが、緒方は北里より3年早く東京医学校に入ったので、北里が東京医学校を卒業した時には、緒方は内務省衛生局では上司の立場になっていた。
1890年(明治23年)には血清療法をジフテリアに応用し、同僚であったベーリングと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表した。第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に「北里柴三郎」の名前が挙がったが、結果は抗毒素という研究内容を主導していた柴三郎でなく、共同研究者のベーリングのみが受賞した。柴三郎が受賞できなかったのは、ベーリングが単独名でジフテリアについての論文を別に発表していたこと、ノーベル委員会や(選考にあたった)カロリンスカ研究所が柴三郎は実験事実を提供しただけで免疫血清療法のアイディアはベーリング単独で創出したとみなしたこと[注 2]、賞創設直後の選考でのちのような共同授賞の考え方がまだなかったことなどが要因として挙げられている[11]。柴三郎に対する人種差別を理由とする明確な証拠は見つかっていない[注 3][11]。
論文がきっかけで北里柴三郎は欧米各国の研究所、大学から招聘の依頼を数多く受けるが、国費留学の目的は日本の脆弱な医療体制の改善と伝染病の脅威から国家国民を救うことであるとして、柴三郎はこれらを固辞し、1892年(明治25年)に日本に帰国した。
福澤諭吉は、北里が海外で大きな快挙を成し遂げたのにそれに相応しい研究環境が用意されないことを深く憂いて、全面協力と多大な資金援助を行い、1892年(明治25年)10月に「私立伝染病研究所」を現在の芝公園内に設立、北里をその初代所長とした。この時、福澤諭吉57歳、北里柴三郎40歳である。同年11月には、伝染病研究所は大日本私立衛生会(副会頭は長与専斎、この長与と福沢は適塾では同じ塾生の間柄)の所属となり、年間3600円の財政支援を受けた。
1893年(明治26年)、伝染病研究所が手狭になったので、東京府知事より払い下げられた芝区愛宕町の内務省の用地に移転を計画した。しかし、移転先の地域に住む近隣住民たちや東大初代総長である渡辺洪基らの妨害にあった。彼らは、移転の反対運動を起こし、北里のやっている研究がひどく危険で人体に有害なものであることを声高に叫んだ。そこで、福沢は移転予定地の近くに次男の捨次郎の住居を新築して住まわせた。そして、福澤は「北里の研究は安全です。私の次男が近くに住んでいます。近隣住民の心配はご無用です」と言って、反対運動を静めた。このように、福沢は北里の研究をいつも外野から後方支援した。
1894年(明治27年)、北里柴三郎はペストの蔓延していた香港に政府・内務省から調査研究するように派遣され、病原菌であるペスト菌を発見するという大きな業績を上げた[13]。同じ頃、東大も青山胤通を派遣するが、青山は不運にもペストにかかってしまった。この時、東京大学派に属し青山と親交のあった森林太郎[注 4]は、北里の発見したペスト菌がニセモノであると「鴎外全集~北里と中浜と~」(第三十三巻)の中で批判している。
北里柴三郎記念館 熊本県阿蘇郡小国町北里3199
北里柴三郎の名言
〇 細菌学者は、国民にとっての命の杖とならねばならない
〇 研究だけをやっていたのではダメだ。それをどうやって世の中に役立てるかを考えよ
〇 君、人に熱と誠があれば何事でも達成するよ。よく世の中が行き詰ったと云う人があ
るが、是は大いなる誤解である。世の中は決して行き詰らぬ 若し行き詰ったもの
があるならば、これは熱と誠がないからである
〇 医者と坊主は、手足をそなえた一人前の為すべき業ではありません。柴三郎、この世
に生をうけてより志は天下国家にあるのです。 わたくしは、その為にこそひたす
ら武を練り、文を学んで今日にいたりました。 なんでいまさら便々と本読みの
連中に加われましょうや
〇 医者の使命は、病気を予防することにある
〇 医の真の目的は大衆に健康を保たせ、国を豊かに発展させることにある
〇 人生に摂生保険の方法を教えて、体の大切さを知らせ病を未然に防ぐこと
〇 人を導いて病気を未然に防ぐことこそ、医道である
〇 いくら志だけあっても、学力を伴わない者が世間で信用されることはありません
〇 事を処してパイオニアたれ
※注:このサイトは、北里柴三郎に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
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