この追悼サイトは、 城山 三郎(経済小説の開拓者)さまのために作成されました。
享年79歳 、誕生日 1927年8月18日、命日 2007年3月22日
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城山 三郎(しろやま さぶろう、1927年(昭和2年)8月18日[2] - 2007年(平成19年)3月22日)は、日本の小説家。本名:杉浦 英一(すぎうら えいいち)[2]。
経済小説の開拓者であり、伝記小説、歴史小説も多く著している。
生涯[編集]愛知県名古屋市中区生まれ[2]。名古屋市立名古屋商業学校(現在の名古屋市立向陽高等学校)を経て[2]、1945年(昭和20年)愛知県立工業専門学校(現在の名古屋工業大学)に入学[2]。理工系学生であったため徴兵猶予になるも、大日本帝国海軍に志願入隊[2]。海軍特別幹部練習生として[2]、特攻隊である伏龍部隊に配属になり[要出典]、訓練中に終戦を迎えた。1946年(昭和21年)、東京産業大学(現在の一橋大学)予科入学[2]、1952年(昭和27年)一橋大学(山田雄三ゼミナール)を卒業[2][3]。卒業論文は「ケインズ革命の一考察」。
父が病気になったため帰郷し、岡崎市にあった愛知学芸大学(現在の愛知教育大学)商業科文部教官助手に就任[2]。担当は景気論[2]。1954年(昭和29年)、丸山薫の紹介で、永田正男、宇佐美道雄、国司通、岩崎宗治と月一回の読書会「くれとす」を始める[2]。同年、名古屋の「近代批評」の同人に加わる[2]。1957年(昭和32年)3月、名古屋市千種区の城山八幡宮(末森城址)付近に転居し、城山三郎と名乗る[2]。近くに城山八幡宮がありことと、3月に転居したことを組み合わせたペンネームである[2]。同年12月31日、神奈川県茅ヶ崎市に転居[2]。1963年(昭和38年)6月、愛知学芸大学専任講師を退職し[2]、日本作家代表団(団長・木下順二)の一員として訪中[2]。以後、作家業に専念する。
2007年(平成19年)3月22日午前6時50分、間質性肺炎のため、茅ヶ崎市の茅ヶ崎徳洲会総合病院で死去、79歳没[1][4]。ウイルス性肺炎により快癒不能となったため、家族の意向で無理な治療は止め、呼吸の安楽措置になった[5]。お別れの会には、中曽根康弘、小泉純一郎、河野洋平、土井たか子、五木寛之らが出席した[2]。
受賞歴[編集]※注:このサイトは、城山三郎に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
享年79歳 、誕生日 1927年8月18日、命日 2007年3月22日
※ 城山さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
城山 三郎(しろやま さぶろう、1927年(昭和2年)8月18日[2] - 2007年(平成19年)3月22日)は、日本の小説家。本名:杉浦 英一(すぎうら えいいち)[2]。
経済小説の開拓者であり、伝記小説、歴史小説も多く著している。
生涯[編集]愛知県名古屋市中区生まれ[2]。名古屋市立名古屋商業学校(現在の名古屋市立向陽高等学校)を経て[2]、1945年(昭和20年)愛知県立工業専門学校(現在の名古屋工業大学)に入学[2]。理工系学生であったため徴兵猶予になるも、大日本帝国海軍に志願入隊[2]。海軍特別幹部練習生として[2]、特攻隊である伏龍部隊に配属になり[要出典]、訓練中に終戦を迎えた。1946年(昭和21年)、東京産業大学(現在の一橋大学)予科入学[2]、1952年(昭和27年)一橋大学(山田雄三ゼミナール)を卒業[2][3]。卒業論文は「ケインズ革命の一考察」。
父が病気になったため帰郷し、岡崎市にあった愛知学芸大学(現在の愛知教育大学)商業科文部教官助手に就任[2]。担当は景気論[2]。1954年(昭和29年)、丸山薫の紹介で、永田正男、宇佐美道雄、国司通、岩崎宗治と月一回の読書会「くれとす」を始める[2]。同年、名古屋の「近代批評」の同人に加わる[2]。1957年(昭和32年)3月、名古屋市千種区の城山八幡宮(末森城址)付近に転居し、城山三郎と名乗る[2]。近くに城山八幡宮がありことと、3月に転居したことを組み合わせたペンネームである[2]。同年12月31日、神奈川県茅ヶ崎市に転居[2]。1963年(昭和38年)6月、愛知学芸大学専任講師を退職し[2]、日本作家代表団(団長・木下順二)の一員として訪中[2]。以後、作家業に専念する。
2007年(平成19年)3月22日午前6時50分、間質性肺炎のため、茅ヶ崎市の茅ヶ崎徳洲会総合病院で死去、79歳没[1][4]。ウイルス性肺炎により快癒不能となったため、家族の意向で無理な治療は止め、呼吸の安楽措置になった[5]。お別れの会には、中曽根康弘、小泉純一郎、河野洋平、土井たか子、五木寛之らが出席した[2]。
受賞歴[編集]
- 1957年(昭和32年)-『輸出』で第4回文學界新人賞[2]。
- 1959年(昭和34年)-『総会屋錦城』で第40回直木賞[2]。
- 1975年(昭和51年)- 『落日燃ゆ』で吉川英治文学賞[2]、毎日出版文化賞[2]。
- 1996年(平成8年)- 第44回菊池寛賞[2]。
- 2002年(平成14年)- 朝日賞[2][6]。
- 男子の本懐 / 他
- 落日燃ゆ / 辛酸 田中正造と足尾鉱毒事件
- 毎日が日曜日 / 輸出
- 官僚たちの夏 / 真昼のワンマン・オフィス
- 雄気堂々
- 小説日本銀行 / 総会屋錦城
- 鼠 / 乗取り
- 大義の末 / 一歩の距離 小説予科練 / 忘れ得ぬ翼 / 生命の歌
- 素直な戦士たち / 今日は再び来らず
- 黄金の日日 / 望郷のとき 侍・イン・メキシコ / 鳩待始末
- 役員室午後三時 / 盲人重役
- 一発屋大六 / 打出小槌町一番地
- 重役養成計画 / イチかバチか
- プロペラ機・着陸待て / 他
- 男子の本懐 / 賢人たちの世
- 落日燃ゆ / 官僚たちの夏
- 雄気堂々
- 辛酸 / 鼠
- もう、きみには頼まない / 「粗にして野だが卑ではない」
- 本田宗一郎との100時間 / わしの眼は十年先が見える
- 硫黄島に死す
- 生命の歌
- 零からの栄光
- 忘れ得ぬ翼
- 落日燃ゆ
- 指揮官たちの特攻 etc.
組織と個人の関係を通して人間の生き方を問い続けた気骨の作家。直木賞を受賞した「総会屋錦城」や「小説 日本銀行」のほか数々の話題作で「経済小説」というジャンルを切り開いた。昭和2年に生まれ、17歳で海軍の少年兵に志願した。軍隊での体験が小説家・城山三郎の原点だ。戦後企業という組織に個人がつぶされていくさまは、戦時中と何ひとつ変わらないのではないかという思いを城山は小説に込めた。軍隊での体験や、個人個人がそれぞれの生き方をみつけていくことの大切さを語る。
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